第54話 親子の絆

 真之が再び目を覚ましたときには、既に正午を過ぎていた。

 ちょうど見回りに来た若手の看護師によって、入院着に着替えさせられる。他の病室では昼食が配膳されていたが、彼は点滴しかまだ許されていない。

 担当医から自身の容態について、詳しい説明を受けた。紺の治癒で応急処置を受けたとはいえ、生きているのが不思議なくらいに穴だらけの身体になったらしい。当分は絶対安静を言い渡された。入院初日に脱走したことから、看護師達からは注意深く見張られている。


 課長や先輩の護衛官達が見舞いにやって来た。今後の数カ月間は休暇を言い渡され、じっくり療養するように、と厳命された。護衛官になってまだ三日目だというのに、もう長期休暇を取ることになるとは、真之としては今後の勤務評価が心配である。


 彼らが去っていくと、ハヅキが入れ替わりとなって病室へ遊びに来た。VIP病棟で入院中の結衣に会いに行っていたらしく、あちらの方は容態が落ち着いたそうだ。大和は彼女の傍に付きっきりだが、近いうちに真之のもとにやって来ると伝言をもらった。


 怨霊については、無事に再封印に成功したという。突貫工事をした『楔』の方はこれから随時、補強工事が行われることになる。繁華街を中心とした一部の地域が瓦礫と化し、死傷者は一〇〇〇人以上に及ぶ、とテレビのニュース番組が報道していた。それでも、一〇年前の霊災の経験が活きたおかげで、被害が最小限に抑えられたといえるであろう。


 しかし。


「大丈夫なのか、あいつは」


 真之は、一向に顔を見せない人物のことが、気がかりで仕方がなかった。

 紺とは音信不通だ。テレビの報道によれば、封印直後に一部のカメラが彼女の姿を捉えたものの、すぐに見失ったらしい。そのときに随分と深手を負っていたようで、生死も定かではなかった。彼女が怨霊の進撃を食い止めていた、最大の功労者であるのは確かだ。仮に死んでいたとするならば、次の霊災が発生したときにどうすればよいのか。テレビのコメンテーター達が今後について議論していた。


「あいつが死ぬはずがない、とは思うが」


 不安を打ち消そうと自分に言い聞かせる。

 そうして、胸が落ち着かないまま時間だけが過ぎ、その日の晩を迎えた。

 普段ならまだ起きている時間帯なのだが、病院の消灯は早い。身体が回復のために睡眠を求めているのは分かっているし、ベッドから起き上がることもできない状態だ。夜更かしせず、素直に目を閉じる。


 すると、病室のドアが小さく開く音がした。看護師が様子を見に来たのだろうか、と真之は思ったが、どうも人の気配が感じられない。代わりに、別の何かが病室に入ってきている気がした。暗闇で床を這う影の正体を見極めようと、枕元のベッドランプを灯す。


 気がつけば、枕元まで付いてきていた影。小さな灯りに照らし出されたのは、


「狐……?」


 床にいたのは、大人と思しき狐だった。ただし、その尻には尾がない。

 どうやら怪我を負っているようで、足がフラついている。昨日の霊災に巻き込まれたのか、それとも人間に悪戯をされたのか。なぜこの病室にやってきたのかは分からないが、いずれにせよ、このまま放っておくわけにもいかない。


 真之が枕元のナースコールに手を伸ばそうとすると、狐がそれを引き止めるように鳴く。


『真之……』


 その聞き慣れた声に、真之は三白眼を丸くした。動物が発したとは思えない、艶めいた若い女の声。どこか辛そうな響きを伴っていた。


「まさか、紺、なのか?」

『うむ、母じゃ』


 真っ直ぐに見上げてくる狐の頭に手を伸ばす。狐は嫌がる素振りを見せずに、撫でられるのを受け入れた。


「どうして、そんな姿になったんだ。化けたのか?」

『妖力が底をついてしまっての。人の姿を保つことができんようになった。おかげで、この有様じゃ』

「それで、尻尾がないのか」


 紺の尾は、妖力の源だ。一〇〇〇年前に何本あったのか真之には分からないが、霊災のたびに本数を減らしているようだった。


『本当は昼間のうちに会いに来るつもりだったんじゃが、人が多くて忍び込むことができんかった。すまぬ』

「いや、それよりも大丈夫なのか? 見たところ、だいぶ怪我をしているようだが」

『ふふ、ちと無理をしすぎた』


 いつものように余裕のある笑い声を出そうとして、紺は獣の顔を辛そうに歪める。


「すぐに看護師の人を呼んで、入院させてもらおう。いや、その身体だと普通の病院では無理か。知り合いの動物病院の医師に連絡して――」

『気遣いはありがいたんじゃが、断らせてもらおう。他人に身体をいじられるのは好かん』

「そういうことを言っている場合じゃないだろうが」

『何よりも、ワシの遺伝子を採取する絶好の機会として、狙ってきそうじゃからな』


 紺は丁寧に、だがはっきりと固辞した。

 それを聞いて、真之は国立研究所の須藤の顔を思い出した。あの連中ならば、これ幸いとばかりに紺を監禁し、彼女が死ぬまで実験を繰り返すだろう。


「……すまん。浅はかだった」

『よいよい。お主の優しさは嬉しい。お主の方こそ、その傷、あれから派手にやらかしたようじゃな。分身のワシがついておりながら、全くもって情けない』

「いや、あっちの方のあんたがいてくれなければ、大和さんは救えなかったし、こちらも命を落としていただろう。そのことについては、いくら感謝しても足りないと思っている」


 真之は紺の頭を撫でながら、素直に礼を言った。黄金色の毛並みが持つ柔らかな感触が、手のひらに伝わってくる。


「それで、医療の手を借りないとすると、どうやってその身体を治すつもりなんだ?」

『しばらくは家で休養を取って、妖力を回復するつもりじゃ。最低限、人の姿に戻れるまでは大人しくするとしよう。この姿では、買い物も行けんからのう』

「そうか。今回の霊災で、お互いに随分とボロボロになったな」

『うむ。……すまなんだ、真之』


 紺は視線を床に落とし、ポツリと声を漏らす。その弱々しい雰囲気など義母には似合わない、と真之は感じた。


「どうしてあんたが謝る必要がある」

『今回の一件、お主にはだいぶ無理をさせた。いくら神柱護衛官といっても、その職分を超えるほどの無茶をな。それを止められず、頼ってしまったのはワシの力不足ゆえじゃ。そのせいで、多くの人間を死なせてしまった。……これでは、母親としても、この地を守る妖怪としても失格じゃな』

「何を馬鹿なことを。あんたがどんなに凄い大妖怪であろうと、一人でできることには限りがある。むしろ、街への被害があの程度で済んだのは、他でもないあんたのおかげだ。亡くなった人は大勢いるが、あんたに命を救われた人はもっと多い。人間の立場として礼を言う。それに……」


 そこで真之は一度言葉を切り、深呼吸を一つする。


「家族っていうのは、助け合うものだろ。違うか?」

『真之……』

「あんたは俺にとってたった一人の家族で、最高の母親なんだ。あんたのおかげで、今日の俺がある。ありがとう」


 彼は、ずっと胸の内に溜まっていた感情を吐き出せたことに対し、安堵を覚える。普段ならば照れてしまう気障なセリフだった。それが自然に言えたのは、この雰囲気と話の流れがあってこそのものだろう。


『ぐすっ……なんじゃ、なんじゃ。柄にもない殺し文句を並べおって』


 紺は潤んだ瞳を隠すようにそっぽを向く。その声が震えていることの意味くらい、真之にも察することができた。


「ん。もしかして、泣いているのか」

『ふ、ふん。お主はまだ女の扱い方がなっておらん。ワシを泣かせようなど、一〇〇〇年早いぞ』


 血の繋がらない人と妖怪による、親子ごっこ。

 それでも、ほんの少しだけ互いの距離がさらに縮まった――彼はそんな気がしたのだった。

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