レッドドラゴン/トマス・ハリス 副題:あかいひつじをめぐるぼうけん


 みなさんご存じハンニバルレクターを主役に迎えた羊たちの沈黙シリーズ第一作。でも私は圧倒的にレッドドラゴン推し。赤い竜が一番。映画もいいけど、トマスハリスのすごさがわかるのはやっぱり小説だと思う。これを読んだ瞬間私は小説家の夢を一度投げ捨てました。敵わねぇ、と思った。


 レクターより歯の妖精ことダラハイドの方が人間的弱さを残している分魅力的に思えました。今手元に本がないのですが、ダラハイドは身も心もドラゴンに近づけるべく努力をしていた。人体改造にも手を染めていたと思う。圧倒的な外見へのコンプレックス、破壊された自尊感情、ナルシシズム、竜との自己同一化。


 レクターの本質はウィスパー、囁く人だと思う。それに比べるとダラハイドはまだドラゴンへの変身を遂げ、醜い自分から逃れたいと思っているだけ人間味があります。


 日本でうっかり定着してしまったボーイミーツガールが煮詰まったセカイケイ、あれ批判する人がいるのも分からんではないのですよ。主人公が大きな流れに巻き込まれて恋愛的な自己実現と自己犠牲を天秤にかけるというやつ。でもめっちゃ日本の現状を反映していますね。生殖か服従か。むしろリアルだわ。という意見も分かる。


 そこで村上春樹の「羊をめぐる冒険」のはなしをしたいんですが、ハンニバルシリーズでは羊というのはレクターから見た贄でありまた人々の「秘めたる願望」の象徴でもあります。『羊をめぐる冒険』では羊はどちらかというと憑き物的な性質の避けざる富や名声を象徴しています。そして羊は永遠に去ってしまった。


 権力に憧れ魅せられた男たちが廃人になっていく。「羊」はもうそこにはいない。けれども物語は続いてゆく、機構は動き続ける。一見父と子の空白の話のようにも思えます。羊を葬り去ったねずみとそれを聞き届けた主人公。危機は去り日常は続いていく。弱さはぬぐえない。ぬぐえないまま続いていくことを、ただ受け入れ、女は去る。なぜ去るのか。羊は主人公が周囲を顧みない報いだと言います。ほんとうは、弱さを受け入れないことの報いではないかと私は思う。主人公も近いうちにきっと、羊としてこの世に生まれ直すことになるのではないか。


 というのが私が「羊をめぐる冒険」から受け取った印象でした。


 願望があるというのは厄介なものです。腹が減れば満たしたいし、眠くなれば眠りたい。寒くなれば温かい寝床が欲しいし、寝床を覆う丈夫で静かな建物も欲しい。


 ほしい、と願う限り誰かに利用されてしまうのが世の常です。村上春樹は資本主義的な価値観と少し距離を置きたいのではないかと思った。だから願望を否定し物語は動かない。動かないまま取り残される。事物が進んでいるように見えるのは、相対的に主人公が動いていないから。


 利用されないためには願望を秘匿する術に長けている方がいい。レクターはだから動機なく人を殺すし、動機なく期待に応えたり裏切ったりします。でも同時に、願望を自覚しないことには自発的に行動することができない。目的を設定できないということでもあります。


 ダラハイドはある意味で願望に忠実です。自分の醜さから逃げ出したい。強い、魅力的な男になりたい。それを人々に証明したい。理解させたい、わからせたい。他人の幸せを破壊して、力を誇示したい。自分を突き動かす飢餓感の正体にも一応気がついている。レクターに近づいたのも、ダラハイドが自身の弱さを自覚し、よりよい理想を手に入れようと欲望していたからでは?(かわいい)レクターはそれを利用し、復讐の駒にします。


 物語の中盤、他者との交流により人の心を受け入れかけるダラハイドですが、結局怪物として死にます。鼠は怪物になる前に死んだ。ギャッツビーと風の唄を聞けはよく似ていますが、ギャッツビーも過去に心を囚われた怪物のまま死んでしまう。主人公を置いてけぼりにして。残った傍観者が自らのうちがわの怪物とどう向き合っていくのか。むしろ物語はそこからはじまるのではないでしょうか。怪物になりきってしまうのも一興、一生逃げ続けるのもまた一興です。


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