第4話 働くって、何ですか?

「これで二百三敗目か」

 手から零れ落ちた不採用の通知をそのままに、総士はベッドの上に倒れこんでいた。

 何故駄目だったのか?

 一瞬、緋色に聞いてみようとも思ったが、恥の上塗りでしかないと直ぐにその考えは捨てた。

「これからどうするか?綾那の実家に・・・・・・いいや、こんな不甲斐ない奴をコネでとか」

 情けなかった。ただただ情けなかった。

 何が情けないのだろうか?

 ふと、そんな疑問が頭を過ぎる。

 二百戦以上負け越している事か?

 それとも特にこれといった取柄が無い事?

 それとも何時までも過去の事を引きずっている事か?

「全部が駄目だろ・・・・・・って言うのは思考の放棄か?」

 全部や全てというのは、大まかな規模を示す際に非常に使いやすい言葉だ。

 しかし今は自分の悪い部分が何処なのか、具体的な部分を模索している。

 それなのに全部と一括りしてしまったら、何処を改善したらよいのか分からない。

 事実、本当に何もかも全部駄目だったら手の施しようがない。馬鹿は死んでも治らないを体現するようなものだ。

 話を戻すが、自分の改善すべき点とは一体どこなのか?

 やはり器用貧乏というか、一つの事にこだわりが少ない事か。確かに執着心は人一倍少ないとは思う。

「目標・・・・・・そういや、小学校の頃から色々言われてたっけか」

 幼い頃の記憶。小学校低学年の時に授業か何かで七夕の短冊を書いた時の事。

 同級生達が無邪気に夢を短冊に書く中、総士は一人筆が止まっていた。

 皆が将来なりたい職業や、やりたい事、夢を語りながら思い思いに書いていく中、総士だけは夢も希望も語る事ができなかった。

 否、夢ならあった。だがその夢が叶う事は決して無い。いかに幼かろうと無知だろうともそれだけは断言できた。

『お父さんとお母さんと司と一緒に楽しく暮らしたい』

 その夢をこれまで一度も口に出せなかった。絶対に叶う事の無い夢だと理解していたから。

 あるとすれば生存本能くらいなものか。

 家が無い者なら家を求め、食べ物が無い者なら食べ物を、金が無い者は金を、力が無い者は力を。

 だがそれを夢と呼んでいいのだろうか?

「夢なんかじゃない。ただの生存本能だ。犬猫や獣の類と変わらない原始的な欲求に過ぎない」

 そう、極めて原始的な本能でしかない。

 では夢とはなんなのだろうか?

 ある友人はサッカー選手になりたいと言った。別の友人は宇宙飛行士になりたいと言った。そのまた別の友人はお嫁さんになりたいと言った。色んな願望が並ぶ中、総士は。

「結局白紙で提出したっけ」

 短冊には何も書けなかった。先生にも色々言われたが何を言われたのか覚えていない。

 その日もきっと父親が待つ家に帰りたくなかった筈だからギリギリまで時間を潰そうかと考えていたのだろう。

 白紙で提出した事は毎年七夕飾りを見るたびに思い出すし、今も本心から短冊に願い事は書いた事は無い。

 綾那と付き合ってからは一応「いつまでも綾那と一緒にいられますように」とかそれっぽい事を書いているが、それは彼女に合わせてという意味合いが強い。

 話は戻るが夢とは一体なんなのか?

 実現不可能な事?叶う夢だってあるのだから違う。

 万人に認めてもらう事?自己満足の夢だってあるだろう。

 いくら思案した所で分かるものではないし、どの様な結論であったとしても意味は無いのだろう。

 唯一わかっている事。それは、叶う事の無い夢を見続けていると、次の夢を見る事ができなくなってしまうのだ。

 罪悪感、不甲斐なさ、情けなさ、嫌気。そんな事ばかりが頭の中を渦巻いて身動きが取れなくなってしまう。

 ならば捨てればいい?いいや、それはできない。

 仮にできたとしても、それはとても辛い事。

 何故なら「夢」とは自分にとって、最も根に座した本当の気持ちなのだから。

 ピピピピピピ・・・・・・

「ん、なんだ?」

 思考を遮る様に突然携帯が鳴り出す。

「誰だ?って、なんだただのアラームか」

 携帯を確認するとスケジュールが表示されている。そこには本、返却。とだけ書かれていた。

「んぁー、そうか、美術の本・・・・・・返しに行かないと」

 面接対策に借りてきていた美術の本を手にとって改めて眺めてみる。

「・・・・・・やっぱり俺には縁遠い分野だったな」

 短期間だった為、擦り切れるまでとはいかないが何回も読み返し、必死に勉強はした。だが、今にして思えばこうやって勉強してどうこうするものではなかったのかもしれない。

 そもそも芸術というのは娯楽、趣味趣向、嗜好として楽しむもの。

 であればまず楽しむ事ができなければ身に付かない、いや「実」にならないだろう。

 ならば自分は芸術を楽しんでいたか?

 否。

 覚えるべき課題であり、義務であり、仕事だった。

 そこに楽しむ気持ちは無く、遊びもない。

 必要だったから勉強していた。好きも嫌いも無い。ただただこれから必要になる知識だったから取り入れただけ。そこには興も無ければ悦も無い。

「・・・・・・何で人は、ただの絵に大金をつぎ込むだろうな?」

 無造作に、けれど傷はつけないように本を鞄に詰めた。

 それと同時に思考にも蓋を閉じる。

 これ以上思考しても意味などないと切り捨てるかのように。


「・・・・・・またか」

 シトシトと愚図りだした空を恨めしそうに見上げながら愚痴をこぼす。それが突然の雨に対して漏らしたのか、それとも自分の学習能力の無さに対してなのかは本人にも分からない。

 無事に図書館で本を返却してきたまではいいが、天気予報はおろか、雲色の一つも観ずアパートを出てきてしまったが為に何時かの時のように、また雨宿りする羽目になってしまっていた。

「はぁー・・・・・・ここから家までの最短は・・・・・・ロシェカは駄目か」

 やはり突然の雨で既に順番待ちが発生していた。

「二時間待ちか。バス亭はここからじゃ微妙だし・・・・・・またあの時と同じか」

 場所こそ違うものの状況としては、緋色と初めて出会った日とほとんど同じ。

 不採用通知で憂鬱になり、本を返しにいったら雨に降られて立ち往生。

 違うのは今回本を返却しに行ったのが大学の図書館ではなく、都営の図書館である事くらい。

 立地的にも大学に近く、専門書こそ少ないものの広い範囲のジャンルを取り揃えていて徒歩圏内でもある為、総士も頻繁に利用していた。

「・・・・・・もしかしてここから近いか?」

 ふと、以前雨宿りした喫茶店がある通りが近くになるのではないかと思い至る。

 前回帰宅している途中で気が付いたのだが、あの喫茶店は総士のアパートから想像以上に近い場所にあったのだ。

 そして大学までのルートと図書館までのルートは、喫茶店のある辺りで合流する道筋になっている。

「ここからだとあそこ曲がって、ああ行けば、行けるか?うん、行けそうだな」

 頭の中の地図で何となく当たりを付け、実際に地図でも確認してみると総士の予想は正しかった。

「行ってみるか」

 その結論に迷いは無かった。

 実際には少々遠回りになるし、行く意味があるのかと問われれば合理的では無い判断だろう。

 だが足を向けられずにはいられなかった。

 緋色に会いたい。

 あの全てを見透かして、自分ではたどり着けない答えへと導いてくれるあの少女に会いたい。

 会って、教えてもらいたい。

 自分はどうしたらいいのかを。


「いらっしゃいませーって、おや?お客さんお久しぶりですねー。それにそんなずぶ濡れになって」

 初めてこの店に来た時と同じように店員の宇佐美が出迎えてくれる。

 総士はなんとか目的地に着けた事に安堵する。

「・・・・・・すみません、一人なんですけど」

「一名様ですね。今日は席空いてますよ。そういえば初めて来た時もこんな雨の時でしたよね。ちょっと待っててください、今タオル持ってきますから」

「え?・・・・・・あ!いや、すいません」

 結論から言えば、それなりに雨に打たれることになってしまった。アパートまでの道のりと比べたら確かに距離は近かったが、目と鼻の先にあった前回と違い数分歩く事になってしまった為、上着と靴は既にびしょ濡れになっていた。途中コンビニなどもあったにも関わらず、ただひたすらにこの店を目指してきたのだから当然だ。

(何やってんだろ、俺。傍迷惑過ぎだろ)

 コーヒーの香りと店内の暖房でようやく我に返り、踵を返そうとした。

「気にしなくても構いませんよ」

「え?」

「どんなお客様でもお迎えするのがうちのモットーですので。雨が止むまでゆっくりしていってください」

「でも俺っ、バフェ!?」

 突然視界が真っ白になる。

「はいはい、とりあえずそれで拭いちゃってください。風邪、引いちゃいますよ?」

 そういいながら宇佐美はタオルで総士の頭をわしゃわしゃと拭き始めた。

「い、いや、自分でできますから」

「いいからいいから、おりゃりゃりゃりゃ!」

「ホント、だいじょ、ちょ!?イタッ!イダダダダダダダダダダダダダダ!」

 最初こそ気恥ずかしさからタオルを引き離そうとしたが、宇佐美の手はどんどん加速していき擦る音が大きくなっている事に気がつき、危機感から本気でタオルを引き離そうとする。

 しかし何処からそんな力を出しているのか分からないくらいガッチリと握られた彼女の手に総士の手は弾き飛ばされていく。

「マ、マジ、イダイですから、チョ、店員さん止め『グキリ』ガッ!?」

 頭から肩にかけて拭きにかかった時、あまり鳴ってはいけないような音と共に首があらぬ方向に曲がった。

「およ?」

 ぐったりしたままピクリとも動かなくなった総士の頬を叩いてみるが意識が戻らない。

「うーん、とりあえず首を元に戻してから」

 グキリと再び大きな音を立てて首を元の位置に戻すと、何箇所か適当に叩いてみて何かを確信したのか、まるで何かの拳法でもするかのように指を尖らせる。

「さあ、この通信教育で学んだ古代中国式暗殺拳で蘇るのだぁ!ホォアチャー!」

「ヤメロー!」

 命の危機を本能的に察知したのか、飛び上がるようにして起き上がり、宇佐美から離れながらツッコミを入れる。

「通信教育とかそんなあやふやな技術を人に使うな!てか暗殺拳で蘇るわけがないだろ!?」

「えー、他のお客さんにからは極楽浄土に行ってお婆ちゃんに会って帰ってこれるくらい気持ちいいって評判なんですよ」

「臨死体験だよな!?それ本当に極楽浄土に向かう為に三途の川に片足突っ込んでいるだろう!?」

 店主が立派な髭を撫でながら「それもまた自由の一つの形」とのんきな事を言っているがそこまでツッコミの手が回す前に総士の息の方が上がっていた。

「はっぁはぁはぁ・・・・・・ここってこんなお店だったけ?」

 そんなやり取りをしている内に席に座れる程度には水気をふき取り、前と同じ席に案内されそこで、ようやく緋色がいない事に気が付いた。

「・・・・・・そんなもんか」

「ん?どうかなされましたか?」

「いいや、とりあえずブレンド一つ」

「はーい、かしこまりました」

 注文を受けて宇佐美が戻っていくのを尻目に、総士は深く腰かけた椅子に凭れかかるようにして座る。

 なんだか必要以上に体力を使ったせいなのか、それとも雨に長く打たれすぎたせいなのか、強い睡魔と気だるさに襲われ、瞼がとても重くなるのと同時に、全身にも力が入らなくなっていく。

(眠ぃ・・・・・・何で俺今こんなに眠いんだろ。お店で寝るとか、家で寝ればいいのに。でもコーヒー頼んじゃったしな。飲めば目も冴えるかな?あー、でもここのコーヒー美味かったしな。案外リラックスしすぎて逆に眠くなる・・・・・・)


 窓辺に差し込む夕日。

 自分が今まで何をしていたのか思い出せないが、その事に対してあまり疑問には思わない。

 好きでここにいるのだから、それで良いではないか。

 そう考えると、あらゆる事が些事に思えてくる。

 何となく一人でこの場所でボンヤリしているのがいい。

 一人でいれば自分を苦しめる悩みも煩わしい声も責任も憤りも、何も感じなくてすむのだから。

 父親の事も母親の事も妹の事も自分の事も、ここにいれば全部忘れられる。

 俺が俺でいられる。

 誰にも邪魔される事も無く、染められる事も無く、脅かされる事も無く。

 俺は自由でいられる。

 自由か。

 自由なら何をやってもいいんだよな。

 そうだな、自由なんだから何かやってみよう。

 さて、何をしたらいいんだろう?

 あれ?

 そもそも俺って何がしたいんだけ?

 今まで何をしてきたんだ?

 俺は一体なんなんだ?


「落ち武者かドザエもんですかね」

「え?」

 突然聞き覚えのある声で酷い物言いをされた。

 その瞬間、視界が暗転したかと思うと瞼の重みが徐々に薄れて、淡いランプのような光が目に入ってくる。

「んぁ?ぁー・・・・・・やべ、寝落ちしちまった」

 いつの間にか眠ってしまっていた事に気が付き、まだ重たい体をゆっくりと起こしながら周囲を見渡そうとすると背中から何かがずり落ちそうになったので慌てて受け止める。

「毛布?」

 見覚えの無い毛布だったが、誰がかけてくれたのかは大凡の見当は直ぐに付いた。

「あ、お目覚めになられましたか?今コーヒーお持ちいたしますね」

「すみません、ご迷惑を」

「ああ、気にしないでください。たまにお客さんのようにお昼寝されちゃう方も珍しくありませんから」

「はぁ。あ、時間は」

「大丈夫ですよ。あれから十五分位しか経っていませんから」

 思ったよりは時間が経っていなかった事に胸を撫で下ろしながらも、若干の罪悪感と気まずさに顔を俯かせる。

 人様の前でここまでみっともない姿をさらしたのは初めてに等しいかもしれない、と思うとそれだけで羞恥心がこみ上げてくるようだ。

「世の中には公共の場で化粧を直したり、バカ騒ぎしても罪悪感も羞恥心の一つも抱かない人なんて五万といるんですから、それよりは十二分にマシなんじゃないんですかね?」

 またあの声が、自分を夢の世界から引き戻した声が正面から聞こえた。

 まさかと思いながらゆっくりと顔を上げると

「星・・・宮、緋色?」

「どうも、お久しぶりです。面接の時以来ですね」

 同じ席の向かい側に座っていたのは始めて会った時と変わらない制服姿の緋色だった。

「どうして、ここに?」

「勿論、行きつけのお店ですから」

「あ、ああ、そうか。そうだったよな?」

「お兄さんこそどうしたんですか、こんな所で眠りこけて?」

 それを聞かれた途端、言葉が詰まる。言える訳が無かった。

 先行きに迷い、不安で、すがる様な気持ちで彼女に会いに来たなどとは。

「べ、別に、出先で雨に降られて、この店が近くにあったのを思い出したから雨宿りに」

「ふーん、まぁそういう事にしときますか。それにしてもお兄さんはアレですかね?」

「アレ?」

「雨男というか、色々と間の悪い人なんですかね」

 グサッと胸に刺さる。思い当たる節が有り過ぎて否定できないのだが。

 総士自身は真面目で勤勉だし、常に思慮深くあろうと心かけてもいる。自分自身に非があれば改善するよう努力する。

 しかし彼の人生はことごとく上手く回らない。

 一言で言ってしまえば壊滅的に運が無いのだ。時代や家族の事もあるが、それ以上に運がからむ場面になると必ず悪い目ばかりが出てしまう。

 雨男だというのも強ち間違いではなく、間の悪さが災いしたエピソードも数知れない。ちなみに綾那は超が付くほどの晴れ女である。

「イヤソンナコトナイヨー。オレヒトナミニハウンアルヨー」

「凄まじい棒読みですね」

「・・・・・・確かに不運な方かもしれないが、それでも俺は十二分に恵まれているつもりだ。少なくとも日本人として生きているうちは衣食住に困る事は無いし、彼女だっている。むしろ充実した人生を送っているほうだと思うぞ」

 そう言って自分は不幸ではない事をアピールするが、緋色は意に返すことなく自分のコーヒーをノンビリと味わいながら言う。

「目が泳いでますよ」

 真っ直ぐな瞳で覗き込むように言い放たれたその一言は、総士を黙らせるには十分だった。

「本当に幸せなら、そんな言い訳染みた言葉をツラツラと並べる必要も無いでしょう」

「い、いや、これはお前に、いかに俺が」

「私にじゃなくて、自分に言い聞かせているだけでしょ?」

「ッ!?」

「それに自分が大丈夫だとアピールするのなら、まずはもっと近しい人に言うべきです。それこそ彼女さんとか、ご家族とかにね」

「そ、それは・・・・・・」

「ついでに言うと私は、それ程お兄さんの事を心配していませんでしたよ」

 今日一番知りたくなかった事実に、おもわず椅子からズッコケそうになる。

「そ、そうかい」

「ちなみにですが、不採用の理由聞きたいですか?」

「いいのか、聞いても」

 倒れそうになる体を必死に耐えながら、なんとか平静を取り繕うが、引き攣った笑顔しか浮かべられない。

「お兄さんに関することだけなら別に構いません」

 コーヒーを飲み干して一息ついてから緋色は説明を始めた。

「とりあえず面接時点では、採用するか否かは社長の中では半々だったそうですよ」

「半々・・・・・・だから急遽実技試験を追加したのか?」

「いいえ、あれは元から内容に組み込まれていました。ただあの実技試験も費用が安くないんで最初に面接をして、ある程度ふるいにかけるんですよ」

「え、でも普通、実技試験とかの方が先で面接とか最後の最後が普通じゃないか?」

「お兄さん、自分があの時使った塗料とキャンバス、その他清掃なんかの費用の総額幾らか分かっていますか?」

 言われてみれば終わってから一度も考えた事が無かった。

 あの時の試験の様子、それを思い出しながら自分の描いた絵、キャンバスだって画用紙なんかのように安いものではないだろうし、絵の具とかも大量に使った記憶がある。加えて殴りつけるように描いたのであっちこっちに絵の具が飛び散っていたかもしれない。そう考えると掃除とか大変だったのでは?

「そ、そうだな、あまり安くはなかっただろうな」

「想像にお任せしますよ。ついでに言うと、うちに来る就職希望者もそれ程多くはないんでふるいにかけるのも大した苦労じゃないんです」

「とりあえずその辺の事情は分かった。それで俺は実技試験で駄目だったって事だな?」

「その通りです。では実技で何が悪かったのか分かりますか?」

「そりゃあ、絵は下手だし、意味分かんない絵、いや、絵とも呼べないような幼稚な絵だったから」

「絵の上手い下手は考慮していません」

「そりゃあそんな感じの事は言ってたが」

「簡単に言ってしまえば、相性診断のようなものです」

「ふむ?」

「うちの商会は、私を含む多くの芸術家を抱えています。ですので職員となれば当然私達との接触も増えます」

「そりゃあ、そうだろうな」

「それでお兄さんと相性の良さそうな人が、あまりいなかったんですよ」

 この評価については正直予想外だった。少なくとも人当たりの良さではそれなりに自信があったつもりなので思わず聞き返してしまう。

「ああ、うん。うん?え、俺、そんなに酷かったのか?」

「多分ですけど男性陣はほぼ全滅、女性陣もある程度は付き合えると思いますけど、ある程度レベルなら雇う理由もないでしょう?」

「そりゃあ優秀じゃなければ切られるってのはわかるが、でも人付き合いなんて実際にあってみないと」

「その為に雇うコストとリスクを比較して、大して旨味がなさそうだったから、不採用だったんですよ」

 一方的な物言いだが、確かにその通りだ。向こうだって商売なのだから出費を極力控えて最大の利益を設けたいというのが本音。合理的に判断して価値が見合わないのなら、切られるのも納得だ。

「結局は利益優先ってわけだな」

「否定はしませんし、間違っているとは言いません。残念ながら私のやりたい事の多くはお金もかかりますから」

「なるほど。それで俺は役不足だと判断されたって事だな」

「そういう事ですね」

「・・・・・・少しぐらいフォローくらいしろよ」

 呟く様に本音がこぼれた。

「そういう事こそ彼女さんに甘えてください」

「・・・・・・ああ、そうさせてもらうよ」

 いつの間にか運ばれてきていたコーヒーを苛立ちに任せて一気に飲み干そうとする・・・・・・が、

「ニガッ!?ぐぇ、何だこれ、めっちゃくちゃニゲェえ」

 総士の飲んだコーヒーは以前飲んだ時とは比べ物にならないくらい苦かった。ただ苦いのではなく、渋いというか鈍いというか、ブラックとかエスプレッソだからという次元の苦さではない。

 炭や炭化し食べる事ができなくなった異物を口に放り込まれて、生理的に吐き出しそうになるくらいに苦かったのだ。

 このリアクションに吊られて緋色も驚き、何が起きたのか全く分からないといった表情を浮かべていた。

「な、なんだこれ?お前、俺が寝てる間になんかしたのか?」

「し、知りませんよ。それにコーヒーだってお兄さんが起きてから持ってきてもらったものでしょ?」

 言われてみると確かにそうだった。自分が起きた事を宇佐美が気付いて、それから用意してもらって、話し込んでいる内に、いつの間にか運ばれてきていた。

「え?っていう事はこれ、マスターが?」

 恐る恐るマスターの方を見てみると、その表情はとても爽やかな、それでいて上品な微笑みを浮かべていた。

「いやー、大成功でしたねマスター」

 その横で宇佐美は対照的に、悪戯が成功した時の子供のように無邪気さに小悪魔さを足して二で割ったような悪い笑みを浮かべていた。

「・・・・・・またですか」

「また?何か知ってるのか?」

「マスターは割りと悪戯好きといいますか、物静かそうに見えて結構お茶目な所があって。たまにこういう事をしてくるんですよ」

「なんでさ?」

「一言で言えば場の空気を変える為ですね。ほら、さっきまで私達の雰囲気も悪かったでしょ?」

「それを壊す為にってか?」

「そういう事かと」

「それは・・・・・・なんというか、逆上する人だっているだろうに」

 そう言いながらも、驚きと呆れと混乱で、不思議と怒りや苛立ちは込み上げてこなかった。

 結果としてマスターの目論み通り、二人は完全に毒気を抜かれてしまっていた訳だが。

「はぁー・・・・・・なんかアホらしぃ。あぁあー、なにもかもバカらしい。全ては終わっちまったことだもんな。過去。それをいつまでも引きずってオメオメと。本当に・・・・・・馬鹿らしい」

「お兄さん・・・・・・」

「悪かったな」

「え」

「逆恨み、というか八つ当たりみたいな事言って」

「・・・・・・私の方こそ、辛く当たりすぎました。すみませんでした」

 互いに謝罪の意を表している二人の様子を、もう大丈夫そうだとマスターは黙ってサイフォンの方に向き直った。

「なんか、今日は迷惑かけっぱなしだな」

「そうなんです?」

「ああ、タオルとか借りたりしてな・・・・・・あ」

 気が付くと、その借りていたはずのタオルはいつの間にか回収され、上着もコートかけにいつの間にか吊るされている事に今更ながら気が付いた。

「・・・・・・何か食うか?」

 ここまで色々してもらっておいて、コーヒー一杯で帰るのは流石に失礼というか、悪い気がする。いや、多分そんな事をマスターは露にも思わないだろうが、総士自身もこれ以上恥の上塗りはしたくなかったのが正直な所だった。

「突然どうしたんですか?」

「いや、何か注文すべきかなって。奢るよ」

 たかが奢りくらいで自分の器が大きくなるとは思わないが、それぐらいはできると考えた方が幾らか心持ちも軽くなる。

「・・・・・・私の方が多分お金持ってますよ?」

「別にいいさ。これでも倹約家、っていうか殆ど金を使わないから、これ位どうって事はないさ」

 あまり服飾や娯楽に興味が無い総士の財布は、確かに他の生活保護受給者より大分厚みがあったりする。電子マネーで厚みというのも可笑しな話であるが。

「そうですか?じゃあお言葉に甘えて」

 緋色もそのままあまり遠慮することなく、二人でコーヒーのお代わりとケーキ(緋色は三つ、総士は一つ)を注文した。

「いいんですか一つで?」

「一応、一番高そうなやつを頼んだつもりだが。というかお前こそ三つって」

「糖分摂取は頭脳労働する上で必須ですから」

「いや、だからって三つは太るぞ?」

 珍しく総士の方から皮肉を言うと、緋色は苦笑しながら総士を非難した。

「あー女の子にそんな事言うなんて、サイテーですね」

「同じような事言って、後日悲鳴を上げていた女を知ってるんでね。親切心さ」

「わりと皮肉屋さんなんですね?始めて会った時とは大違いです」

「そういうお前はやっぱり普通の女子高生だよな。とても働いている人間とは思えないよ」

「そうですか?じゃあ働いている人と働いていない人の違いってなんなんでしょうかね?」

「そりゃあ・・・・・・なんだろう?」

 改めて言われてみると、どう答えたらいいのか困った。

「働いている奴が優秀で、働いていない奴は負け犬って二分するのは違うんだろうな。働いている奴でも無能な奴はいるし、優秀なのにあえて働いていない奴だっている訳だし」

 少なくとも生活保護がある内は、生活の為に働く必要が無い。優秀な人物であるにもかかわらず、やりたい事や趣味を優先して定職に付かないというのも珍しい話ではなかった。

 逆に職に在りついているにもかかわらず汚職や不正、横領といった不祥事を起こす者もいる。

 もっとも一つでも不正が発覚したら、魔女狩り宜しく誹謗中傷の嵐が身内一族全てに降りかかるのだが。

「この間もニュースでありましたね。何工業って言いましたっけ?」

「ああ、○×重工の事だろ。実はあそこ、前受けた事あるんだよ」

「そうなんですか?そこの工場長かなんかが横領したとかでめちゃくちゃ叩かれてたじゃないですか」

「ああ。それでリストラされた元社員達もブチ切れて、その工場長の家にまで襲撃して警察沙汰になっただろ。いやー自分から辞退して正解だったよ」

「ああ、前に話してた酷い会社って、ここの事だったんですか」

「そうそう」

 全ての人が働けていた前時代ならば、そこまで過激な事にはならなかったのかもしれない。しかし職を失い、再就職もできない人々からしてみたら、そんな不心得者が自分達の椅子を奪ってまで会社に残っていると分かれば当然面白い話ではない。

 積もりに積もった行き場の無い怒り。そこに火種が一つでも放り投げられたら燃え上がるのは必然だった。

「人が集まれば集まるほど、不満が積もれば積もるほど、何処までも残酷になれる。どれだけ技術が進歩しようと人間の本質は変わらないのでしょうね」

 暴徒とかした元社員達は、工場長の家に火炎瓶を数本投げ込む暴挙に出た。消防と警察の迅速な対応によって被害は最小限に抑えられたが、当時家にいた工場長の孫娘が大火傷を負い、今も入院している。

 恐ろしいのは、その火炎瓶を投げ込んだ元社員達が、罪悪感どころか自分のした事は正当な事、正義を成したのだと主張していたのだ。

 工場長の孫娘の事を知っても、その主張は変わらず、警察の発表では反省の色を全く見せていないという。

「そうかもな。でも暴動を起こす気持ちは何となく分かるよ」

「・・・・・・お兄さんて過激な団体にも繋がりがあるんですか?」

「んなわけあるか。ただ昔、親父がリストラされてから一度だけ暴動に参加した事があったんだ」

 その時は幸い、一部の心無い人が流したデマで引き起こされた騒動だった為、誤解が解消されると事態は直ぐに沈静化に向かっていった。しかし幼かった総士は、その時の父親の顔を今でも鮮明に覚えている。

「あの時の親父は、本当に人でも殺してくるんじゃないかってくらい怖い顔をしてたんだ。あの頃は色々酷くてな。帰ってきたら心中でもさせられるんじゃないかって。小学校上がる前だぜ?そんなガキの頃に命の危機を感じるとか。ああ、本当に酷い時代だよ」

 軽口を叩くかのように言ってみせるが、そう言う総士の顔は一つも笑っていなかった。

「それはまた・・・・・・でも今生きていると言う事は」

「杞憂で済んだよ。けど、そっから親父は、まるで生気を失ったかのように燃え尽きていてさ。そして今日こんにちまで廃人同然の生活。やる事といったら、たまに昔の仕事仲間と麻雀打つか、仏壇の前で酔いつぶれているかぐらいなものだよ」

「それじゃあ今は?」

「さぁな。警察や近所の人から連絡が来てないって事はまだ生きてるんじゃないか?」

 薄情だとは自分でも分かっていた。だが、互いにそういう向き合い方しかできなかった。触れれば互いに心が傷つくだけだから。

「まぁ、故郷に錦を飾るってわけじゃないが、できれば全うに働いて俺は大丈夫だって証明したいんだがな」

「別に働かなくても生きてはいけますが、まぁ、そうですね。何時までこんな世の中が続くかなんて分かりませんし、手に職が付いているか否かで安心感は違いますよね」

「十年後とかになって財政破綻とかしたら、それこそ目が当てられないからな。むしろ今の経済がそれなりに好景気なのが不自然すぎるくらいだからな」

「その辺は凱善総理の強行政策が上手くいっているからでしょう」

 日本で人々が働かなくても生活できるようになった最大の要因と呼ばれているのは現総理大臣である凱善京極による手腕による所が大きかった。総理に就任したのは総士がまだ三歳の頃だが、諸外国からも認められている圧倒的な政治的手腕と決断力を武器に二十年近くその地位に座り続けている豪傑である。

「あの人も長いよな。確か俺が物心付いたかどうか位前だから、二十年近いのか?」

「多分それ位だったかと」

「ありとあらゆる産業を全自動化する一方で、それに対する失業者へのカバープランの提案。法改正に外交関係の改善。何よりも凄いのはその実行の早さだな」

 凱善総理が就任してから僅か一年。生活保護制度は現在の仕様に切り替えられ、同時に財源確保の為に所得税を上げ、その変わりに労働者には様々な恩恵を与えることで帳尻を合わせ、成功を修めてきた。

 勿論、税率に対して恩恵が割り合わないと反発した労働者達も多くいた。

 そういった者達がどうなったのか?

「そういった情勢の変化の早さに付いて行けなかった人や企業は、軒並み潰れていきましたがね」

「不平不満を言ってる奴から刈られていく超実力主義社会。お陰で俺みたいな半端もんは肩身が狭いよ」

「うちの社長は色々やり易い時代だったって前に言ってました。余所が政府やW&S社に色々イチャモンつけている間に足元を全部搔っ攫ってやったって」

 確かに反発した労働者達は多かったが、その裏で騒ぎに浮き足立っている競合他社の隙を的確に突いた者達も数多くいた。

 時代が移り変わらんとしている時に不平不満しか言ってこなかった人間と、絶好の好機を逃さんとした人間。

 結果は日の目を見るより明らかだった。

「結局強い奴しか生き残れないって事なんだろうな」

「そうですね。色んな意味で強くないといけませんね。でもそれを言ったら今も昔も変わらないんじゃないですか?」

「それもそうか。だとしたら何処に差があるんだろうな?決意や覚悟の差?命を張るとか」

「命懸けででない仕事だってありますよ。私だって別に、物理的に命懸けで絵を描いている訳ではないので」

「そりゃあ、まぁ、そうだろう」

「でも、好きであるべきだとは思いますね」

「好きって、仕事をか?」

「はい。自信が持てる、と言い換えてもいいです。とにかく自分の仕事に対してプラスの感情を抱いていないと辛いかなと」

 仕事は義務だろう?と言いかけた総士だったが口に出す前に自分で疑問に感じてしまう。

 確かに一昔前であれば生活の為に半ば義務として人々は働いていただろう。

 しかし現代は違う。ほっといても作物や家畜は育つし収穫、輸送、販売もされる。衣服だって二十四時間稼動の工場で作られる。住居に至っては全自動で建築するのに邪魔だからという理由で大工ですら工事現場への立ち入りが禁止されてしまっているくらいだ。

 衣食住、全ての労働力を機械で代替できてしまった時代なのだ。

 そんな中で人間が働く義務が果たしてあるといえるのか?

「義務なんて無いんだろうな」

「はい?」

「いや、仕事っていうのは義務なんじゃないのかって言おうと思ったんだけどさ、何か違うような気がして」

「少なくとも労働力という点で言うなら機械で全て代行できてしまうわけですからね」

「だよな。好き好んで辛い仕事なんかしたくないよな。そもそも募集すらされてないけど」

 汚い、きつい、危険と嘗て3Kと呼ばれていた仕事ほど、真っ先に全自動化が進んだ分野のである。

 当初はそういった劣悪な職場環境ほどコスト等を理由にして技術導入を渋る会社が多いのではないかと有識者達は述べていたが、そこにビジネスチャンスを見出したある企業が他社を出し抜く形で市場を独占したのだ。

 その企業の業績は凄まじく、元々ベンチャー企業だったのが一気に世界最高峰の企業にまで急成長した。

「ロボットなら怪我も病気にもなりませんからね。壊れても新しい部品を取り付けたら即現場復帰できますし」

「結局人間使うより安上がりなんだよな。去年、企業説明会で話聞いた時も、新人一人雇える費用があればベテラン二人分と同等の労力が確保できるって聞いた時は、俺達本気で要らないんじゃね?って思ったよ」

 全自動化やロボットは初期投資費用は未だに安い投資ではないが、そのランニングコストは積極的な量産化、規格統一や、標準化の進展によって年々安くなっていっていた。そして二十年の企業競争の末に、その平均的なコストは最低人件費一人分の半分強ほどに済む程安価になっている。

「私はむしろビルの清掃とか警備が人の手で行われていた事に驚きましたよ」

「俺だって歴史の教科書でしか見た事が無いよ。」

 総士も緋色も、そういう時代があった事を知らない世代。こういう話をすると親世代は少しセンチメンタルな気分になるだろう。

「いい事なんじゃないんですか?だってそんな辛くて面倒くさい仕事、人間のすることじゃないでしょ」

「だよな。肉体労働とか人のやる事じゃないよな」

 二人は笑いながらそう言うが、こういった認識は彼らと同世代にとって至って普通の認識だった。それ程までに肉体労働というものはこの世から消えつつあった。

 比較的イレギュラーの起き難い倉庫管理から始まり、引越し、運送、建築は軒並みロボットや機械に置き換わり、人間の仕事といったらせいぜい最後の確認作業くらいしか無い。

 確認して最終的な責任を人間が背負う。

 いくら技術が発達しようとも普遍的なのはこれ位のものだ。

 だから、どの企業も管理職だけは必ず残っていた。

 ただ単純な作業量が減った分、求められる仕事の質もおのずと高くなり、これが社員同士の生存競争を激化させた。ある企業では同僚同士が互いに疑心難儀なってしまい傷害事件にまで発展した事例もあった。

「・・・・・・まじで俺、何して働けばいんだろう?」

 散々労働について否定して、同時に選択肢を潰している事に、今更総士は頭を抱えた。

「知りませんよ。私みたいに何か描いたり作ったりしてみたらどうですか?」

「俺にセンスがあると?」

 総士は鼻で笑いながらやる気は無いと首を振った。

「さぁ?やってみない事には。幸い今のご時勢、大小問わなければ、なんでも募集はありますよ。私も今度一つ、絵画コンクールの審査員やるんですよ」

「お前、そんな事もやってるのか」

「お金貰えますからね。しかも見るだけでいいんで楽な仕事ですよ」

「楽って、お前」

「失礼、語弊がありましたね。私には楽な仕事です。一言二言コメントを書いて点数を出せばそれで終わり。ほら、楽でしょ?」

「いやいや、なんかもっと、こうー」

「ちゃんと正当な評価はしてますよ?」

「えー・・・・・・」

「人間、得手不得手というものがありまして」

「あー、うん。もういい。わかった。話が脱線してしまったから戻そう」

 これ以上何か言わすと余計に頭が痛くなりそうな気がしたので、この話題は早くもここで終了だ。

「そうですか?それじゃあ話を戻しますが、結局お兄さんはどうするんですか?」

「どうするかな・・・・・・ぶっちゃけ働きたい理由はあっても、働きたい事やしたい事って特にないんだよな」

「恵まれない子供達を助けたい云々っていうのは?」

「確かにやりたい事ではあるんだけど、何の為にって聞かれると」

 答える事ができない。夢は本心からだし、善意や慈愛の心といったものも含まれている。しかしそれだけではない。家庭が崩壊していった時の恐怖と絶望、世間に対する復讐心、色んなものが混ざり合って、心に浮かんだことだ。

 だから何の為にと一つに纏める事ができないでいるのだ。

「じゃあ、いっその事自己満足から始めたらどうです?」

「自己満足?」

「はい。お兄さんが自分で満足できるような事から始めればいいんですよ」

「自分が満足か。満足ねぇ。どうすりゃいいんだ?」

「さぁ?」

「投げっぱなしかよ」

「お兄さんが何に満足するかなんて知りませんから。けど、そうですね」

「?」

「あの時描いた絵のように、思うがままに、あるがままに、自分をさらけ出して、ぶちまけて、全部吐き出して、全力を出し切って、最後に心に残ったもの。それがきっと自分の本当の気持ちなんだと思います」

「・・・・・・お前もそういう経験があるのか?」

「スランプになったり、思うように描けなくなった時には、我武者羅にやりますよ。あと全力で遊んだり、やけ食いしたり」

「やけ食いはよくないんじゃ」

「その辺の突っ込みは野暮ってもんです。とにかくストレスとか全部吐き出して、指一本動かなくなるまで体力を使って、頭もバカになるんです。するとなんだか降りてくるんですよ魂的なものが」

「随分とスピリチュアルな・・・・・・だが、まぁ、言わんとするところは分かるな」

 考えてみたら、そこまで全力で何かに取り組んだ事がない。

 子供の頃は元より、実家から出て自由の身になった四年の間、必死になった事など結局ただの一度も無かった。勉強も恋愛も遊びも何もかも、ただただ無難にこなしてきただけ。

 恋愛すら必死じゃなかったなんて我ながら酷いな。よく綾那も俺に愛想を付かないものだ。いや、もしかしたら知っていて、それでも付き合ってくれているのか?だとしたら頭が上がらないな。

「ここって持ち帰りとかってできたっけ?」

「何です突然?クッキーとかならできますけど」

「いや、たまには」

「もしかして彼女さんへのプレゼントですか?」

「ただのご機嫌取りさ」

 サラリと否定しない総士に、緋色はかなり意外そうな顔をした。

「・・・・・・あれですよね。お兄さんって真顔でノロケますよね」

「ん?何か変な事言ったか?」

「いえ、別に変な事を言ったわけでは。ただストレートですよねーっと」

「んぅんん?」

 どう意味か分からず本気で唸る総士の姿に、緋色は思わず苦笑した。

 何故なら、多分、総士の事が好きになっていたからだ。

 多分、と付くのは、緋色自身こういった感情は初めての経験だから。

 しかし直感で確信はできた。

 始めて会った時から自然と本音で話ができて、少し意地悪もしたくなって、自分の事を知ってもらいたくて、この人の事が気になって。

 求人の紹介だって普通、二回あっただけの人に紹介なんてしない。

 試験の結果自体は厳しく裁定を下したが、それだってあの人の事を思えば、感情に流される事なく、ちゃんとした評価を下す事こそ彼の為になると思ったからだ。

 そして今もこうして、総士が来ていると宇佐美から聞いたから、ここまで来たのだ。

 一目惚れだったのかもしれない。

 人を好きになるのに、明確な理由なんてない。有るとしたらそれは後付けにすぎない。

 ただ残念なのは、この恋はきっと叶わないと既に分かっている事か。

 彼には既に愛する人がいるし、なにより

「初恋は実らない」

 囁くような声が毀れた。

「ん?何か言ったか?」

「かいしょーなしーって言ったんですよ」

 誤魔化す様に適当な事をいいながら笑いは止まらなかった。

 止めたくなかった。

 止めたら、自分の気持ちが彼に気づかれてしまいそうだから。

「誰が甲斐性無しだ。確かに無いが、言うんじゃないよ」

「だったら頑張って甲斐性を身に付けないとですね」

 これでいい。ただ一緒にこうやって世間話できる関係でいられれば、それでいい。

「分かってるさ。わかっちゃいるが・・・・・・だがなー」

 携帯の画面に就活サイトを表示させるが、そこに表示されていたのは厳しい現実だった。

「何にも無い」

「あー本当ですね。何にも無いですね」

 二月末である今日こんにちに求人を新しく出している企業など存在せず、また既に出ていた求人も全て募集が締め切られていた。

「残された選択肢は、あいつの実家か」

「あいつって彼女さんですか?」

「ああ。農家やっててな。まぁ、実質婿入りしろって話なんだよ」

「逆玉でいいじゃないですか」

「そんな不純な動機で結婚させたくない」

「させたくない?したくないじゃなくて?」

「人は、ちゃんと愛し合った末に結婚すべきだ。それにな、自信がないんだよ」

「甲斐性無しだからですか?」

「・・・・・・それも無い訳ではないが。分からないんだよ。家族ってやつが」

「はぁ?」

「うちも結構特殊だからな。色々と上手くやっていけるのか不安なんだよ」

 愁いを帯びたその苦笑い。

 その顔を見た瞬間、緋色は鞄からスケッチブックを出さずにはいられなかった。

「うぉ?いきなりどした?」

「ちょっと待っててください!」

 驚く総士をそのままに、愛用の筆箱から鉛筆を取り出して、その衝動をひたすらぶつける様に筆を奔らせる。高鳴りが止まらない。

「え、えー?まじでどうしたんだよ?」

「おやおや、もしかしてスイッチ入っちゃったんですか?」

 先程注文したケーキを持って宇佐美が声をかけてくれる。

「スイッチって?」

「あれですよ、インスピレーションが降りてきた的な」

「はぁ・・・・・・それは何となく分かりますが、一体何に反応したんですか?」

「さぁ?何か素敵なものでも見たんじゃないんですかね」

 悪戯そうに笑いながらそう言って宇佐美は仕事に戻っていってしまった。

「・・・・・・なんなんだ一体?」

 一人状況が全く分からない総士は暫く困惑した間、とりあえず緋色が落ち着くのを待つ。

 十数分後、書き終えたのか何本も持っていたペンを置いて、満足げな顔をしながら、ようやく落ち着きを取り戻した緋色に話しかけてみる。

「落ち着いたか?」

「はい。すみません、お見苦しい所を」

「別にいいけど。それで、なに描いたん」

「あ、はい。ええっとです・・・・・・ね・・・・・・ぇ」

 瞬間、今度は一気に顔面が耳まで真っ赤にスケッチブックを即行で閉じて鞄の中にしまってしまった。

「駄目です!見せられません!」

「えー・・・・・・」

「アレです!ちょっと勢いのまま描き過ぎたというか、その冷静になってみたらそれ程大した絵ではなかったとい、いいますか、そう、芸術家星宮緋色として、これは世に出せない作品といいますか、ちがぁうんです、出来心といいますか、とにかく駄目です!お兄さんには見せられません!」

 あまりに必死になっている彼女を見て、どうしたものかと思いながら無理強いしたりするのも、総士の趣味ではなかった。

「まぁ別に無理に見せんでもいいけどさ」

「・・・・・・本当ですか?」

「なんだ、見て欲しいのか?」

「い、いいえ、いいんです、見なくていいです」

「あっそ。しかし羨ましいものだな」

「え、何がですか?」

「そうやって何かに本気になれるって。そんな風に何かスイッチが入ったらガーって、俺にはとても真似出来ない」

 とても羨ましそうな、しかしどこか諦めているように言う総士に何か明確な答えを出せればよかったのだが、緋色にもその答えは導き出せなかった。

「それは・・・・・・お兄さんがまだ自分の本気になれる事を見つけられていないからで」

「見つけられないよ。俺には」

「だったら自分で作っちゃえばいいじゃないですか」

「自分で作る?何を?」

「何でもです。会社でも芸術でも新技術でも、自分が必死になれるものを自分で作ってみればいいじゃないですか!」

「会社・・・・・・か。そうだな。どうせ何処にも雇ってもらえないんだったら、いっその事自分で作っちまうのも有りだな」

 総士は笑いながら冗談半分にその案に賛同した。

「でも、そうなると、どうやったら会社って作れるんでしょうね?」

「おいおい、それも大事だが、それよりも先に考えるべきは何の会社にするかだろ?」

「ああ、それもそうですね。で、お兄さんだったらどんな会社が作りたいですか?」

「んー、そうだな・・・・・・慈善事業とかボランティアができる会社にしたいかな。でも金も儲けないといけないからな。難しいな」

「基本的に相反するものですからね。私なら金持ちに絵を売りつけて、その上澄みで寄付とかするって感じが妥当かと」

 緋色の案は確かに彼女なら可能かもしれなかったが、当然総士は即行で却下した。

「そりゃお前にしか出来ないだろ。だが金持ち相手に出来る商売か。社会的弱者から搾取した金でボランティアするよりは確かにマシか。金持ちねぇ。金持ちが欲しがるものか」

「嗜好品でも実用品でも、よりハイグレードな物が好まれますよー」

「だろうな。・・・・・・それってかなり無理な相談のような」

「技術基盤が無いですからね。それこそ新技術や新たな分野の開拓でもしないと無理でしょ」

「物理学に愛されてない俺が新しい技術なんて生み出せるわけがないだろ」

「だったら身を粉にして働くしかないんですが、今時そんな仕事なんてメイドさんくらいなもんですよねー」

 そのキーワードにピクリと総士の目尻が動いた。

「・・・・・・メイドさんて、なんだ?」

 突然変な事を聞きだした総士に、不思議そうな顔をしながらも緋色は答えた。

「メイドさんってアレですよ。宇佐美、あの店員さんみたいな格好をして家事とかを代行する職業の人ですよ。宇佐美さんのは格好だけですけど」

 突然指を指された宇佐美も急に矢面に立たされて、驚きながらもポーズをとりながら「どうしたのどうしたの?ついにおねぇさんの可愛さに気が付いてくれたの?」とアピールしてくる。

「それは知ってる。そこじゃなくて、いるのか?実際に働いている人が?」

「普通にいますよ?」

「このロボット全盛期の時代にか?」

「お金持ちの方の家だと結構見かけますよ。やっぱり人間の方が温かみがあるかとか。まぁ、セクハラ目的で雇っている家もありますが」

「セクハラって・・・・・・それって犯罪なんじゃ?」

「そこはノーコメントで。ただ、あからさまなミニスカメイド服を見ると主の趣味趣向の察しは付きますがね」

 頭の中でふと、これも商売になるかとも考えたが緋色の話を聞いてすぐに否決した。

「・・・・・・メイド派遣業とか考えたけど、やめとこ。なんか風俗的なイメージしか湧かない」

「そうですね」

「だけど人ができる、いや人にしか出来ない仕事を斡旋する企業とかはいいかもしれない。それで仕事が無い人達に」

「そもそも仕事が無いから、こんなご時勢になったのでは?」

「うぐぅ、駄目か。ああー、駄目だ、なんともならねぇ。やっぱり素人の浅知恵じゃどうにもならねぇのか」

「・・・・・・新しい雇用を生み出したいという方向性は悪くないと思いますよ」

「だが人間に、しかも素人でもできるような仕事ってなんだよ?お前みたいに特筆すべき才能や技術がなければ仕事なんて」

 それは殆ど諦めに等しかった。他の誰にも出来ない事が自分に出来るわけがないと。敗北を認めたも同然だった。

「働くってそんなに難しい話ですかね?」

「「え?」」

 突然の横槍に二人は驚いて声の方を向く。そこにいたのはコーヒーのお代わりを持ってきていた宇佐美だった。

「突然どうしたんですか?宇佐美さん」

「いやー、お二人が中々に難しそうなお話をされていてので、私が思った事を言ってみたんですよ」

 カップにコーヒーを注いだら、隣の席から椅子を引っ張ってきて、おもむろに腰を下ろしてそのまま二人の話に加わる。

「お客様、お節介ながら人生の先輩として一つアドバイスをしてあげましょう」

「え、あ、はぁ。てか年上だったんですね」

 困惑しながらも総士は取りあえず話を聞いてみようとした矢先、額にデコピンが一発跳んでくる。

「女性に年齢の事を堂々と聞くのはいけませんよーお客様―」

 笑顔のまま凄んで来る宇佐美に、何だか途轍もなく理不尽な理由で怒られている気がしながらも、その事を抗議したら次は何が跳んでくるか分からないので素直に頭を下げた。

「す、すみませんでした」

「分かればいいんですよ、分かれば。さて、それはさて置き、聞いていた所、お客様は何やら仕事が見つからなくて困ってらっしゃるとか」

「は、はぁ、まぁ、そうなんですが・・・・・・その、もしかして盗みぎ・・・」

「メイドイヤーは地獄耳。お客様のお声かけには、常に敏であるのが私のモットーですから」

「・・・・・・」

 あ、これは大分面倒くさいタイプの人だぞ。と脳内に警報を鳴らしながら、取りあえずこれ以上深く突っ込みすぎないのが、身の為だと確信する。

「いつもの事ながら、悪趣味というか何というか」

 常連であるはずの緋色も既に諦めて困った笑顔だけを浮かべる。

「えー?職務に忠実なだけですよー?」

 とぼけた顔で舌を出す彼女に、これ以上突っ込む気も失せてしまった。

「それでアドバイスなのですが」

「はぁ」

「別に学校で学ぶ事が全て、じゃないんですよ」

 学校で学ぶ事が全てじゃない?

 どういう意味だ?

「実はですね、私の学歴って中卒止まりなんですよ」

「え?中卒って、高校には行ってないんですか?」

「はいー。昔はかなりヤンチャしてて、学校とかも殆ど行ってなかったんですよ。親も親でその頃には離婚したまま私の事は放任みたいな感じで。酷いですよねー、いくら生活費は国から貰えるからって」

 確かに酷い話だが、わからない話ではなかった。年齢こそ違うが宇佐美も世代的には同じ位なのだから、何かしらの被害を受けていても不思議ではないだろう。

 お金の心配が無くなったから遊び呆けるようになる。

 確かにそれも珍しい話ではなかった。

「まぁ、そんな訳で私は私で好き勝手に生きてきたんですがね、いやーお金だけじゃ生きていけないもんで。そのスジの人達にちょっかい出した時には、我ながら世間知らずだったなーと」

「・・・・・・そのスジの人達っていわゆる堅気じゃない人達って事ですか?」

「そそ、その時は兄貴分の人が凄くいい人だったから餓鬼の悪戯って事で、顔面に一発貰っただけで見逃してもらえたけど、あれはやばかったなー」

 余程トラウマになっているなのか、その事を話す宇佐美の眼はとても虚ろな眼になっていた。

 正直何処から突っ込んだらいいのか、非常に困った総士は向かいの緋色に目配せして、どうしたらいいかと訴える。しかし緋色も全力で首を横に振り「知りませんよ、お兄さんが如何にかしてくださいよ」と意思表示する。

「それから暫くは世の中にビビリながら生活してたんですがね、青痣が治り始めた頃から、私て何の為に生きてるんだろうなって思ったんですよ」

 それは自分も同じだし、今でも悩み続けている。

 存在意義とでも言うべきか?

 しかしこれは万人に当てはまる話だ。特別な事じゃない。

 特別なのはその悩みにどういう答えを見出したかだ。

「それで店員さんは、どんな答えを出したんですか?」

「可愛さですよ」

「可愛さ?」

「とにかく可愛らしく生きていきたいって思ったんです。昔見た映画の様に可愛い服を着て、誰からも愛される様な、それでいて安らぎを与えられるような女の子になりたいなって」

 どんな映画だったのか聞いてみると、かなり古い作品で、喫茶店で働いている少女と常連客の恋愛物だったらしい。

「今時こうやって店員さんがいるお店も少ないですからね。どうにかして、そんなお店がないか探している内にマスターに出会ったんですよ。それからは毎日接客や料理、コーヒーの入れ方をひたすらに猛勉強。マスターから留守を任されるようになるまで苦節十年、今ではマスターに負けない位、美味しいコーヒーを入れられるようになりました」

 えっへんと胸を張る彼女は、去勢や見栄等ではなく確固たる自信を感じさせていた。

「確かに宇佐美さんの入れるコーヒーも美味しいですけど」

 緋色は実際に飲んだ事があるのか肯定するが、少々歯切れが悪い。

「けど?」

「その、色々とアレンジしすぎというか、普通に淹れて欲しいんですが」

 それもそのはず。宇佐美が作るコーヒーや料理は普通に作っていれば非常に美味しいものなのだが、あふれ出るチャレンジ精神が良い意味でも悪い意味でも、そのまま形になってでてくるのだ。

「えー、だって面白そうなんだもん」

「いや、料理に面白そうって、美味しそうじゃなくて?」

 この人は一体何を言ってるんだという顔をしながら総士が突っ込みをいれる。

「美味しいのは当たり前。メイドさんの料理はエンターテインメントでなければならない。それが私が目指す理想のメイド像なのです!」

「あんたはメイドじゃなくて喫茶店の店員だろ。というか、そもそもその理屈はおかしい」

「いいえ、これこそが真理ですよお客様!」

 ビシッと人差し指を総士に向けてながら言い放つ。

「自分がやりたい事に全力を注ぐ事。これこそが成功の秘訣です。それさえできればどんな阿呆でも何かを成し遂げる事が可能なのです。現に中卒の私でも、ご覧のように働く事ができるんですから」

「そのやりたい事が無いんだが?」

「その辺はお客様次第ですが、多分、答えは既にお持ちだと思いますよ?」

「持っているだと?」

「はい。ただ気づいていないだけ」

「俺には・・・・・・無いよ」

 本当に答えが既に自分の中にあるというのなら、とっくにそれに向けて行動しているはずだ。

 自分ならそうしているはずだ。

 それができていないというのなら、やはり俺の中に、やりたい事も本気で叶えたい夢も無いんだ。

 何も無いから何もできない。

 何者にもなれない。

 無いから教えてほしいんだ。

 俺はどうしたらいい?

「お兄さんの一番辛かった事って何ですか?」

「へ?」

 その緋色の質問に思考の波が止められる。

「今までお兄さんの話を聞いてきた感じだと、楽しかった思い出とかよりも辛かった思い出の方が大きいのかなって。だったらその一番辛かった経験を元に考えればいいんじゃないでしょうか?」

「俺の一番辛かった記憶・・・・・・」

 トラウマが数え切れない程ある。幼ければ幼いほど辛かった思い出。でも一番辛かったのは何処だろう?

 両親の失業?

 妹の死?

 母親の自殺?

 父親の堕落?

 就活が上手くいかない事?

 違うのかもしれない。どれも辛い記憶だが、自分にとって一番辛かった記憶じゃない。

 じゃあ何だ?

 俺は何が一番辛かったんだ?


 ブーブーブー

 何か振動音が鳴り出す。

「お兄さん、携帯鳴ってますよ?」

 ああ、そうか。自分の携帯が鳴っていたのか。

 どうやら誰かからメールが来たようだ。送信者は

「綾那・・・・・・」

 自分の恋人の名前。

 そういえば、どうして俺は彼女と付き合っているんだろうか?

 別に積極的に彼女を作ろうとはしていなかった。

 いや、どちらかというと作る気も殆ど無かった。

 大切な人を失う喪失感は昔から知っている。

 なのにどうして?

 その喪失感を天秤にかけてでも彼女といたかった?

 ならば俺が彼女に求めたのは?

 彼女だけじゃない。どうして俺は目の前の少女を求めたのだろう?

 今日、俺は何を求めてこの店に、緋色に会いに来た?

 助けが欲しかったからだ。

 助けて欲しい?

 世の中辛い事ばっかしで、自分一人だけじゃどうにもならなくて。

 どうしてそんな当たり前な事にどうして気付かなかったんだろう。

 

 ああ、俺は誰かに助けてもらいたかったのか。

 

「大丈夫ですか、お兄さん?」

「あぁ、何となく分かってきたよ。なぁ店員さん」

「はい、なんでしょう?」

「本気で努力するのは何時から始めても間に合うんだよな?」

 総士の質問に宇佐美は自信満々にこう答える。

「諦めたり折れたりしなければ、何事でも成せると私は思いますよ」

 その答えをかみ締めるように総士はゆっくりと頷く。

「そうか。なぁ緋色?」

「なんです?」

「お前、前、運がなければ成功しないと言ってたよな」

「そうですね。運は大部分を占めていると思いますよ」

「なら店員さんとお前の意見は対立しているんじゃないか?」

 続けて質問された緋色は軽く首を横に振ってから優しく答え始める。

「それはNOです。以前にも言いましたが、運を掴む為には才能も努力も大切です。宇佐美さんの場合は災いが転じて自分を見直す機会がありました。そして不幸を嘆くよりも努力する事を選択した。まさに災い転じて福と成すを体現したわけです。結論を言えば、どれか一つの理屈が正解なのではなく、どんな屁理屈でも正解になりえるのです」

「決まった答えは無いと?」

「あったら誰もがやっているでしょう?」

 その通りだ。

 この世に絶対の正攻法や真理があるとしたら、既に全人類がそれに従って生きているはずだ。

 しかしそうはならない。

 なってはいない。

 ならば発想を逆転させればいい。

「お兄さんはお兄さんのやりたい様に目標に向かって突き進めばいいんですよ。不特定多数の誰かのやり方ではなく、自分一人に合ったやり方をね」

 既に天啓を得たであろう総士に、緋色はそれを後押しするように微笑みながらそう答えた。

 そして総士もその言葉を聴いて軽く頷いた。

「道が見えてきた気がする。上手くいく保証はないが、それでも前よりハッキリと」

「迷いは晴れましたか?」

「ああ。少なくとも今までの就職活動よりは有意義な事は出来ると思う。っと、それなら善は急げだ」

 携帯の返信画面を開いて綾那から先程送られてきたメールにいつもよりも少し文章を多めに書き足してから返信を送った。

「初手からどちらに転ぶか分からない賭けだが、さてはてどうなるか」

「そんなの最後の結果次第ですよ。勝てば官軍。成就していたのならそれはきっと吉兆だったんでしょうし、駄目だったんなら凶兆、アンラッキーだったんですよ」

「いきなり運任せだが、これでもいいのか?」

「いいんじゃないんですか。ここで引いたクジをどう扱うかはお兄さん次第なんですから」

「そうだな。でも明確に目標は見つかったんだ。何とかして見せるさ」

 メールの返信が帰ってくる。

 その文面を見て総士は少しだけ頬が上に上がる。

「それじゃあ早速、賽を振りに行ってくるさ」

 そう言うと席を立って宇佐美に会計を頼むと、着れる程度に乾いた上着に袖を通してドアを開けた。

 外は既に雨が上がっていて青空を覗かせていた。

 冬らしい冷気と雨で湿気を帯びた空気をゆっくりと吸い込みながら覚悟を決める。そして緋色の方に振り返り、彼は一番彼女に言いたかったことを

「助けてくれてありがとな。多分お前に会えたことが一番の幸運だったよ」

 感謝の気持ちを伝えると、そのまま店を後にする。

 それを見送った緋色の頬に一滴の涙が流れている事に、総士は最後まで気づく事は無かった。

「・・・・・・私は一番の不幸でしたよ。お兄さんのせいで私は」

 何故なら、たった今、失恋してしまったのだから。

 怨みを抱く事もできず、怒りをぶつける事もできない、矛先を完全に見失ってしまった恋をしてしまったのだから。

「・・・・・・ッ」

 携帯を取り出して緋色は如月に連絡をいれる。数コールのうちに如月が出ると

「はいよ、どうしたの?」

「今すぐそっちに行くから、準備しといて!」

 怒鳴りつけるようにして用件を伝えると、緋色も席を立ってマスター達に挨拶すると店を出て駅のほうに駆け出していった。

「おー、青春ですなー。片や行く先を見つけて、片や失恋をして。若いっていいですなー」

 足早と店を後にした二人を見送った宇佐美はしみじみしながらテーブルの片付けを始める。

「とりあえず宇佐美君は今日休憩時間無しだからね」

「ふぇ!?」

 こちらはこちらで、ある意味自業自得になっているが、二人にとっては瑣末な話だろう。

「若者達に幸多からん事を」

 マスターは、ただ静かに彼ら二人を含めた多くの若者達の幸福を願いながら今日もコーヒーを入れ続けていく。

 次に飲みに来るときは笑顔で来店してくれる事がマスターにとって一番の喜びなのだから。

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