世界を愛するランダム・ウォーカー

1-1『死者と語らう音楽会』―なんてことだ。死者がみえる


 建物のあいだを小舟がすすんでゆく。

 窓から漏れる夜の明かりに手がとどきそうだ。

 民家の玄関すら運河に面している水上都市。

 ヨキは小舟の後方にたち、をこぎながら、街並みを眺めていた。水面に張りだしたテラスでは、身なりを整えた紳士と淑女が夕食を楽しんでいる。目を閉じ、耳を澄ませば、遠くで奏でられる弦楽器の音が聴こえてくる。


「さすが、水と音楽の都グランナーレ。とてもいいよ」


 小舟の前に座るシュカがいう。黒のリボンタイにオフホワイトのドレスシャツ、そしてヴェルベットのジャケットにスカートというフォーマルな格好をしている。ヨキもスラックスを履き、胸元にはネクタイまでして、服装を街の雰囲気に合わせていた。


「意外ですね」ヨキはいう。「先輩はこういうクラシカルな音楽は好きじゃないと思っていました。退屈だって」


「大好きだよ。交響曲も、長いコンサートも。だって、気持ちよく眠れるじゃないか」


 船は森のなかへと入ってゆく。水底から背の高い木々がはえる海漂林。葉が茂るのはかなり上のほうだけで、真っ白な幹と枝が暗闇のなかに林立している。ヨキにはそれが、白骨の森のように感じられた。

 シュカが船にそなえつけられたランタンにマッチで火をいれる。

 青みがかった水は澄んでいて、水中には、複雑に枝分かれした根がみえた。


「ああいう身を隠せそうな場所をみるとさ、どんな生き物が潜んでいるのかなって、気になっちゃうよね。変わった魚がいるといいなあ」


「僕はグロテスクなやつを期待しちゃいますね。でも、今回は生物調査ではないですからね」


「わかってるって、音楽でしょ。大丈夫、街に入ってからどんどん高まってきてるよ、私の音楽センスってやつがさ。ああ、うずうずしてきたね。私もなにか演奏したいよ」


「先輩、楽器できるんですか?」


「うん。小さいころ、いっぱい笛を吹いていたよ」


 小舟は海漂林のあいだを縫うように進んでゆく。水面に白く大きな根が張りだして広場のようになった場所に、子供たちがいた。みな、それぞれ金管楽器や弦楽器を手にもっている。材質や形状に多少の差はあるが、セントラルの楽器とさほど変わりはない。良い音を奏でられる形状は限られていて、どの地域でも同じような形に収束するのだろう。トロンボーン、チェロ、バイオリン。子供たちは陽が暮れているにもかかわらず、ランタンの灯りで楽譜を照らしながら、熱心に演奏をしていた。


「素人目にも上手だとわかりますね。先輩が洟たらしながら、ぴいひゃら吹いていた笛とはわけが違いますよ」


「洟はたらしてないって」


 それにしても、とシュカはいう。


「本当に、音楽と暮らしが一体となった街なんだね」


「ええ。あんなに小さい頃から楽器にさわって、本格的な演奏をしてるんですから。強迫的な英才教育にもみえますが、まあ、この街ではそれが当たり前なんでしょう。言葉を覚えるように、音楽を覚える」


 そして今宵、そんな街の人々ですら驚く、世にも奇妙な音楽会がおこなわれるという。

 小舟はすすみ、その会場がみえてくる。

 木々がひらけ、海漂林のなかにぽっかりとあいたスペースに小島がある。そこに、誰からも忘れ去られたような、古びた教会が建っていた。月明かりに照らされる、蔦に覆われたレンガ造りの壁。岸にはすでに多くの船が泊められており、厳かな服装の人々が建物のなかに入ってゆく。それは、入口からもれる温かい光に吸い寄せられているようにみえた。


「ここで、くだんの音楽会がおこなわれるわけですね」


「うん。けれど、それは本当に音楽会といえるのかな。私には、もはや人の領分を越えているように思えるけどね」


 シュカは少し暗い口調で、しかしどことなく喜色を帯びた声でいう。


「死者と語らう音楽会なんてさ」



   ◇


 天高く、遥か上空にセントラルという名称の天空国家がある。

 セントラルは突出した文明水準にあり、かつては地上の管理者を自負し、地上の広大な地域を支配下においていた。しかし文明の成熟期に至った現在では、かつての征服国家としての野心は鳴りをひそめ、地上への不干渉をつらぬき、位置や視覚情報を偽装しながら、ただ、ぼんやりと空に浮かんでいる。今のところ、セントラルより進んだ水準にある文明は観測されていない。しかしそんなセントラルでも全てを知るに至ったわけではない。

 世界は広く、深い。

 いまだに未知の現象、生命は数多く存在し、地上の人間が未知の技術を開発していることもある。そしてなにより、世界地図が完成に至っていない。大量の敵性生物、対策不能のウイルス、地域一帯に広がる放射能ベルトなどが、人の侵入を許さない『未踏地域』を形成していた。未踏地域にはセントラルを凌駕する文明が存在する可能性もある。

 そんな広大な世界を解き明かすため、セントラルは中央調査局という国家機関を設置していた。調査局には多数の調査官が勤務し、日夜、世界各地の調査にいそしんでいる。

 ヨキはそんな数多いる調査官の一人で、シュカはその女上司だった。

 二人は個人的な興味が九割、国家への忠誠心が一割くらいの気持ちで、日々、調査に励んでいた。そして今回、ヨキが目をつけたのが、グランナーレの周辺地域で話題になっている異形の音楽会だった。なんでも、音楽会に参加すると死者と邂逅することができるという。

 霊魂の存在と死者の証明という、議論の尽きないテーマに心惹かれ、ヨキはセントラルの調査官室で、シュカにその調査を提案した。


「死者かあ、ちょっとダークな香りがするなあ。私は今、未開の地にある古代遺跡を大冒険! って気分なんだよ、困ったことに」


 シュカは最初、そんなことをいってしぶっていた。しかしほどなくして、「やっぱいこう」と急に立ち上がってロッカーに旅行鞄をとりにいった。

 ディスプレイに表示されていたのは、グランナーレの人々の服装に関する資料のページだった。ゴシック調の服装の数々。リボンタイとシャツとジャケット、それらにマーカーラインが引かれていた。


   ◇


 演奏をおこなうのはジョエルという名の放浪の演奏家であるらしかった。街の人々によれば、ひと月ほど前にふらりとあらわれ、すでに三度の音楽会をおこなったという。

 古びた教会にはすでに多くの人が集まり、演奏者の登壇を待っていた。みな黒を基調とした服をきて、厳かな面持ちをしている。

 シュカが前にいきたがったので、ヨキも最前列に座ることになった。左にシュカ、右には黒いレースで顔を覆った婦人が座っていて、膝の上に人形をおいて両手で握りしめている。


「娘のものです」ヨキの視線に気づき、婦人がいう。「気に入っていたので、もってきました」


 薄い布越しにみえる目はすでに赤らんでいた。


「あなたは初めて?」


「はい。あの、ぶしつけな質問で恐縮なのですが本当に死者と会えるのですか?」


 ヨキがたずねると、婦人はうなずいた。音楽会のたびに死んだ娘と再会しているという。ブロンドの髪の、透きとおるようなソプラノの声の女の子だったと婦人は語った。


「僕にも娘さんの姿をみることはできるのでしょうか」


「いえ、死者は必要とする人のところに訪れるそうです。それぞれが、己の求める死者と会う。ですので、娘をみることができるのは私だけです」


「そうですか」


 セントラルの執務室で、ヨキとシュカはひとつの仮説を話し合った。死者に会うというのは一種の催眠状態ではないか。楽器の演奏で暗示をかけ、過去の記憶を呼び起こす。それが、さも目の前に故人がいるような錯覚におちいらせる。記憶がベースになっているから、故人を知らない人間がみることはできない。

 婦人の話した死者との対話は、その仮説から予想される現象そのままだった。

 左どなりをみれば、シュカが膝のうえにおいた両手の指を立てたり倒したりしている。左手の小指から順に倒していき、五本の指が倒れると、右手の指がひとつ立つ。五進法で、一定のリズムを刻んでいる。脳に安定的に一定の思考をさせることで、暗示や催眠にかかりにくくするための手法だ。ヨキも同じことをはじめる。

 誰よりも冷静な目で、死者と語らう音楽会を見定めなければいけない。


 壇上にのぼったのは、背の高い帽子をかぶり、正装に身をつつんだ男だった。指輪やラペルピン、カフスをしており、装飾過多な印象だ。繊細な顔つきはどこか女性的で、男装の麗人といっても通用しそうだ。


「女の人じゃないよね」


「ええ。ジョエルというのも男性名ですし」


 会場が静かになり、二人は黙る。

 ジョエルは木製の棺を背負っていた。それを腰の高さほどの台の上に置く。死体でも入っているのだろうかとヨキは思ったが、そうではなかった。ジョエルが棺のなかから持ちあげたものは、長い、円筒状の棒だった。それはガラスのような透過性のある物体で、ロウソクの灯りを受け、虹色の輝きをはなっている。棺のなかに燭台のような二本の金色の支えを立て、そこに円筒が置かれる。ジョエルはそれで準備が整ったとでもいうように、指輪をはずしてポケットにいれ、まるで鍵盤にむかうように、両手をかまえた。

 人差指でガラスの円筒をなぞった瞬間、今まで聴いたこともない高音が響いた。

 耳で聴こえたというよりも、目の奥に訴えるような、直接脳に響いてくるような音だ。

 ヨキは、一瞬、めまいがして、なぜか小さい頃に父親の書斎にはじめて入ったときの記憶がフラッシュバックした。

 ジョエルは聴衆の反応をどこか無感情な瞳でながめながら、次に二本の指を使って、なぞる。そこには音階があった。だんだんと、使う指を増やして、複雑な旋律を奏ではじめる。メロディーも和音もあるように聴こえるし、しかし渾然一体となって一つの音のようにも聴こえる。おそくなったり、はやくなったり、抑揚がつく。

 ガラスの円筒の、指でなぞる部分によって、違う音がでるようだった。

 単純な構造のものを、力もこめず、指でなぞっているだけなのに、複雑怪奇な音楽が織りなされる。白骨のような海漂林、古びた教会。そんな舞台とあいまって、その音色には呪術的な力が帯びているように感じられた。

 ジョエルの口元が薄く笑っている。

 ヨキは演奏を聴きながらも、手元で五進法の加算をおこないながら、音楽に全ての意識がもっていかれないようコントロールし、周囲を観察した。

 会場のあちらこちらから、すすり泣く声や、話し声がきこえる。不思議なことに、それらもジョエルの奏でる音楽の一部であるように感じられた。

 右隣の婦人が、熱心に空中にむかって話しかけ、手に持っていた人形を差しだしている。

 教会のなかは、名状しがたい、異界のような空間になっていた。

 聴衆たちはたしかに冥界とつながり、死者と話している。しかしヨキにはなにもみえていない。まるで自分だけが別世界の住人で、それこそ世界と隔絶した死者のように思えた。

 もう一人の異邦人であるシュカに目をやる。

 シュカは椅子に深く座り、こめかみに手をあて眉間にしわを寄せていた。


「なんてことだ。死者がみえる」



   ◇


 演奏が終わり聴衆たちが帰りはじめても、ヨキはそのまま座っていた。シュカが気分のすぐれなさそうな顔をしていたからだ。シュカは調査官の前は軍属だったから、多くの死者を見てきたはずだ。なにかしら嫌なものでもみたのだろうと気をつかったのだが、どうやら考えごとをしていただけのようだった。


「やっぱり、脳への干渉なんじゃないかな」


 顔をあげてシュカがいう。


「暗示や催眠のなかには本人が忘れている過去の記憶を呼び起こすやつがあるでしょ。外部からの干渉で、人は容易に様々なものを引き出される」


「つまり、音楽をトリガーにして過去にみた視覚情報を引き出された、と。理論上は可能でしょうね、脳は今までみた全てのものを深層に記録しているといわれていますから。それで、先輩は、あくまで死者は独立して存在するものではなく、各個人の記憶に立脚していると推測しているんですね」


「うん。私は死者と言葉をかわさなかったし、話しかけられることもなかった。だって、私はその死者たちの声を知らないんだ。私には生前、話したことのない人たちがみえていたのさ。呼び起こすべき声の記憶がなかったから、話すことができない。説明がつくでしょ?」


「ええ。そして先輩がみていた死者が僕にはみえていなかったこととも、整合性がとれます」


「ヨキは誰か死者をみた?」


「いえ、誰も」


「心が冷たいんだな」


 亡くなった人のことを大切に思わないサイコパスだから死者をみなかったのだと、シュカは悪戯っぽくいう。ヨキは、祖父母も含めて家族が生きているからだと反論する。そんなやりとりをしているときのことだった。


「死者は必要とする人の前にあらわれる。それは自分でも気づかない、心の奥底の願望でもいい。もしみえなかったのだとしたら、それはおそらく心のどこにも死者に会いたいと望む気持ちがなかったからだろう」


 礼拝堂の後方に、装飾過多な男が立っていた。ジョエルだ。帰り支度を整えていて、棺を背負い、指輪もしている。「素敵な演奏をありがとう」とシュカはいう。それはお世辞でも皮肉でもなく、本当の賞賛の言葉だった。死者と語らうという未知の部分をのぞいて、演奏だけをみれば、その音楽はたしかに神秘的で感動的ですらあった。


「とても不思議な楽器を使うんだね。初めてみたよ。音楽の都グランナーレの人たちですら、あなたがくるまではみたことがなかったらしいね」


 シュカがいうと、「僕は遠いところからきたからね」とジョエルはこたえる。


「この楽器はね、ハープティカというのさ。指でなぞると、振動が共鳴して音をだす。みためにはわからないかもしれないけれど、演奏しているときは指先にとても強い感触がある。僕が生まれた街では、その振動で気分を悪くする奏者も多くいた」


「あの透明な筒はガラスでできているの? とても綺麗だよね」


「人骨さ」


 一瞬、場の空気が停止する。しかしジョエルは平然とつづける。


「背骨をとりだしてね、磨きつづけるんだ。虹色の光沢がでてくると、音もだいぶよくなる」


「人骨はいくら磨いてもそんな風にならないよ」シュカがいう。


「なるさ。ハープティカの奏者はみんなそうやって自分の楽器をつくるんだ。誰かの背骨をもらう。肉親が多いけれど、僕のは、若くして死んだ友人のものだ。とても、大切な楽器だよ」


 ジョエルはやわらかい表情を浮かべており、どこまでが本気で、どこまでが冗談なのかヨキにはわからない。シュカもひとまずそこは判断を保留するつもりのようだった。


「少し話を聞かせてもらったけれど、君たちは死者の存在を信じていないね」


 ジョエルは特に気分を害したふうもなくいう。


「そういうわけではないんだけれど」


 ヨキは申し訳なさそうな顔をつくる。


「死者が独立した存在であるとするならば、死後の世界や、肉体の消滅後にもこの世界になんらかのパーソナリティが残留していることを肯定しなきゃいけない。魂というやつだね。けれどそういったものはいまだ観測されていないからさ」


「僕は音楽家だから難しいことはわからないね。けれど、死者というのはそんなに受け入れがたいものなのかな。僕の街ではその存在は当たり前だったし、今も演奏しているときは死んだ友人を感じている。どうしたらみんなも、僕が感じているように、死者というものをソリッドに、身近に感じてくれるんだろう。インチキなんかじゃないんだけどな」


 ジョエルは本当に悩んでいるといった顔でいう。死者と語らうことを前向きにとらえていて、それを親切心から広めたい。その表情からはそんな心が汲みとれ、ヨキは少し気の毒になる。


「僕たちは君が起こす現象を、記憶の再構成だと推測している。それを覆すのであれば、会ったことのない死者に会うことが必要だ。それができれば、記憶のフラッシュバックじゃないと明確に否定できる。さらにその死者を複数人が同時に目撃できれば、なお独立した存在として証明できるかもしれない」


「記憶にはない死者、か。そういうことなら、ちょっと一緒にきてくれないかな。困っていることがあるんだ。けれど、もしかしたら君たちのいうところの死者の証明に繋がるかもしれない。実は外に男の子を待たせていてね。演奏が終わっても死者が視界から消えないっていうんだよ。僕もこんなことは初めてで、どうしていいかわからなくてね。君たちは死者に興味をもっているようだから、よければ手伝ってくれないかな」


 ジョエルにつれられ、教会の外に出てみれば、十才前後の小太りの男の子が待っていた。ジョエルの顔をみるなり、すがるような顔で歩みよってくる。


「僕、どうしたらいいんだろう」


 男の子がいい、「あわてる必要はないよ」とジョエルがこたえる。


「この根暗そうなお兄さんと、綺麗なお姉さんが協力してくれるからさ」


「いや、根暗というのは語弊が――」


 ヨキの言葉をさえぎって、シュカが男の子に話しかける。


「なにか怖いことがあるの?」


 シュカが問いかけると、男の子は「うん」とうなずく。


「ずっといるんだ」


 誰もいない、船着き場の暗闇を指さす。


「演奏が終わっても、消えないんだ」


「なにがみえてるの?」


「女の子」


「それは知ってる子?」


「ううん、知らない子」


 ヨキとシュカは顔を見合わせる。


「演奏がはじまったときから、ずっと僕をみてるんだ」


 男の子は泣きだしそうな顔でいう。

 黒いドレスをきた女の子が、充血した目で睨みつけているのだそうだ。


   ◇


 男の子の名前はパオロといった。十二才で、ふっくらとしていて、短パンをサスペンダーで吊っている。マシュマロみたいでカワイイ、とシュカはいう。そんな、少しおっとりとした印象の子供だった。死者がずっとみえていては怖いだろうと、ジョエルが当分は付き添って生活することになった。

 ヨキはジョエルの真意を測りかねた。なぜあえてヨキとシュカにパオロの手助けを頼んだのだろうか。たしかに死者の存在について疑問をもっているが、死者の存在を信じさせたいのであれば、他にも同じように死者に疑問をもっている人間はいるだろう。


「まあいいじゃないか。まさに渡りに船といったところだよ」


 シュカはいう。


「今、ジョエルといえばグランナーレで時の人だ。その旅の仲間ということにしてもらえれば、色々と調べやすい。パオロも助けられる。あんな年で、ずっと視界にホラーな存在がいるなんて、可哀想すぎるよ」


「一応いっときますけど、死者の調査が主な目的ですからね」


「わかってるって。パオロが本当に知らない死者をみてるんだったら、私たちの、死者は記憶の再構築という仮説が否定される。そして死者というものが本当に独立して存在している可能性が肯定されれば、霊魂や、死後の世界といった観念も肯定され得る」


「そういうことです。全ては学術的調査のため。人助けは基本なし。そもそも僕たちの職場には調査官三原則というものがあってですね、地上の人間への干渉行為は――」


「あー、えー、いー、うー、えー、おー、あー、おー」


「発声練習してごまかそうたってそうはいきませんよ」


 二人は、ナルサス音楽院にきていた。グランナーレの子供たちが九才から通う学校で、中庭を歩いてみれば、あちこちで、制服を着た学生たちが思い思いに楽器の練習をしている。二人組になって、互いの演奏について意見を言い合ったり、セッションしているものもいる。まさに切磋琢磨する学び舎といった雰囲気だ。


「これは死者からのメッセージだよ! まずは身元調査だな!」


 昨夜、教会の前でパオロから事情をきいてすぐ、シュカは、この死者が誰なのかをつきとめようと提案してきた。それについて、ヨキも同意した。パオロのみている死者は、ジョエルも含め他の誰にもみえてない。つまり、嘘をついている可能性すらある。そのため、その死者が現実に存在していた人間なのかを確かめようと思ったのだ。そんなわけで二人の思惑は一致し、街の子供たちが通う学院にやってきたのだった。ちなみに、演奏が終わっても死者が見えつづけている原因はジョエルにもわからないとのことだった。こんなケースは初めてだという。

 学院の中庭をさっそうと歩くシュカ。小脇にはスケッチブックを抱えている。なかに描かれているのは、パオロから聴き取った死者の似顔絵だ。赤い髪で、耳の裏に右手の人差し指と中指をあてている女の子で、年ごろはパオロと同じくらいだ。


「ああ、それはエヴァです。エヴァンジェリン・グレイス。やはり亡くなっていたのですね」


 応接間で、老境にさしかかろうという女性の学院長はいった。死者と語らう音楽会の話をして、シュカが似顔絵をみせてすぐのことだった。


「赤い髪の、音楽の神に愛された少女。耳の裏に指をあてるのは彼女のくせです。エヴァの耳は特別だった。普通の人には同じように聴こえる音でも、その微細な違いを聞き分けることができた。優れた画家が、黒のなかに何色もの違う黒をみるように。そしてそんなエヴァが奏でるバイオリンは、繊細な音の洪水だった」


 学院長は、長い髪をかきあげながら染み入るように語った。


「今、『やはり』亡くなっていたといいましたね」


 ヨキが指摘すると、学院長はうなずき、エヴァがずっと行方不明であることを告げた。


「失踪したとか、誘拐といったことでしょうか」


 行方不明ときいて、ヨキはすぐに暗い想像を口にし、シュカに足を踏まれる。しかし学院長は気にしなくてけっこうですよと、哀しげに笑ってとりなした。


「そういう不穏なことではないのです。不幸なことではありますけど。去年の夏、数十年に一度あるかないかというような大水がグランナーレを襲い、そのときに多くの学生が流されました。エヴァもその一人です。惜しい子を失くしました。あれほどの才能は、それこそあの大水のように、数十年に一度しかあらわれないというのに」


 学院長は、死者としてあらわれたエヴァは楽器を演奏できないのかとたずねた。おそらくできないだろうとヨキがこたえると、学院長はがっかりした顔をした。それは、学生を亡くして哀しいというより、素晴らしい楽器を失くして哀しんでいるような表情だった。


「学内でエヴァのことをたずねてまわってもいいかな。どうして死者としてあらわれたのか、なぜ消えないのかを突き止めたいのさ。心霊探偵としてはね」


 シュカがいうと、学院長は自由にしていいといった。ヨキとシュカはその場を辞そうとする。ヨキは念のため、「エヴァの友人にパオロという学生がいませんでしたか?」とたずねたが、学院長は「わかりません」とこたえた。生徒数は多く、把握しきれないという。


「パオロについての質問は意味がないかもしれないよ」


 廊下に出たところでシュカがいう。


「街を観察していて思ったんだけど、ほとんどの子供たちは制服を着て楽器をもってる。でも少数だけど、楽器をもたずに、制服も着ていない子供たちがいる。なんとなく事情がありそうで黙っていたけど、パオロもその子たちも、多分、学校にいってないよ」


「でしょうね。まあ、華やかな都には常に影があるものですから」


 二人は学生たちにエヴァについての質問をしてまわった。

 赤い髪の、音楽の神に愛されたという少女。

 その評判は――、最悪だった。

 学生たちはみな、言葉を選びながらだったが、ほぼ悪しざまに罵っているのとかわらないことを口にした。高飛車だった、自分のことしか考えていなかった、人の気持ちを踏みにじることを平然とやっていた。特に、エヴァがいたときに学年二位だったバイオリニストの女の子は、エヴァの名をきくだけで眉間にしわを寄せた。


「あの子は、ひどい人でした。自分以外の演奏を、その奏者を全て見下していたんです。楽譜をみながら私が苦戦していると、そこにやってきて、さらりと弾くんです。そして決まって、そんな腕で演奏家を気取っているなんてお笑いだと、と罵りました。下手くそに使われる楽器が可哀想だと、楽器をとられた子もいます。みんな一生懸命練習していたのに」


 他の学生も同じような調子だった。

 エヴァがいなくなって学院が平和になったと、みなが遠回しに表現した。上級生たちも口をそろえた。エヴァに逆らうことは誰もできなかったそうだ。学院長のお気に入りだったし、グランナーレの音楽家たちがみなエヴァの才能に注目していたからだという。


『あなたたちにこんな演奏ができる?』


 エヴァはあらゆる楽器を弾きこなし、他の生徒たちを馬鹿にして学院をまわったという。


『音楽なんてやめたら? 才能、ないよ』


 その振る舞いは、才能におぼれ、人格の形成を怠った子供のやることに思えた。ヨキがそういうと、シュカは「どうだろうね」という。


「そういう音楽の腕で全てが決まるような風土が根付いているんじゃないのかな。ほら」


 教室で、今では学年一位になったあのバイオリニストの女の子が、自分の楽器を他の生徒に手渡し、後片付けをやらせている。


「エヴァがいたときは、みんなその振る舞いを受け入れていたんじゃない? そしてエヴァがいなくなって、次の子がそのポジションにおさまった。それが真実なんじゃないかな。この街のみためは美しいけれど、少し暗いところもあるんだと思う」


「かもしれませんね。音楽の才能の多寡が人の優劣を決めるという価値観が身に染みついているのかもしれません。でなければ、多感な子供たちがなかなかこうはなりませんよね」


 ヨキは大量の楽譜を台車に乗せて運んでゆく男子生徒をつかまえて、なぜ君は雑用をしているのかとたずねる。すると、その生徒は自分の席次が低いからだとこたえた。

 ヨキとシュカは得られる情報はこのくらいだろうと判断し、学院を去ることにする。そして校門を出たところで、ブラウンの髪の、背の低い女の子が泣いているのをみつけた。


「大丈夫? どうしたの?」


 シュカが駆け寄って頭をなでる。心配してもいるのだろうが、ヨキの目からみると、「ついでに可愛い年下の女の子にさわっとけえ!」という下心があるようにもみえる。シュカは毛むくじゃらの柔らかい生きものと、可愛い女の子が大好きだ。


「旅の人ですか?」


「まあね。ほら、ジョエルと一緒にね」


「ああ、あの不思議な演奏をする」


 女子生徒は少しいいづらそうにしていたが、街の人間でないと知り、事情を話してくれた。


「進級試験に落ちたんです」


 グランナーレに生まれたものはみな、三才で音楽学校に入り、九歳、十二歳、十五歳、十八歳になるタイミングで進級試験がおこなわれる。この女子生徒は十五歳の進級試験を受けて落第し、追試も失敗して、今日で学院を去るというのだった。


「厳しいね」と、ヨキはいう。


「楽器もとりあげられます。落第になったものは、街のダイニングや路上で演奏することも許されません。音楽の都に、質の低い音はいらないんです」


 女子生徒が泣いていたのは学院を去るだけでなく、音楽と別れるつらさもあったのだ。


「これまで、音楽とともに生きてきました。これからどうしていいかわからなくて」


 ヨキはなんと声をかけていいかわからなかった。ただ、こういう音楽の、才能の世界の厳しさに息苦しくなるだけだった。自分だったら、こんな張りつめた環境で青春時代を送れただろうか。想像するだけで、その閉塞感に気が重くなる。


「エヴァっていう子を知ってる? 後輩にあたると思うんだけど」


 苦し紛れにエヴァの質問をした。もしかしたら、感情をさらけだしたこの子なら、エヴァの違った一面について話してくれるかもしれないと思ったのだ。人の善性を信じるシュカも期待した顔をしている。しかし、返ってきたのは、ある意味では期待どおりのものだった。


「あの子は、最悪です」



 校門からレンガ造りの階段をくだり、小舟に乗る。シュカが前に座り、「しゅっぱつー」というので、ヨキは後ろに立って艪をにぎり、漕ぎだした。


「しかし、この街の教育システムは思春期の感性を先鋭化させるね」


「そういうのが音楽にはいいんですかね。極限状態といいますか」


 セントラルのそれに比べ、人格形成において危ういように思われたが、二人が否定的に考えることはない。場所が変われば価値観もかわる。ここではすべての尺度が音楽になっているだけなのだ。すべての尺度が優しさである社会、人格である社会、それぞれあるうちの一つ。世界は多様で、死者すら身近だという街があるかもしれないくらいなのだ。


「天才少女エヴァンジェリン・グレイス、か。パオロは本当に会ったことがないのかな? たしかに接点はなさそうにも感じるけど。どう思う?」


「まあ、普通に考えたら忘れてるってとこでしょうね。それがジョエルの演奏によってビジョンが引き出され、知らない女の子がみえているように感じている」


「出会ったけど、短い時間だったから、とか?」


「その可能性もありますし、自分にとって不都合な記憶を無意識のうちに消しているのかもしれません。そういう例、よくありますよね。パオロはエヴァに出会っていないことにしたい」


「ヨキは暗いことを仄めかすなあ。そんなんだから恋人できないんだよ」


「僕、先輩に恋愛遍歴を申告してませんよね?」


「どうせ全部空白さ。シュカ様にはわかるんだ」


 シュカはふふんと鼻をならす。そして遠い目をしていう。


「心が耐えられない記憶を無意識下に封印する、『抑圧された記憶』か。もしそうなら、パオロはどんな記憶を封印したんだろうね」

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