弐 導灯のたより

 また一つ、角を無駄にしてしまった。

 夜道に吐息をこぼしながら、私は歩く。

 

 それもこれも無能が悪い。

 今日こそはと思ったのに、ひどい彫りをするものだから我慢ができなかった。

 

 金子も角も無限にあるわけではないというのに……。

 ああ、一体どうしてなのでしょう。

 やっぱり、男ではダメなのだろうか。

 あの人が去ってから、誰一人水の名を得た人はいないと聞く。

 ならば女人の彩角師に、希望を求めるべきなのだろうか。

 

 けれど、けれども。

 女相手では、いつものように色香で惑わして、警戒を解くことも難しい。

 金子を見せびらかして、飛びついてくれるならいいけれど……。

 

 さて、どうしたものでしょう。

 私は丸い角の先を撫でながら、思案を続けていた。

 

     ***

 

 ――これはいったいどういうことなのだろう。


 団子をつつくのをやめ、お土産に母の分も包んでもらい、走って家へと戻ってきた私は、手の中の人相書きを睨みつける。

 穴が開きそうなほど見つめていたって、そこに描かれたものは変わらない。

 あるいは絵師の誤りかとも思ったけれど、侍女から受け取った、私宛に届いていたものとも相違がなかった。

 そもそも版を摺って増やしているのだから、違うはずもない。


「どうして……」


 人相書きは、母にとてもよく似ている。

 あえて言うなら、目元が多少違うくらいか。

 いや、その程度はまだ絵師の癖で説明が付く。

 だが、背丈に顔貌の雰囲気に、角が丸められているというようなところまで揃っては、言い訳の仕様がない。


 もちろん、よく似た他人というのが正解なのだろう。

 母には、わざわざ彩角師を襲撃する理由なんかないはずだから。


「でも――」


 母は、多くを語らない人だ。だからむしろ、知らないことのほうが多い。

 訊けば全てを教えてくれるのだろう。けれど、あの快活さに隠された翳りが、問いかけを阻む。


「じゃあ、まさか本当に……?」


 いいや、いいや。

 ありえない。

 断じて、断じて。


 自室の中をぐるぐると、ああでもないこうでもないと唸りながら歩きまわる。

 こうして悩むくらいなら母に会いに行くべきだとわかっている。

 けれど、そうしたところで望む答えは得られないだろう。

『よく似た人がいるもんだね』

 そう言われておしまい。真実は闇の中。

 誰もが素直に肯するならば、邏卒が犯人を探し回る必要などないのだ。


「それに今はどっちでもいい」


 結局のところ、これは私の納得の問題なのだ。

 だから、ともかく情報が欲しい。

 文が回るくらいだから、犯行は複数回のはず。

 その足取りを辿っていけば、母のものかは自然とわかるだろう。


 そう。もしも、もしも。

 本当に母が犯人だったなら、その時にどうするか決めればいい。


「ああ、なんでこういう時にいないんですか……!」


 行貞さんは肝心な時に役に立たない。

 起こるという代わりに、何か対処の仕方くらい残していってくれればいいのにと、深くため息をついた。

 彼の中で明言することへの憚りがあることくらい、わかってはいるんだけど。


「居てくれたら、犯人を辿りやすいのに」


 星読みという職にある以上、彼の職場には情報が集まる。

 市井の吉兆を見るのも仕事のうちだから、いつどんな事件が起きたかもあそこにあるはずだ。

 はず、なんだけども……。


「私は入れないしなぁ」


 取り扱う情報の性質上、星読みの仕事場は簡単には入れない。

 それに、入れたところで資料の読み方がわからない。

 以前、行貞さんが終わりきらなかった仕事を持ち帰ってきたときに見せてもらった書類は、全く同じ言語で書いてあるとは思えないものだった。

 となるとこの線はダメだ。


「ううーん……」


 あの人は、何か他に言い残していなかっただろうか?

 誰かを頼れとか……そういう。


「あ! お義兄様!」


 一番近くにいる人のことを失念していた。


     ***

 

「預かってるものはないか、ねえ」


 ゆったりと姿勢を崩し、義姉に甘えた姿の義兄は、私の問いかけに額をコツコツと突きながらそう呟いた。

 ともすれば、だらしがないと感じられそうなくらいに着物を着崩した彼は、黄籃おうらん一族特有の緩慢な所作で思惟を始めた。

 行貞さんによく似たその柔和な顔がむむと歪んで、回想に耽る。

 そうして悩む夫を、義姉は落ち着いた顔で見つめながら、弄ぶように髪を撫でていた。


 そんな二人を見ていると、少し焦燥にかられる。

 この時間感覚の乖離は仕方のないものなのだけど、焦らされているように感じてしまう。


「何も、ありませんか?」


 しばらく耐えて、その言葉を口にした。

 私の悩ましげな顔を見て、慌てた様子で義兄が手を振った。


「いや、あるにはあるんだけど……」

「けど?」

「どれなのかなぁって。いや、ほら、あいつはヘン……あー、星読みだろう? 時折、預かっていてくれと色々ものを押し付けられるんだ。内容に一貫性があるわけでもないし、その時は困るんだけど、あとから必要な時がくるから断るわけにもいかないんだよね」

「それはどちらに保管されているので?」

「ん? ああ、私の書庫にまとめてあるよ。自分で探しに行くかい?」

「そうさせていただけるなら」


 他人の書庫を勝手に漁るのは、とても不躾なことだ。

 今や身内なのだから、赤の他人というわけではないけれど、それでも守るべき礼というものはある。


「なるほど、焦って探すようなものなんだね。いいよ、好きになさい。侍女たちには連絡しておくから」

「ありがとうございます」

「いいよ。ごめんね、弟が連絡不足でさ。うちの家はそういうの得意なはずなんだけど、君に関してはどうも後手後手に回りたがるんだよね」

「色々とあったようですから」


 私が苦笑を浮かべると、義兄も肩を揺らして笑った。


「まあ、当時はひどかったね……君たちには、そのせいで負担を強いるかもしれないけど、弟を頼むよ」

「はい……」


 いつか、その顛末を知ることもあるのだろうか。

 以前彼の話していた、母や行貞さんを嫌いになるかもしれないという事情を。


「困ったことがあったら、もっと私たちを頼りなさい。夫婦だけでは見えなくなるものもあるだろうから。これでもね、私は偉いんだよ」


 はは、と軽妙に笑う義兄に、私はふと思いついたことを口にした。


「ならば――」

 

     ***

 

 灯篭に火を入れる。揺らぐ炎に照らされる書庫の中は、少し猥雑な感じがあった。


『なるほど、では用意させよう。必要なことなんだろう?』


 頼みごとをあまりにもあっさり引き受けてくれた義兄に感謝しつつ、私は書庫を漁っていた。

 最近の流行りものから堅苦しい古典まで、雑多な書物が丁寧に分類された中で、唯一適当に詰め込まれた棚が目的地のようだった。


「うわあ……」


 それは義兄の、困る、という言葉が一目でわかる棚だった。


 本や巻物、手紙はまだわかる。

 しかし、一体どうして武器やら装飾品までもが詰め込まれているのか。


 あの人はこれをどこで見つけてくるんだろう……。

 押し付けられる義兄の苦笑が、目に浮かぶようだった。


「何から手をつけよう……」


 今の私に必要なものは何だろう?

 そこから考えれば、どれを探ればいいか答えが出そうな気がした。

 彼には悩む私の姿が見えていたはずだから。


「必要なのは……」


 まずは彼の言葉だ。あの時、口に出来なかったものから、次のものを辿っていける。

 だからと、手紙をガサガサと漁っていく。


 山のようにある手紙を開いては閉じるを繰り返した。

 他人宛のものを読んでも、何が書いてあるかよくわからない。

 紙面に踊る文字はあまりにも言葉遣いが曖昧で、わけのわからない妄言にしか見えないものもあった。

 それでも当人にとっては理解のできる言葉なんだろうと思う。

 柔らかすぎる言葉の中には、たしかに彼が誰かへ向けた息吹が感じ取れたから。


 そうして手紙を漁りだしてからしばらく、私はようやく自分に当てられたものを見つけた。


『兄との話は済んでいるだろうから、政庁へ行くといい。

 そこから次をたどることができるだろう。この手紙を渡せばそれで済むから。

 だから望むのなら、君はたどり着くことが出来る。

 けれど君は、いつでもこの話から降りられるということを忘れないように。

 話を進めるのなら、そこにあるだろう武器のどれかを持ち歩きなさい』


 内容は実に中身のないものだったが、どうやら職場に必要なものがあるということらしかった。

 それはありがたいことだ。

 けれど、気になったのは……。


「またそうやって遠ざけようとする」


 退路を知っておくということは、大切なのかもしれないけれど。

 今そういうことをされるのは、少し過保護すぎるような気がした。

 

     ***

 

 以前は通り過ぎた庁舎前の門を見上げてため息をつく。

 忙しなく人の行き交う政庁前広場は、喧騒に満ち満ちていて、静かな揺かごの中で暮らす私には騒がしすぎた。

 周りを行く人はきちんと着飾っていて、不躾な格好をしていないかと不安になる。

 場に相応しいだけの装いにはしたはずだけれど、何度も確認してしまう。


「……大丈夫かな?」


 帯のズレなし。翻りなし。

 よし、と意気込んで門をくぐり抜けた。


 すると目の前に、石灰色のいわおが現れる。

 思わず息を呑んで見上げてしまう、この都市で唯一の石造り建築。

 その壁面には装飾など一つもなく、無骨な窓がいくつか設けられているだけ。

 それは人の手になる建造物ではない。人々がこの都市へ根を下ろしたときに、都市そのものである大樹によって用意されたものだという。

 そのような出自であるからか、長い年月を経たはずの壁面には瑕疵はなく、いやにのっぺりとした印象を振りまいていた。


 それに、ここは嘘のように静かだ。

 すぐ後ろに行き交う人々がいるはずなのに、まるで音が飲み込まれてしまっているように、辺りには静寂が満ち満ちている。


 黄籃家の住まいも騒がしさを遠ざける作りをしているけれど、それでもここまで静かにはならない。

 その静謐さが、ひりつくような不快感となって皮膚の上を這い回る。

 騒音を許さないという、目に見えない圧があたりに充満していた。


(平気、平気……)


 何も誤ったことなどしていないのだ。私の用事は、悪いことじゃない。

 そう自分に言い聞かせないと、足を翻したくなるような恐怖が湧いてくる。


 あの人は、こんなところによくも毎日通えるものだと思う。

 もちろん、慣れも大きいのだろうけど……。


 そんなことを考えながら、数個の階段をのぼって庁舎内へ。

 案内板に従って星読みの勤務先へと向かう。


 こり、こり、こり……。

 一歩進むたび、足音が嫌に大きく反響して耳に刺さる。


 石の中を真四角に刳り貫かれた廊下は、採光のために設けられた窓では拭えないほどに狭苦しくて息が詰まる。

 それは静かすぎて、身動ぎの音が全て耳に届くということも無関係ではないだろう。

 息苦しくて、似たような景色ばかりで、自分がどこにいるのかわからなくなる。


 何度も案内板を確認しながら、前進していることを確認してしまった。

 ここに長くいたら気が狂いそうだ。

 出来れば早く済ませたい。そう思いつつ、空間を進む。進む。

 

 ――そして辿り着く。

 

 天文部はその重要性に反して、ひどくこじんまりとした佇まいをしていた。

 部署名の書かれた立て板は薄汚れて朽ちているし、内外を区切る扉には穴が開いている。


「ええっと……」


 本当にここであっているのだろうか、とキョロキョロ辺りを見回してしまった。

 だが、他に部屋はないようだし、案内板もここが天文部であることを示している。


 不安だが、仕方がない。

 はぁ、と一息ついて、薄汚い扉を開いた。


 そうして目に入ってきた光景への第一印象は、ああこれは行貞さんの勤めるところだなということ。

 整頓という言葉なぞ知らんとばかりに、机の上には紙束が積み上がり、床には方々に資料が飛び散っていて、飛び石のようにしか足の踏み場がない。

 にも関わらず、職員の方々は慣れた様子で、紙に足を取られることなく歩き回っている。


 たぶん、全員が全員自分、どこに何があるかわかっているのだろう。

 傍から見ると、単に散らかしているようにしか見えないのだけど……。


「あの!」


 この混沌に迂闊に足を踏み入れると、場を乱して仕事の邪魔になりかねないので、入り口から動かずに声を張り上げた。

 けれど、文机に向かっている職員は微動だにしない。

 無視されたのだろうか。

 いや、みんな行貞さんと同じ星読みなのだから、何か妙な対応が帰ってきそうな気がする……。

 少し身構えるようにして反応を待っていると、真後ろから声を掛けられた。


「あれ、見ない顔だ。うちから記録持っていく仕事なんて、決まった人しか出してこないのに……季節外れな新人くん?」


 ぎょっとなりつつ飛び退くと、私と同じくらいの身長の女性がいた。

 蹄の足音をコツコツと鳴らす彼女は、モコモコとした髪を羊毛のように膨らませて、着物の上に流している。


 ――蹄跫ていきょう族だ。


 彼らは同じ中層街区に暮らす種族ではあるけれど、数が少ないのであまり見かけることはない。

 この都市で混血の進んだ結果生まれた、とても若い種族だ。

 星読みはどんな種族からも現れるとは聞いていたけれど、いざ目の前に希に希を重ねた人物として立たれると、少し面食らってしまう。


「あれ、違った? じゃあ、なんの御用かなぁ。うちは何も面白いものはないと思うよ?」


 柔らかな雰囲気を全身にまとう彼女は、その四角い瞳をきゅうっと細めながら首を傾げた。


「あっ、ええっと、その、黄籃行貞の家内なのですけど……」


 自分で言っていて、何か妙な、しっくりこない感覚があった。

 あまり家の外の人と接しないからなのか、舌に家内という言葉が落ち着いていない。

 どうにもそれを主張するのは、気持ちが悪いというか……。


 そんな私の胸中を余所に、彼女には用件が伝わったようで、ぱんと手を鳴らされてしまった。


「あー、ゆっきーの! うん、用事わかった。渡して~って言われてるもの持ってきてる? まあ騙りなんかしないと思うけど、一応、本人確認みたいな感じで?」


 流石、星読みだけあって話が早い。

 持ってきていた文を渡すと、本物かどうかを確かめもせずに、

「ちょっと待っててねー」

 そんな軽い返事と共に女性は混沌とした資料の山に飛び込んでいった。

 もこもことした髪を跳ねさせながら、あれでもないこれでもないと資料を捲る彼女は、可愛らしい。

 これで、尾でも生えていればその点数は鰻上りだろう。


 うん、可愛い。私と違って、うん。


 ……しかし、ゆっきーという呼び方はどうなのだろう。

 同僚にしては些か以上に距離が近すぎやしないだろうか。

 私ですらそんな崩した呼び方はしたことがないというのに……。

 いや、呼びたいわけじゃなくて。いいえ、言えば呼ばせてくれるだろうけれど。

 あの人はわからないところが多いから、こうやっぱりたまには不安が――。


「あったあった、はいこれ! ごめん、だいぶくしゃくしゃだけど、破れたり、してない?」


 そんな思考に落ち込んでいた私の意識を、彼女の声が呼び戻した。

 目の前には、くしゃくしゃに折れ目がついた封筒が差し出されている。


「え、えっと、大丈夫みたいです」


 さっと封筒の中を改めてそう答える。

 しわくちゃになっているが、汚損はない。


「はー、よかった。どーしても、ほらぁ、うちって書類が多いでしょ~? だから、つい、雑に扱っちゃうっていうか……ごめんなさい」


 せわしなく視線を動かしながら言い訳を口にしたかと思うと、最後には申し訳なさそうな顔をして両手を合わせてきた。

 そんな彼女を見ていて、ああ、たぶんきっと、この人は誰にでも距離が近い人なのだと思った。

 きっと行貞さんが誰に対しても悠然と振舞うのと同じ、星読み特有の性格のようなもの。

 それが彼女はあの崩した接し方なのだ。


「え、い、いえ。平気でしたし。こちらこそ、お仕事の最中にありがとうございます」


 気がついてしまえば、全く何を疑っていたのだろうと恥ずかしくなってくる。

 仕事中の手を煩わせたというのに……。

 そんな私の胸中を知ってか知らずか、にっと笑顔になった彼女は私の手を取って言った。


「いーえー。お安い御用ですことよ。また何か用事があったらいらっしゃいな。うちは、そーいう人たちのための部署だからね」


 暖かな手だった。この人が読み解いた星に、救われた人はたくさんいたのだろう。


「……ええ、また何かご縁があれば」

「あっ、もちろん、就職しにきてくれてもいいんだよ?」

「それは、ちょっと」

「えー!」


 才能はあると言われているけれど、星を日常的に見る気にはなれなかった。


     ***

 

 政庁を出て、家に帰りついてから、手紙を開いた。

 あの場で見た方が意見を求められたのだろうけど、どうにもそれは、頼りすぎな気がしたから。


「……これは」


 紙面の上、不躾な筆致で書かれているのは日付と屋号と思しき名前だけ。

 被害者の名前はどこにもない。いいや、こっちの方が探しやすいのだろうけど。

 もう少し、読みやすく書いてくれてもと思わなくもない。

 ただ、同時に、普段は伝わりやすいよう気を使って話してくれているのがよくわかった。


「まだまだなんだなぁ……」


 甘やかされているというか。大事にされているというか。

 そんな自分に情けなさを覚えながら、また芙蓉にも頼らないといけないと思うと、落ち込みが深くなった。

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