公爵家の養女は『兄』に恋をする。

久浪

第一章『公爵家の謎多き養女』

忘れられない日







「さようなら」


 心から大切な人の、その言葉と声を覚えているのに、表情を思い出せない。

 ただ、雨が、遠ざかる姿を掻き消していったことは、覚えている。



 *



 ひどい雨が降っていた日だった。

 宵闇の中、一人の男が馬を駆り、灯りの一つも持たずにひたすらに進んでいた。

 道すら見えない山を越え、闇に紛れ、疲弊しながらもたどり着いたのは──立派な邸。

 時刻は朝方だが、雨雲により、辺りはまるで夜のようだった。

 雨で視界が悪い中見えた邸は、広大な敷地を高い柵で囲む。出入り口は表と裏の二つあるが、どちらも門番がついている。

 男が迷いなく裏の方に駆けていくと、灯りを持ってぼんやりと警備に当たっていた門番がびくりと跳ねて、槍を馬に突きつけた。


「何者だ!」

「アルバート・ジルベルスタインの友人だ。彼に、『学院での競争相手』が来たと伝えてくれ」

「……アルバート様の……?」

「早く」


 有無を言わせぬ口調に、門番のうち一人が中へ消えていく。

 その間に男は馬から降り、共に乗せていた小柄な姿を馬から下ろした。

 どちらもローブを身につけ、フードを被ってはいるが、あまりの雨の酷さに全身ずぶ濡れで、顔も、髪も、雨の冷たさを防ぐのは間に合っていなかった。


「すまないな、寒いだろう。疲れただろう。もう、終わりだ」


 少女を引き寄せ、男は優しく語りかける。

 フードから覗く男の容貌は、はっと息を飲むほど美しかった。

 淡めの色合いをした茶色の髪、澄んだ水色の目。濡れた髪一筋、睫毛一筋まで整って見えた。


「ヴィンス!」


 待つこと三分、門の内側を走ってきた男は、門番ではなかった。

 門を開けさせた男は、突然の訪問者をヴィンスと呼び、外に出た。傘もささず、上着も来ていない。寝ていたところをそのまま出てきたような、格好だった。

 久しぶりに会うヴィンスを見て、その傍らを見て、彼は現状を把握した。


「──実行出来たのか」

「ああ。アルバート、無理を言ってすまない」

「いい。中に入れ」

「いいや、ゆっくりしている暇はない」


 ヴィンスはしきりに背後を気にしていた。

 朝方とは思えないほどの暗さで、辺りはよく見えない。音も、雨の音が酷くてろくに聞こえたものではない。

 逃げ、時間を稼ぐには適した天気だが、様子を探り難いのは追う側のみならず逃げる側も同様だった。


「追われているのか」

「分からないが、追っ手が放たれている可能性はあるだろう。だとしても、出来ることはしてきた。少なくとも出るときは気がつかれなかったから、見当はつけられていないはずだ。……だが、この子がいないことにはいずれ必ず気がつく」


 ヴィンスは傍らに視線を落とした。

 彼に抱き寄せられている少女は、寒さで小刻みに震え、目をヴィンスに向けていた。

 少女にとっては、ここに来るまで全てが突然で、未だに詳しい説明も受けていなかった。ただ、兄である男の様子が普段にはない様子であることを感じ、身を寄せていた。


「アルバート、改めて頼む。妹を頼めないか。この子は、あそこに囚われている限り、幸せにはなれない」

「それは半年前に受諾したはずだ。頼まれてやる。だからさっさと中に入れ、お前とお前の妹のこれからのことを」

「私は戻る」


 言葉を遮られたアルバートは、眉を寄せ、「何を言ってる」と目の前の男の正気ならざる言葉に吐き捨てるように言った。


「私は戻らなくてはならない」

「馬鹿言え、お前ごと守ると約束してやる」


 しかし、ヴィンスは微かに笑った。


「笑ってる場合か」

「いや……私の人生で二番目の幸運は、君に出会えたことだろうな」

「何だよ二番目って。中途半端だな」

「学院時代はよく二番目になっただろう?」

「──言いやがる」


 ぴくりとこめかみをひきつらせた男に、ヴィンスはまた微かに笑い、ふっとその笑みを消した。


「私は役職柄、様々な場所に行った。広く顔が知られている。特にここでは学院にも通っていた。ここに私もいれば、情報が伝わってしまう可能性がある。かと言って、他のどこに逃げてもその先に迷惑をかけてしまう。私は戻ることが一番だ」

「だが、素知らぬ振りで戻ったとしても疑われるんじゃないのか」

「問題ない。私は命乞いの仕方を知っている。ただし、死んでもこの子の居場所は明かさないがな」

「──ヴィンス」

「問題ない」


 それより、とヴィンスは寄せていた子の背に、手を添えた。見上げる少女と、ヴィンスの目が合う。


「いいか、これから君の名前はシルビアだ」

「……シルビア?」

「そう。私の可愛い妹、君の名前はシルビア。『女神』でもなく、その他のこれまで呼ばれてきたどれでもなく、シルビアだ」

兄様にいさまが、呼んでくれた名前は?」

「私もシルビアと呼ぶ。私が君につけた名前だ」

「兄様が」


 小さく、少女は喜びを表した。

 その微かな笑顔を目に焼き付けるように見たヴィンスは、引き剥がすような思いで目を離す。


「アルバート、頼む」

「……ああ」


 少女は、そっと前に背を押された。兄である人から離れ、知らない人の前に来る。


「シルビア、彼はアルバート。私の友人だ」

「ゆうじん……?」

「うん。信用が出来る、頼りがいのある男だ。私が教えてやりたいが、その意味はこれから学んでいくといい。ただ、これだけは言っておこう」


 ──彼は、大丈夫。怖がることはない。君を傷つけることはない。


 少女の濡れた髪を撫で、言ったヴィンスは、少女のフードを深く被り直させた。

 そして、フードの陰から見上げる少女に、ヴィンスは微笑む。


「さようなら。私の大切な、大切な妹」






 彼は、一人、豪雨の中に消えて行った。


 少女、シルビアにとって、兄との別れ、『兄』との出会いだった










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