第5話 凡人の妹

 トントン。


 扉が叩かれた。でも今は出たくない。一人にしてほしい。


「夕飯、置いておくから」


 お母さんの声と、廊下に夕飯が置かれる音が響く。お母さんが離れるまで、取りに行かない。顔が見たくない。お兄ちゃんはお母さん似だから。


 私にとって、この悪夢のような日が始まったのは一年前のことだ。その日はお兄ちゃんが初めて狩りに参加する日だった。お兄ちゃんは運動が出来るわけじゃない。お兄ちゃんは本を読むのが好きで、勉強も出来た。村の子供たちは殆どがお兄ちゃんから読み書きを教わっていた。勿論私も。



◇◇◇◇◇



 外に干していた洗濯物を取り込んでいると、不意に入口のほうが騒がしくなった。


 洗濯物を取り込み終えて、騒ぎのする方向に向かう。そこには既に人だかりができていた。人の垣根から覗き見えたのは狩りに行っていた集団のリーダー的存在の青年だ。


 つまりは狩りから帰ってきているということで――――。


 私は人混みの中に入っていった。お兄ちゃんがいるはずなのだ。優しくて賢い大好きなお兄ちゃんが。


 人を掻き分け、集団の一番近くに辿り着く。だが、彼らは皆消沈した様子だった。服装もそれなりにボロボロになっている。


「どうしたの?」

「……狩りの帰りに狼の群れに襲われたらしい」


 話を聞けば、獲物を投げ捨てて逃げてきたらしい。狼は凶悪な動物だ。群れなど勝てる可能性は殆どない。生きているだけで御の字と言えるだろう。


 つまり、お兄ちゃんは疲労困憊、あるいは大怪我を負っているかもしれない。私はすぐにお兄ちゃんを探した。


「……ねぇ。お兄ちゃんは、どこ?」


 集団の中にお兄ちゃんの姿が見えなかった。姿を確認しても、人数を確認しても一人、お兄ちゃんだけいなかった。


「……レイとは、狼の群れに追われる途中ではぐれた。何故かはわからないが狼の殆どが彼を追っていった。そのお陰で俺たちは帰ってこれた」


 リーダーの男が言う。


「つまり……お兄ちゃんを見捨てて来た、っていうこと?」

「そうじゃない。そうじゃないが……ただ、逃げる途中でレイが俺たちから離れて森の奥に入っていったのが見えた」


 彼の言い訳じみた言葉に怒りが沸き起こる。私はその男の胸ぐらを両手で掴んだ。


「つまり、あんたたちは、お兄ちゃんを見殺しにしたってことでしょ? 制止の声もかけず、これ幸いと自分が、自分の命の可愛さに、生き長らえるために利用した」

「そんなつもりは――――」

「もとはと言えば、あんたがお兄ちゃんを半ば無理やり連れて行ったんでしょ! お前はただでさえ役に立っていない、成人しているから男である以上狩りをしろって! しなければ食い扶持を減らすために奴隷として売るって、脅しをかけて!」

「エリ、聞いていたのか……」

「あんな大声で家の前で言って聞こえないはずがないでしょ! あんたたちは狩りなんてしたことない、ましてや戦いなんてしたことない素人のお兄ちゃんを碌に指導もせずに森の中に入った!」

「森の中で指導はした――――」

「本番直前に言われてすぐに行動できると思う!? しかもそんなお兄ちゃんをほったらかしにした!」

「それは、狼の群れが現れたのは想定外で――――」

「『想定外のことがあっても対応できるようにしろ』って言っていたあんたがそれを言う? そりゃあ、普段から狩りをしていた人たちは何も言わなくてもそれぐらいできたでしょうよ。でも、お兄ちゃんは違う! 運動なんて殆どしない、勉強好きなお兄ちゃんが知らない環境で、知らない状況に陥って、知らない対応をしろって、それこそ無理な相談よ! あんたはその状態で放置した!」

「そ、それは――――」

「言い訳なんて聞きたくないわよ!」


 私は、私を抑えることができなかった。激情のままに言葉を並べ、男の顔面を殴った。男の鼻から血が流れる。


 それでも、私の気持ちは収まらなかった。もう一発殴ろうと右手を振りかぶる。


 しかし、殴る前にその手は止められた。振り返るとお父さんがいた。


「止めなさい」

「……」


 お父さんの表情は優しかった。だけど、どこか怖かった。思わず振りかぶっていた手を下げてしまうほどだった。


「娘がすまない。だが、話を聞いていたが、狩りに行かなければ奴隷として売るというのは初耳だが? どういうことだ? 確かにレイは男で、普通なら狩りに出なければならないんだろう。だからって奴隷にするのはおかしいだろう? うちの息子はここの年下の子供や希望の主婦に読み書きや計算を教えていた。しかも解りやすいと評判がいい。そんな彼が役に立たない? 勘違いも甚だしい。お前はいま、この村の大半を敵に回した。これから楽に生きられると思うなよ?――――エリ、家に戻っていなさい。私はこれから捜索に出かける。男どもで余裕のあるやつはついてきてほしい。強制じゃない。これは私個人のわがままだ。一人でも探しに行く」


 お父さんは静かに怒っていた。


 お父さんはそのとき村の見回りをしていた。それに加えてお兄ちゃんは誰かに褒められることに気が付かない。だからあの男の言葉を真に受けた。だから詳細をお父さんに言わずに狩りに参加した。お兄ちゃんはそういう人だ。


「あんたを許さないから」


 男を一瞥して家に帰る。あそこにいたときは怒りで一杯だったが、お父さんの介入でいくらか落ち着いてきたせいで、悲しさが込み上げてきた。


「ひっぐ……えぅ……お兄ちゃん……」


 お兄ちゃんはいない。その事実だけが残った。


 私は部屋に籠った。誰にも会いたくなかった。気持ちが爆発しそうだった。誰かに会えば八つ当たりをする自信がある。


 お父さんは強い。狼の群れぐらいなら一人でも対応できる。私はお兄ちゃんが生きていることを信じている。



◇◇◇◇◇



 まだ、お兄ちゃんの痕跡を見つけたという知らせはない。お兄ちゃんは生きているかもしれない。その希望だけが救いだった。


 大量の狼を相手に無事とは言えない。でもお兄ちゃんには知識がある。絶対生きてくれている。帰ってこないのは道に迷っているからだ。私はそう思うことにした。



 早く、お兄ちゃんに会いたい。

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