マトリックス(1999)

 映画に詳しくない。多動で二時間画面の前に座っているのがしんどい。だから劇場で見た映画のことしかほとんど頭に残っていない。同時期にトイストーリー2が公開されたことは覚えている。劇場で見て、感動した記憶がある。夏はアニメ映画をよくみた。弟はポケモンを見たがり、私はピクサー映画が好きだった。一日でふたつの映画をはしごすることがよくあった。クリスマスケーキのサンタクロースがまっぷたつに割られることと理由は同じだ。兄弟の平等のためだった。母だけではなく父が付き添っていたら、わたしたち兄弟は同じ日程でそれぞれ別のシアターで異なる映画を見ることもできたのかもしれない。ポケモンよりもマトリックスを見たかった、いまとなっては。


 マトリックスの名前自体は知っていた。あまりに有名だったからだ。男の子たちはよく弾丸を躱すシーンを真似していたし、漫画やテレビでパロディされる光景も山ほどみた。だから本編を見たわけではないけど、なんとなく知っている気になっていた。しかし何事も知ったかぶりはよくない。今回新作が公開されたということで、動画配信サービスで無料公開されており、見た。封切が二十年以上前ということもあり、もっと古びて映るかと思ったら、全然新鮮な気持ちで楽しめた。


 インターセクショナリティ!

 監督は性別適合手術を受けたらしい。映画の枠組みとトランスセクシュアルの人々が現実世界で生きることを重ね合わせてみるととても腑に落ちた。映画の中では赤い薬と青い薬が出てくる。赤い薬は現実に目覚める薬。青い薬はマトリックス(仮想現実)の世界で生き続ける薬。現実世界ではエイリアンが人間を栽培し人間の想像力をエネルギー資材として利用している。マトリックス世界のアンダーソンは、現実世界でネオという名前を得て、周りから救世主だと期待される。しかし預言者曰くネオは救世主ではないのだ。

(キャストが真っ白じゃない、老いた女が全知の役割で、アイキャッチのためのラブシーンが省かれている。なんて見やすい映画なんだろう。感極まる。でもアジア系のキャストはいない)

 ネオはアリスだ。不思議の国の現実に気がつき、そこから逃れようともがく。仮想空間のほころびは混乱と破滅をもたらすが、(ジェンダー・トラブルみたいだ)死んだと思えば死ぬし、生きようと思えば生きることだってできる。


 マトリックスは何度でも蘇りネオの人生を裁き、掌握しようとする。葬ったはずの昔の名前でネオを呼び続ける。トランスフォビアみたいだ。現実に目覚めることは幸せじゃない。むしろよりつらい現実が押し寄せてくる。なにも気づかずに夢を見ていたほうがマシだとすら思える。目覚めるためには年老いていてはいけない。価値観が硬直化して受け入れられないからだ――――――

 作中の説明は直接的で私たちに直接問いを投げかける。ネオは救世主ではない。救世主ではないからこそ、わたしたちは彼らを救わなければならないのではないか? 現実は彼らを救わない。現実を打破しても救われる見込みがあるかもわからない。だからこそ、映画は視聴者ひとりひとりに問いかける。お前に目覚める覚悟はあるのか?と。

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