参 常花と風車と

 ――からからからから

 風車かざぐるまの回る音がする。

 

 いつの間にか、世界が茜色に染まっていた。

 肌寒さを感じながらあたりを見回せば、布団の壁はそこにはなく、どこまでもいけそうな、凪いだ湖面がそこにある。


 知らない間に舟に乗せられていた。


「ここ、は」


 永遠の茜空に支配された、風車と睡蓮の浮かぶ湖。

 この都市の人々が還り、眠る場所。


 ――墓所だ。


 周囲には誰一人として見えない。

 見渡す限りの透き通った水と、底へ伸びていく睡蓮の根に寄り添う風車だけが見える。


 墓所に出るための船着場は見えない。

 相当に遠い場所まで出てきてしまっているようだ。


「なんで……」


 私は、芙蓉の店で布団を被っていたはずじゃ……。


「こんばんは」


 鈴が鳴るように、りん、と響いた声に振り向けば、白装束姿でにっこりと微笑んだ女性の姿が舟の上にあった。


 釣り目がちで、すっと通った鼻筋を持つ美人だった。

 艶やかな黒髪を、緩く三つ編みにして片方に流していて。

 その頭の左右に伸びる角は、三つの小さな枝を持つ枝角。

 そこには桔梗に飛び乗ろうとしている虫が彫り込まれている。


 美しく、自然な彩角だった。

 芙蓉の、そして私の教わったそれとは流派が違うけれど、敗北感を覚えてしまいそうなほどの逸品だった。


「あなたは」


 さっきまで、そこには誰もいないはずだった。

 たしかに私はそれを確認したはずなのに。


「あら、わからない? あの子ったら、わたくしのことを大事大事と言うくせに、子供にはきちんと教えていないのね」


 やれやれ、という風に肩を揺らした彼女は、どこか母に雰囲気が似ているような気がして。

 そして、私はどこかで彼女を見たような気がしている。


「会ったことが、あるんですか」

「会ったことはあるけれど、覚えていなくても当たり前なくらい小さな頃ですね。まだ言葉も話せていない頃だったから」

「ええと……」


 これだけ親近感の溢れる話し方をするのだから、それだけ母と親しかった人のはずだ。

 誰、だろう。


「わからないならいいの。つまり、あの子はまだそこにいるってことだから。嫌ね、あの子のは薄いと思っていたけど、見当違いだったみたい」


 よくわからないことを口にして、彼女は勝手に納得していた。

 話についていけないこちらとしては、会話をしてくれという感じだった。


「ごめんなさい。わからない話をしてしまいましたね。ちょっとした、忘れ物の話なの」

「母が、ですか」

「頭が切れるのね。それは、お父様譲りかしら」

「どうなんでしょう……会ったことが、ないので」

「……そうね。そうでしょうね」


 また勝手に納得されてしまう。


「もうごめんなさいったら。そんな顔しないで。わたくしはあなたを助けたんですよ」

「それって」


 あの時聞こえた声の主、ということなのだろうか。

 あの場所から、ここまで私を一瞬で移動させられるような力を持っている人。


「と言っても連れてきたのは心だけ。体はまだあそこ」

「神様なんですか」

「悪霊かしら。まだちゃんと葬られていないみたいだから」


 軽く吐き出された言葉に、ざざっと、舟の縁まで後退してしまった。

 そんなものに連れ去られて、私は無事に戻れるのだろうか。


「平気ですよ。あなたの角に括られた翡翠があなたを守っているし、それ以外にもこれでもかってくらいのまじないが掛けられている。白状すれば、どうして連れてこられたのだろうと、わたくしの方が疑問に思うくらい」


 思わず角の翡翠を指で撫でながら、彼女の言葉を聞いていた。荒削りなそれは、とくとくと脈打っているように不思議と力を与えてくれる。

 長寿や健康を願って付けられることの多い翡翠にそういう力があって、他にも守ってくれるものがあるのなら、どうして私はここにいるのだろう……。


「私が望んだ、から?」

「心に隙があったのはたしかだけれど、その程度でつけ込めるような生半な守りではありませんわ。よほど、行貞さんはあなたのことを愛しているのね。それとも、二度目が怖いのかしら」

「ええと……」


 会うたびにちょっとしたおまじないをかけてもらっているのはたしかだけど……。

 考えながら、彼女の放つ行貞さんをわかっていますという雰囲気に、自分の中の何かが眉を立てているような気がする。


 って、いや、そうじゃなくて。

 この話し方は……母も行貞さんも、この人と親しかったんだろうか?


「まあ、そういうことに才能があった、ってことじゃないかしら? いいじゃない、星読みの彼とお似合いよ」

「でも、私……実を言うと、行貞さん苦手で」

「あら、あんなに優しいのに? って、わたくしが言ってはいけないことなのだけど」


 それはまるで彼女も同じだったかのようだ。

 この人は、もしかして……。


「……あなたは、どうして、そうしたんですか」


 こんなにも行貞さんに詳しくて、そして愛されていたであろう人。

 なのに、彼を拒んだであろう人。


 何が彼女にそうさせたのだろう。

 あれほど大きな家の男が望んで、拒むことができる女とはどういうものなのだろう。


 私の問いに、彼女は悔いるような顔をして首を振った。


「いいえ、わたくしは何もしなかった。……そう、何もしなかったのですよ。わたくしはわたくしのことしかしなかった。本当に願えば、できたでしょうにね」


 けれど、そんな彼女を彼は愛したのだろう。

 愛が向かないとわかっていても、それでもよかったのだ。


 やはりそうだ。この人は……。


「あなたは卑怯だ」

「そうですね。わかっていました。でも、だからこそ、わたくしは結婚してからは彼を愛そうとしたんですよ。結果は……おわかりですわね?」


 彼女の心は、変わらなかった。

 愛は芽生えることなく、子供も生まれることはなく。

 彼女は、あまりにもあっさりと死んだ。


「でも、その時のゴタゴタで、あなたにお鉢を回したことは、酷いことをしたと思います」

「それは、どういう?」


 流行病で死んだのではなかったのか。

 それは母が未だに結婚しないことと、家に戻らないことに関係があるのだろうか。


「知りたければ、帰ってから訊ねてごらんなさい。あなたは少なくとも、行貞さんに興味を持っているのだから」

「え?」


 彼女は、ため息を吐くように苦笑を作った。


「わたくしはね、苦手ですらなかったの。わたくしたちの婚姻がただの儀式であるからと、意識してすらいなかった。酷い話よね。本当に、酷い話」


 それでもやり直そうとは思わないのだろう。

 この悪霊らしくない悪霊は、きっとそういう人だ。


「けれどあなたは、苦手という意識を向けている。つまりそれは、いくらでも好転し得るということでもあるのですよ」

「そうなんでしょうか」

「違うなら苦手、なんて言い回ししなさそうだもの」


 そんなにはっきり物を言うように見えるのだろうか。


「ここは心が晒される場所なのです。決してあなたがわかりやすい顔をしている、というわけではありませんよ。……まあ、わかりやすい方だとは思うけど」


 微苦笑されながらそう言われると、少し恥ずかしい気分になる。

 自分でも、隠せない方だという自覚はあったのだが。


「けれどね、はっきりと何かを伝えられるということはいいことですよ。そうやって、引き寄せたものがあるんじゃなくて?」

「そう、ですね」


 あそこまで押さなければ、私は彩角の技法を学ぶことはなかっただろう。

 必要なことだけを詰め込まれて、行貞さんの元へ嫁いでいたはずだ。


「将来、その生き方で傷つくことがあるかもしれない。けれど、何もしなかったよりかは、満たされているんじゃないかしら」

「あなたは、ダメ、だったんですか」

「半分半分、くらいかしら」


 くすり、と笑った彼女の姿がぐにゃりと歪む。一拍の後、現れたのは六つもの枝を持つほどに肥大化した角を持つ姿。

 その角全てに、精緻な彫刻が施されている。

 六つ枝には花を用いた想いを伝える彫刻があって、幹には施された美しい神話の彫刻がある。


 表情の印象をガラリと変える彫刻群を携えた彼女は、いつの間にか膝の上に、どこかで見たことのあるような目元をした、無骨な作りをした顔の男の首が乗せていた。


 恐ろしいとも言える姿だが、不思議と恐怖は覚えなかった。

 その首を撫でる顔が、慈しみに満ちていたからだろうか。


「死ぬ前にもこの角たちを手に入れていたし、死んでから、わたくしは本当に欲しかったものを手に入れたから。誤りも忘れ物も多かったけれど、総括すれば悪くはない人生でしたよ」

「私もそうなれるんでしょうか」

「それは、これからの努力次第。行貞さんは、すぐ星を見て諦めてしまうけど、星くらい動かせるものですよ」


 特にあなたは才能があるんだから、と彼女は笑った。


「さぁ、そろそろ子供は帰る時間ですよ」


 と、会話を遮るように男の声がした。ついさっき、聞いたような、優しい声音。

 話しているのは、彼女の膝にある首だった。


「いつまでも冥府に足を跨らせていては、君の生きているという力を使い果たしてしまう」

「まあ。そんなつもりはありませんよ?」

「無自覚、というのは恐ろしいものです」


 やれやれと彼がため息を吐く。

 たしかに、あまり長居すべきではないのだろう。


 彼女と話すのは、心地がいい。

 でも、私は生者で、いつまでも死者とともにいるべきではないのだ。


「本当にないのに……でも、そういう仕組みなら仕方ないですね。さぁ、お帰りなさい。そう願えば、あなたは元の場所へ帰ることができるけど……」

「だがそれは向き合うということだ。できるかい」


 心配そうに声を掛けてくる二人は、まるでおじやおばのようだ。

 片や母の元主人なのだから、それはあながち間違った印象でもないのだろうけど。


「はい。大丈夫です」


 この人とのやりとりで、だいぶ落ち着くことができていた。

 今なら、うまく誤魔化せるだろうし、何かを訊くにしても受け止められるはずだ。


「ならいい。でも、そうだ、一つだけおせっかいをしよう」

「あら、いいんですか」

「平気だろう。……さて、君はどうして逃げ出したくなったのか。そしてそれは、どちらから受けた印象なのか。あるいは両方なのか……その事を目覚めるまでに考えておくといい」


 そう言った彼に、頷きを返して。

 私は、芙蓉の顔を思い描く。

 彼女のところへ帰りたいと、思い、描く……。

 

 ――ちりん、とまた鈴の音がした気がして。

 寒気がすっと遠のいていった。

 

     ***

 

 そうして、水希が失せた湖の上で。

 舟に揺られる二人は浅く笑った。


「まったく、本当にどの口が言うのでしょう。一つだけだなんて、まったく」

「さて、なんのことやら」

「あら、下手なおとぼけですこと。わたくし、知ってるんですからね」


 女は膝の上に乗せた首の頬を摘むと、むっと眉を寄せた。


「わたくしがうとうとするたびに、見に行っているの、隠せていませんからね? さっきなんか助言なんかしてしまって、まったく」

「自分の娘に嫉妬ですか」

「わたくしの子ではありませんよ。でも、娘にも嫉妬するのがわたくしたちの女です」

「恐ろしい限りだ。まったく……あの子には、その病は出ないといいね」

「どうかしら。自覚がないだけで、もうきっとあると思いますよ」

「おや、誰に?」

「さあ……けれど、とても強欲だと言うことはたしかですわね」


 小さくクスリと笑った女に合わせて、首もまた笑った。

 それから二人は口を噤んで、ゆったり、ゆったり舟に揺られる、いつもの時間に戻っていった。

 

     ***

 

 ぐるり、と螺旋を描きながら下っていく感覚がある。

 全身をかき回されるような不快感。それは、蘇っていく感覚だろう。

 まだ体は遠いらしい。その間に、彼に言われた事を考えてみる。

 

 私はどうして逃げ出したかったのだろう?

 ――芙蓉に裏切られた気がしたから。

 そう。二人が本当に関係を持っていたなら、私は道化でしかない。

 ――どうして?

 好きな人に、ちゃんと好きな相手がいると知らないのは道化でしょ?

 ――本当にそう思ってる?

 ……。

 ――本当は、誰に裏切られた気がしたの?

 二人、とも。

 ――苦手な相手なのに?

 それでも、彼は私のために色々してくれたのに。

 それが、自分のためだったっていうのが、イヤ。

 ――普通はそうでしょ?

 ……。

 ――あなたに優しくするのは、自分に益があるから。そんなの、わかりきってたことでしょ。

 そうね。

 ――片方は名声を、片方は将来の愛を。あなたへの優しさで手に入れることができる。

 そう。

 ――けれど、それだけじゃなかった。

 それが気にくわないのかな。

 ――わからない?

 ……。

 ――あの景色を見た時、あなたはどっちになりたかった?

 

 ……両方。

 

 ――贅沢ね。

 わかってるよ。でも、私ってそういう人でしょ。

 ――ならどうする?

 まずは芙蓉から。その次は何でもわかったような顔をしてる未来の旦那さんを殴りにいく。

 ――決まり。

 

「はッぁ……」


 水面に飛び出るような勢いを感じながら目覚める。

 強烈な気だるさが全身に満ち満ちていた。

 それは長時間死者と共にいたことが影響しているのだろう。

 彼女は悪霊らしからぬ人だったが、精気を奪い取るという性質までもを失っていたわけではないのだ。

 だからこそ、あの首は警告してくれたんだろう。


「水希……?」


 布団の向こう側から芙蓉の優しい声が聞こえる。

 私がこれから、向き合わなくてはいけない人がそこにいる。


 でも、待って。少しだけ、息を整えさせて。

 そうしたら、話しましょう。

 とてもとても、大切な話を。

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