弐 残照の疼き

 タバコの煙が天井へと滴り落ちる。今日、二回目のタバコはロクでもない味がした。


「俺はどうすりゃいいんだろうな」


 思い浮かべるのは、直裁に感情をぶつけて来るお雪のことだ。

 あれは所謂恋愛感情なのだろう。それも、かなり幼く、いずれ捨て去られるはずのものだ。

 あれだけの着物を用意できる家ともなれば、既に婚約者がいるだろうし、裳着が済んだとなれば結婚の準備が進んでいて当然だからだ。

 とはいえ、適当に扱っていいわけではない。将来的なお得意様になるのかも知れないのだし、何より、女を傷付けたとなれば寝覚めが悪い。


 だから適切な距離を取ろうと励んでいる。踏み込み過ぎず、踏み込んできたら追い返す。恋を自覚した時、出来るだけ傷が浅くなるように切り捨てられるようにと。

 そう思って、いたのだが……。


「あんな顔されちゃなぁ」


 いつの間にか言葉は緩くなっているし、余計な真似もしてしまっている。

 またすぐに折られるのが嫌でやってやっただけの角化粧だが、あそこまで喜ばれるとむず痒くてたまらない。


 実際、髪を洗う時邪魔にならないような結び方にしても良かったのだ。そうすれば、もっと来訪を先延ばしにできただろう。

 そうしなかったのは、あるいは、己にも彼女に会いたいという気持ちがあるのかもしれない。


「ガキに振り回されてどうするんだか」


 いい大人が情けない。そう思って、啜りあげたタバコを捨てた。

 カン、と音が鳴って、灰吹きに灰が落ちる。だが、それにまだ火が残っていたのに気づいて、頭をかいた。

 何もかもが上手くいかない気分だった。

 そして、こういう時は、物珍しいことが起きると相場が決まっている。

 

 そう、例えば……また客が来る、とか。

 

「もし。まだ、受け付けていただけますか?」


 柔らかな声と共に、とん、とん、と戸が優しく叩かれた。一応は出したままだった休憩中の看板を見て声を掛けたのだろう。

 とはいえ時間が時間だ。状態にもよるが、ここから繋ぐとなると随分と遅くなるだろう。そんな時間に、中層へ帰る便はない。


「ああ、はい。いえ、今日は診るだけ、になりますね」

「まあ! ええ、そうですわね。時間が時間ですものね……」

「またご足労願うことになりますが……それでも宜しければ」


 ともかく状態を見ないと話にならない。わざわざ自分を頼ってきてくれたのだから、出来れば治療がどれくらいかかるかくらいは伝えたかった。


 戸を開くと、黄籃家の家紋が入った箱を背負った、渦角を持った女が顔を見せた。柔らかな物腰の、つり目がちな女だった。


 だが、その角が当人のものではないことくらい、繋角師の勇之助には一目でわかる。

 今ではほとんど使われていないはずだが、仮角、という技法がある。繋角が間に合わず、折れてしまった角のまま、どうしても外に出なくてはならない時、元の角に被せるようにして使う偽物の角だ。

 実際に使う時はもっとバレにくいように根元を密着させるとか、色々とコツがあったはずだが、目の前の人物は偽物であることに気づいて欲しいかのように適当な繋ぎをしている。誰がやらされたのか知らないが、よほど無理矢理やらされた仕事のように思えた。


 それに、このズレ方は……この人物は渦角の持ち主ではないように思えた。


「多くは語りません。色々と、見抜いていらっしゃるんでしょう?」


 くすり、花が咲くような笑みを浮かべた女は、釘を刺すようにそう告げた。勇之助としては詮索するつもりなど毛頭なかったのだが、改めて言われたのなら、より気を引き締めて口を噤むしかないだろう。


 そんな彼をよそに、女は背負ってきた箱を床に下ろすと、己の角にかぶさっていた偽物を取り外した。

 そこにあるのは綺麗な断面だ。角を根元から切ればこうなるだろうという感じの跡だった。

 注視すれば、少し加工をしたような跡が見える。これに、折れた角を繋ごうとして失敗した者がいた、のだろうか? それで、他に腕のいい者を探していた?


 自分はここに角を繋げるだろうか。無理ではないだろうが、元の角度がわからない。ここまで深い欠損を繋ぐとなると、問診を繰り返して元々の角度を思い出して行くことになる。難しい施術になるだろう。


 勇之助が考え込んでいると、角を見せつけるようにしていた女がくすりと微笑んだ。


「ああ、すみませんジロジロと。こればかりは、職業病でして」

「いいえ、構いませんの。見せていましたから。それで、あなた様ならここに角を繋げそうですか?」

「可能不可能で言えば、可能、だと思います。断面も綺麗ですし、たぶん落ちた方もそうですよね?」


 問いに、女がコクリと頷きを返した。


「なら、繋ぎ直すことそのものは、そう難しくはないですね。ですが……ここまで深い位置で断たれていると、元の生え方がわからないのです。これは、非常に大きな問題です」

「そうですわね。……あの方の最高傑作が、悪くなってしまう」

「何か、わかるようなものがあればいいのですが……」


 困った風に吐息した女に、同意するように唸り声をあげた。

 目安となるようなもの……何かないのだろうか。着ているものから察するに、この御令嬢は、お雪と同じかそれ以上のお嬢様のようだし、似顔絵など、あれば助かるのだが。

 そう考えていると、その心を読んだように女がポンと手を鳴らした。


「その角の時に描いてもらった肖像画がうちにあったと思いましたけれど、それで用は足りまして?」

「ありますか! 随分と助けになります」

「わかりました。手配いたしましょう。こちらに運べばよろしくて?」

「それで、あなた様が困らないのなら」


 言葉に、女は少し迷った風な顔をした。持ち出すのには、憚りのある情景のものなのかもしれない。あるいは、家族の許しを得なくてはならないとか。


「考えてみると、少し憚りがあるかもしれません。出張は可能ですか?」

「ええ、もちろん」


 否などと言えるはずもない。呼ばれたなら何処へだって行くものなのだ。

 そうして答えた後、告げられた家の名前にくらりとした。


「ではそのように。場所は黄籃が次男、行貞の家にてお待ちしております。家のものには、それとわかるよう伝えておきますので、道具のみお持ちになってくださいな」


 にっこりと微笑んだ女は、過日に己を跪かせた男を愛した女だったのだ。

 ――白綺定子。狂気の愛を持つ女が、今度の患者だったのだ。

 

 ***

 

『日時はお好きなように。体調を整えたりと、接ぎ師様にもすることがたくさんあるでしょう?』


 そう言い残して去っていった彼女は、二枚の紙を置いていった。表裏にビッシリと書き込みのなされた、角を写し取った下書きだ。

 それを見た瞬間、あまりの衝撃に勇之助はその場に縫い付けられ、彼女を見送ることすらできなかった。


 ――そこに描かれていたのは、月琴を奏でる角持つ天女と彼女のために歌を読むヒトの男の姿。白綺の祖先に纏わる神話の再構成。


 それを描き出す、流れる水のような、自然とそこに絵を浮かび上がらせるその筆致は、忘れたくても忘れられるはずもない。


 彩角師の二大派閥である水派の大御所、雲行の弟子にして、界隈の綺羅星。水派の薫陶を受けた誰もが羨む、水の字を冠する男。

 そして、勇之助が彩角師となるのを諦めさせられた、鮮烈な煌めきを持つもの。


 ――流水。


 その男の手になる異次元の作品が手の中にあった。詳細に描き込まれた下書きは、今にも物語を読み上げてきそうな感覚すらあった。


 これを勇之助は知っている。

 これが刻まれた女を知っている。

 それが歩いていた景色を見たことがある。


 ああ、何故気付かなかったのだろう。あの眉を、あの鼻を、口を、己は目に焼き付けさせられたのに。あの花嫁行列を見た誰もが、驚嘆し、恐怖し、畏敬の念を向けた彼女の姿を!


「俺が、これを?」


 繋ぐというのか。復元するというのか。あの女に笑みを取り戻させるために。

 この、おぞましいまでに美しい角を、取り戻させるというのか。


「そんな……」


 考えただけで手が震えた。あまりの難事に気が狂いそうになる。

 残照に触れただけで心の折れた男が、その根源に触れてまともでいられるはずがない。


 勇之助はこの依頼を聞かなかったことにしたかった。今すぐ追いかけていって、この紙を叩きつけたい。


 だが、繋角師としての誇りがそれを阻んでいた。


 今日言ったばかりではないか。己は、彼らを健やかにするために角を繋ぐのだと。そのために、続けているのだと。


 であればこの依頼こそ受けるべき代物だ。為さねばならぬ代物だ!


 わかっている。理解している。なにせ、もう頭はこれをどう繋ぐか考え始めているのだから。

 書き込まれた多量の走り書きが、あの流水の人間的な悩みの数々が、いくつもの助言を与えてくれる。きっとやり遂げられるに違いない。

 ではなにが、畏れを生んでいるのだ。何が前へ進むことを阻んでいる?

 

 それは……。

 

「まだ俺は、諦めてなかったのかよ」


 捨てたはずの彩角師としての血だ。


 それが、この傑作に関わりたくないと叫んでいる。

 それが、今すぐにでも何かを作りたいと叫んでいる。


 その熱量は、あの日、師匠に差し出した最後の作を彫った時とさして変わらない。それほどの力が、この下書きにはある。


 だが、今更誰に刻めばいいというのだ。

 この熱を、情動を、誰が引き受けてくれるという?

 授かった名前のように、薄ぼんやりとした己の化粧を?

 

「アテは、ある」

 

 一人だけ、いる。

 彼女ならば喜んで引き受けてくれるだろう。まるで告白でも受け取るかのように。

 だがそれは、愛につけ込む行為だ。無垢な女を凌辱するのと何一つ変わりはしない。


 だって、己は吐き出してすっきりとしたいだけなのだろう?

 そうしてまた、過去の中に捨て去ろうというのだろう?


 色をさすに値する、過去最高の出来になるものを、好意を向けてくれている相手に刻むということの責任を取ることもせずに。


 だが、だが……。


 取り留めのない思考が堂々巡りを繰り返していく。

 勇之助は、そこから動けない。

 そんな彼の目に、一つの走り書きが飛び込んできた。


 ――光か闇か。


 たった四文字のそれは、酷く滲んでいた。

 それは同じ彩角師だったからこそわかってしまう、迷いの言葉。流水という人間の苦悩の吐露だ。

 彼は花嫁の角に、こんな力作を彫り込んでしまうということの責任の取り方について、最後まで悩んでいたのだろう。

 こんなもの、誰がどうみたって告白だ。神話を引用するにしたって、挙式に相応しい神話の場面なんて、他に腐るほどある。


 ――なにせ神話によれば、このあと男に懸想した天女は彼に取り憑いて、厄災を撒き散らした挙句に殺すことになるのだから。


 つまりこれは、あなたにならそういうことをされてもいいという、流水から定子への告白だったのだ。よくよく見れば、天女の顔は定子に似ている気がするし、男の方は流水に似ている気がする。


 だが、完成した角を見る人間はそんなことには気づけない。巧妙に仕組まれた視線誘導のための装飾が、仔細に角を眺めることを許さないからだ。

 それはあくまでも添え物であるという主張故だったのかもしれないし、そうすることで定子の顔を皆に注視させたかったというのかもしれない。


 しかし、彼ほどの腕ならば、双方を満たすような彫刻が出来ただろう。流水とは、それほどの男だ。

 つまり、彼は最後の最後で逃げたのだ。刻み込んだ愛の言葉を闇に隠すことに決めたのだ。


「流水……なんだ、お前も人間だったんだな」


 全く笑ってしまう。だから、定子のことは思い出せたのに、角についてすぐ頭に出てこなかったのだ。下書きだけでこんなにも滾るものを見たはずなのに、あの日、迸ることをしなかったのだ。

 彼女はこの下書きを見ただろうから、きっとここに込められた彼の思いも理解しているだろう。だからこそ、改めて使いたいと言ったのではないのか。


 だが、もしものことがある。仮にそうだとすれば、己はどうすべきなのか?


「まずは問診、か」


 いずれにしろ、訊ねなければ始まらないのだ。繋角とは、繋ぐということは、相手を健やかにするために行うのだから。

 その角に込められた思いをも、繋がなくてはならないのだから。


 訊ねること、それが、全ての基本だ。


「よし……」


 もはや何も恐れるものはない。いいや、彼女に会うことは恐ろしいが、仕事に対する恐怖は何一つなかった。いつものように、望まれるように繋ぐことが出来るだろう。

 だから残るのは、彩角師としての自分だけだ。


「やるか」


 自然、言葉が出ていた。それは流水にも出来なかったこと。

 けれど腹を決めてしまえば簡単なこと。あとは相手次第なのだから。


「なあお雪、お前は、どうなんだ。本当のところはさ」


 わからない。

 わからないけれど。

 わからないからこそ。

 彼女が来るまでに、最高の一作を描いておかなくてはならないだろう。


 その心を訊ねるために。

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