第15話 鉄槌(前編)

 頭蓋骨に鈍い痛みが走ると共に、脳が左右に揺れる。

 昏倒の底に沈んでいた意識が、次第にはっきりしてきた。


「う……」


 真之がゆっくりと薄目を開くと、世界がひっくり返っているように見えた。それから遅れて、自分が寝転がされていることに気づく。右頬に感じるのは、冷たいフローリングの床。起き上がろうとするが、いくら頑張っても手足が動かなかった。ロープか何かで縛られているらしい。


「お、ようやくお目覚めみたいだぜ」


 上から降ってくる男の声は、ヤンチャな少年のような響き。誰の声なのか、痛む頭で考えながら眼球を動かす。確認できたのは、高級そうなスーツのズボンに包まれ、革靴を履いた足だった。その直後、その足が真之の頭を遠慮なく踏みつけてくる。


「よう、久しぶりだな、真之」


 続けて肩を蹴られ、仰向けにさせられる。視界に映るのはLEDの明かりと、金髪を短く切り揃えた中年の男の姿だった。陽気な笑みで唇を歪め、黄色い歯を見せびらかしてくる。

 この場所には、真之も見覚えがあった。志堂市から隣の地域にある親戚の家だ。一時期、ここで暮らしていたこともある。記憶として残っているのは、苦痛と寂しさの日々ばかりだが。今こうして生きているのが不思議なくらいだった。


(僕は、オジさん達に誘拐されたのか)


 周囲を見渡すと、他の親戚達も勢揃いしているようだ。一一名。そのどれも、友好的とはほど遠い。


「綺麗な姉ちゃんとの同棲生活は楽しかったかぁ? くくっ」

「オジさん……」

「お前なんかにはもったいない、夢のような一ヶ月だっただろ? だが残念、こっちの方が現実だ」


 真之は腹を強く踏みつけられ、うめき声を漏らす。


 目の前にいる親戚の男は、子ども相手でも――あるいは、子どもだからこそ、遠慮をしない。体重の乗った足が内蔵を圧迫させてくる。真之は金魚のように口をパクパクさせ、悶え苦しむ。手足の自由を奪われ、防御することすら許されない。


「苦しいか? お、苦しいか? これで、自分の立場を思い出しただろ?」


 そこへ、隣に控えていた親戚の女が窘める。


「それくらいにしておきなさい。人質に怪我させたら、交渉が上手くまとまらないかもしれないでしょう」

「へっ、それこそ今更じゃねえか。傷の一つや二つ、増えたところで大したことねえよ。それに――」


 言いながら男は、咥えていた煙草を手に取る。ロープで縛られた真之の左腕の裾をまくりあげると、燻る火を手首に押し付けた。

 肌の焦げる激痛に、真之が喉から振り絞るような絶叫を上げる。涙が両眼から滝となって溢れ出てくるが、痛みを和らげる効果はない。


「おーおー、今の悲鳴をあの女にも聞かせてやればよかったんじゃねえか?」

「そうしても良かったんだが。ウチの部下にいくら電話をかけさせても、繋がらないらしくてな。それに、あの女のマンション前に張り込んでいる部下の話では、家を出た様子はないそうだ。電話が鳴っているのも知らずに、自宅で寝ているのか」


 別の男が不機嫌そうに頭を振った。それに対して、煙草を持った男の顔には、それまでの嗜虐心たっぷりの笑みに焦りが上書きされる。


「おいおい。まさか、あの女が警察と連絡を取っている、ってことはないよな?」

「目撃者がいたんでしょう? 放っておくからよ」


 厳しく責める調子で言う親戚の女に、真之に煙草を押し付けていた男が噛み付くように睨み返す。


「そんなの俺じゃなくて、現場にいたウチの部下に言えよ。それとも、一緒にいたメスガキも拉致るか殺せばよかったのか。そうなりゃ、事がさらに大きくなるだけだぜ。そうなりゃ、後で誤魔化すことができなくなる」

「真之が一人になったところを狙えば良かっただけでしょう。これだから、あんたのところの部下は無能なのよ。私達の未来がかかってるってことを分かってるの?」


 口論になりかけたところで、また新たな男が間に割って入る。


「いい加減にしろ。下の者のミスを、ここで俺達があげつらっても意味はない。大事なのは、これからどうするかだ」


 その男のことは、真之もよく知っている。我の強い親戚達をまとめるだけの器量を持っている人物だ。よほど頭が上がらないのか、彼の決定には他の親戚達も素直に従っていた。


「休まず電話をかけ続けさせろ。後は向こうのアクションを待つだけだ。たとえ向こうに警察が加わっていたとしても、すぐにここを嗅ぎつけられることはあるまい」


 指示を与えたリーダー格の男は、ソファから立ち上がる。


「真之」


 手首の焼きごてに苦しむ真之の前髪を、乱暴に掴む。無理やり顔を上げさせ、泣きじゃくる彼の頬を鋭く叩いた。


「私がガキの泣き声が嫌いなのを忘れたか? 黙れ」

「……ごめんな、さい」


 どうにか苦痛を噛み殺し、真之は謝罪の言葉を口にする。理不尽であることは分かっていたが、逆らうことなどできない。下手に怒りを買えば、もっと酷い目に会わされることを身体で思い知らされているからだ。


「お前は今、金になるから生かされているだけだ。あの女から金を搾り取るための餌に過ぎん」

「え、さ」

「穀潰しのお前に残された、たった一つの価値だ。それ以外に、お前が生きる意味はない」


 冷酷に断言するリーダー格の男。


「お前を拾った建宮紺も、最初は物珍しさからお前に優しくしているが、すぐに飽きる。そうなれば、簡単にお前を捨てるだろう。そうでなくても、今回の件でお前を疫病神扱いするはずだ」


 その言葉を否定する材料はない。

 真之は、嗚咽を漏らしながら無慈悲な現実を呑み込んだ。


(紺さんに捨てられる……もし、そうなったら、僕は)


 どこにも行き場所などなく、今度こそ野垂れ死ぬしかないだろう。それが建宮真之に定められた運命なのか。


(じゃあ、僕は何のために生まれてきたのかな)


 忌み嫌われ、暴力を振るわれ、あるいは恐れられるだけの人生。ただ絶望を受け入れるだけの命に、存在価値などあるはずがなかった。先日会った、あの不思議な双子のように、誰かのためになる人間でもない。


「お前を愛してくれる人間など、この世界のどこにもいない」


 リーダー格の男の声が、とどめの一撃となって真之の心臓を貫いた。瞳孔から意思の光が消え、肌から生気が失われていく。


 希望を打ち砕かれた子どもを目の当たりにした親戚達は、揃って手を叩き笑いこける。


「ねえ、見た? 今の表情」

「ああ、よほどあの女との生活が楽しかったんだろうな。それが絶妙のスパイスになったってか」

「こういう絶望した人間の顔は、何度も見てもやっぱり最高ね」


 卑俗に満ちた声がいくつも重なって、部屋中に響き渡る。


(そうだ、僕に生きる意味なんて……)


 真之がそう思いかけたとき――


 突如、金属の破裂するけたたましい音が鳴り響いた。

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