Scene33 昭和ワゴン

 レストランでは半分ほど照明がつけられていて、奥の厨房ではパンの焼ける香ばしい匂いが立ちこめている。

 フロントの呼び鈴を3回押した後、ようやく浜辺歌男が出てきた。昨日と同じ黒い蝶ネクタイをしているが、頭には星条旗が描かれた三角巾を巻いている。


「いいえ、我々どもは気づかなかったですねえ」

 浜辺歌男はそう言った後、玄関の自動ドアに近づきながら、「あー、ここから出られてますね」と声を上げた。

 浜辺歌男が指さしたのは、自動ドアの横に設けられた通用口で、ホテルの中からのみ鍵の開閉ができるようになっている。

「解錠されています。お連れ様が開けられたのかどうか、警察を呼んで紋を採取してみましょうか?」

「いやいや、彼女以外に考えられないし、そんなことをしても意味がない。犯罪じゃないですから」

 白い鼻髭に蝶ネクタイ、星条旗の三角巾。まるでドリフターズの寸劇に付き合わされているようだ。


「いえ、何者かがお連れ様を誘拐されたということも考えられます」

「考えられません。とにかく、彼女はまだ鎌倉市内にいるはずです。外に出て探してみます。タクシーを呼んでもらえますか?」

 すると浜辺歌男は、眉間にしわを寄せて「この近くにタクシーの営業所がないので時間がかかりますが、よろしいですか?」と声を低くした。

 よろしいはずがない。鎌倉駅と鶴岡八幡宮へ行きたいのだが最速の交通手段は何かと追及する。浜辺歌男は、少し間を置いてからこう応えた。

「最速かどうかは保証できませんが、他に手段がないわけではございません」

 

 透は浜辺歌男の後に付いて半地下のガレージに降りた。

 そこには車が1台停めてあり、緑のビニールシートが掛けられている。2人でそれを取り払うと、海岸から飛んできたと思われる砂埃が狭苦しいガレージに舞い上がった。

 思わず顔をそむけてしまう。

 砂埃の中から現れたのは古いワゴンだった。トヨタ・マークⅡのエンブレムが貼ってある。丁寧に使い込んであるのだろう、年式の割には光沢がある。


 浜辺歌男は運転席に乗り込み、透は後部座席に座った。室内は昭和の香りがぷんぷん漂っている。

「問題はこれからだ」

 浜辺歌男は独り言を漏らし、何度もキーをひねった。

 エンジンがかかろうとする音が、痰の詰まった老人の咳のようにずいぶん長いことガレージ内に響いた後で、どうにかこうにか点火してくれた。

 浜辺歌男はここぞとばかりにアクセルを踏み込み空ふかしをした。ガソリンの匂いがガレージ全体に充満した。

「ふだんは自転車を使うし、野菜の配達は同業者がやってくれるようになったので、こいつにはめったに乗らないのです。ちゃんと動いてくれるかどうか不安でしたが、今日はすんなりいったようです」

 そう言って彼は、三角巾から出た額の汗をぬぐった。


 ところが本当の問題はそこからだった。トランスミッションの機嫌が悪いのか、きれいに舗装された道路上にも関わらず、東京ディズニー・シーのセンター・オブ・ジ・アースのように激しくノッキングを繰り返したのだ。


 やっとのことで若宮大路に入った時、マークⅡの挙動は次第に落ち着きを見せ、ようやく時速40キロ以上で安定走行できるようになっていた。

 その間透は歩道に注意深い視線を遣った。トラベルバッグを提げ、白のブラウスを着た女性が歩いていないか、入念に確かめた。


 まもなくして、鎌倉駅の標識が視界に飛び込んできた。

 透は星条旗の三角巾をかぶったままの浜辺歌男に、いったん駅に寄ってもらうように頼んだ。

 すると浜辺は「かしこまりました」と軽快に言い、いかにも重そうなハンドルを左に切った。


 透はほぼ全力疾走に近いスピードで静まり返ったホームへと入り、明子の姿はどこにも見えないことを確かめてから、再びマークⅡの後部座席に飛び乗った。


 次は鶴岡八幡宮に行ってもらうように頼む。浜辺歌男は横目で透を見ながら「はい」と応え、クラッチを踏み込んでギアを入れる。


 マークⅡは若宮大路を力強く北上する。道路の真ん中には車道よりも一段高いところに歩道が造ってあり、鬱蒼とした並木が続いている。


 その特別扱いの歩道が終わった所には、巨大な赤い鳥居がそびえ立っている。浜辺歌男はその下でマークⅡを停め、「着きました」とやはり事務的に言った。

 透が心の底から礼を述べていると、浜辺歌男は顔を半分だけこちらに向けて「たいへん申し訳ございませんが」と話の腰を折った。


「朝食の準備がございますので、私はいったんホテルへ戻ろうと思うのですが」

「もちろん。後はタクシーを拾って帰りますよ」

 透はそう言って、再度礼を述べた。

「それから、朝食のご予約は7時となっております。昨日も申しましたが、できれば御予約の時間に来て頂ければ幸いに存じます」

 スピードメーターの横のアナログ時計は、5時40分を過ぎたところだ。

「分かりました。何とかそれまでには戻るようにします」

「あれでしたら、もう30分遅らせてもよろしいですが」

「それは、正直助かります」

「では、7時半にお待ちしておりますので」

 浜辺歌男はそう言い残し、再びマークⅡを走らせた。排気音で鳥居の下の広場に群がっていた鳩が一斉に飛び上がった。 

 

 空はうっすらと白みがかり、鳥居の間からは八幡宮の境内を広く見渡すことができる。まさに「いざ鎌倉」の終着点らしさが漂っている。

 その神聖な空気を、鼻から胸の中に吸い込む。

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