Chapter1 黒き翼、舞う(下書き)

――プロローグ――


 寝覚めの悪い夜だった。

 夜中にもかかわらず目が覚めて、寝付けなくて、外に出た。月が皓々と照らす誰もいないがらんとした敷地。

 寄宿舎を後にして、自分の影と共に歩いた。


 ――この半年、夢にさえ見なかったのに


 胸にわだかまった夢の余韻が拭えない。

 見通しのきく澄み切った視界は、黒々とした陰影を残して青く広がっている。


 ふと夜闇を見上げると、そこに夜空を群青に染める白い月がぽっかり浮かんでいた。

 明るすぎて星すら見えない、角ひとつなく丸い月。


 世界は月に照らされ、月の世界で息づいているように。熱くもなく冷たくもない光の下で穏やかに静かに月に抱かれる。


 僕も。


 月明かりに胸の苦しみを溶かされるように、しばらく歩いていたかった。


 気がつくと、シンメトリーの様式美に整えられた中庭に足を踏み入れていた。

 点々と間隔をあけて、道に沿って続く街灯はただのシルエットと化している。


 月が明るいから今夜は灯りを入れていないのかもしれない。そんなバカなことを考えて、行く手にかかる月を見上げた。


 ――きれいだな


「綺麗だな」と声になって、ようやく深い呪いから抜け出して、別のことをそう口に出せた。


 夜露に湿った石畳を踏みしめる足が止まった。


「なん、だ……?」


 月が不意に欠けていく。不自然に切り取られていく。視線を凝らして正体に気づいた目が見開かれていく。


「え――」


 それでも、まだ信じられなくて。

 黒い街灯のさらに上に佇んだ人影を唖然と見上げた。


 月にかかるように悠然と現れた影。不意に強くなった上空の風に、影のように黒いコートがはためいた。

 同じように月を見上げているのだろうか。

 その背中に翼のように黒い影が羽ばたく。

 翼が翻る度に、月は欠け、切り刻まれた。刻まれた月は返って皓々と明るく、黒い爪にからめ取られるように美しい。

 逃れようともつれ、再び絡み合う姿から目が離せない。


 ――いつまでも、こうして


 翼の主が緩やかな動きを見せて、シルエットを変えた。逆光で見えないはずなのに、なぜかこっちを向いていると思った。


 ――気づかれた


 異様だ。あんな人影は異様だ。そう思うのに、頭の芯がシビれたようにその場から動けなかった。


 月と夜の影が重石のように僕を支配する。黒い翼がその手に搦めとる月のように僕は、


 ――もっと


 ――もっと、見ていたい


 渇望が。腹の底からじわりと歓喜を求めて湧き上がる。


 ――綺麗 、……だな


 ぐびり、と僕の喉が鳴った。

 手の届かない美しいものを愛でる気持ちは、もう、ここにはない。


 ――月のように翻弄されたい


 反発し合い引かれ合うもの同士が、生き物のように妖しく揺らめく。

 その姿を目と言わず、心に焼き付ける。


 ――身動きのできない僕を抱いてくれないか


 あさましい思いを見透かすように、月と黒い翼が僕を見下ろしてあざ笑う。


 体の芯は熱いのに、ぞくり、とうち震える。


 夜空を侵す美しい不協和音が、不意に言葉を放った。


「――よけなさい」


 見とれていたぼくの耳を打った無機質な声。


 従うように体は動いて、


 でも、間に合わなかった――。


 爆音。衝撃と音は同時だった。一瞬で体が宙を舞う。石畳の破片と共に。


 浮いたと思った直後、地面に叩きつけられ、僕はぶざまに這いつくばった。目は霞み、音は遠い。なのに、夜の気配がした。


 ふわりと何者かが地面に降り立つ気配。


 高らかな足音を響かせて、夜風がさらう土埃の向こうから、近づいてくる。

 かつん

 あと数歩のところで、はきれいに立ち止まった。


 僕は月を見上げようとして、黒い翼の主を目にした。


「あなた」


 ひとかけの感情も残さない表情で、彼女は口を開く。

 みがき抜かれた漆黒の瞳に、果たして本当に僕は映っているのだろうか。けれど、僕の体はぞくりと同じ興奮を持って打ち震えた。夜よりも秘めやかで、闇よりも深い瞳が僕を堕とす。


「あなた――死ぬのは、怖い?」


 感情を知らない声で、彼女は宣告するように告げた。

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