Scene31 人は誰かに認められたい

 ビルの3階は怜音の完全なるプライベトスペースになっている。

 1階と2階の雰囲気とは全くテーマが異なり、暗い部屋の真ん中には大きなベッドがあり、壁には大きなタペストリーが掛けてある。


 虎にまたがるヒンドゥーの女神がこっちを向いている。

 8本の手は、合掌したり、剣を掲げたり、矛を持ったりしている。インド人っぽい瞳は微笑んでいるが、その奥には残虐性をありありと秘めている。


「今夜は添い寝してちょうだいよ」

 怜音はシャワーを浴びた後の匂いを漂わせ、ガウンを身に纏ったままベッドに腰掛けた。北村ジュンはベッドの脇に置かれた赤い革張りのソファに腰掛け、コロナビールを飲んだ。

「明日、攻勢をかけるんだったわね?」

「ターゲットがサングラスを装着してくれればいいですけど」

「よくよく考えれば、リスクなんてどうでもよくない? 目的を達成すれば、私は捕まろうが何されようがかまわない」

 北村ジュンは、冷えたビール瓶を手のひらの中に実感した。


 ヒンドゥーの女神は自分を睨み付けているような気がして、そこに瓶を投げつけようかと一瞬思った。

 絵のくせに、俺を睨むんじゃないよ!


「でも、捕まっちゃったら、私はいいけど、ジュン君は全然よくないわね。もしあなたが過去にプラントを爆発させたこともバレちゃえば、大変なことになるもんね」

「死ぬのは構わないけど、さらし者になったあげくの絞首刑だけは避けたいですね」

 怜音は大きな声を上げて笑った。この人、本当に脳がイカれてるんじゃないかと北村ジュンは改めて思った。


「大丈夫、絶対そんなことはさせないから」

 北村ジュンは怜音を見た。

「貴方のことは、私が命がけで守る」

「どうしたんですか、急に?」

「さっきあなたが言ったじゃない。私はピュアなのよ」

「でも怜音さんは悪人になったって言ってた」

「ピュアな悪人なのよ。ほら、たとえば悪人2人でジュラシックパークの森の中を逃げ延びていくうちに、悪人同士、不思議な連帯感を感じたりしない?」

「ジュラシックパークの中を逃げたことがないから、うまく想像できませんね」

 怜音は勢いをつけてベッドに横たわった。分厚いマッドレスの振動が北村ジュンにも届いた。

 その瞬間、怜音の脳裏にはアーロンの幻影が浮かんだ。


《人の世に絶対なんてことはないよ》


 大学院生のアーロンは高校生の怜音に向かって言う。

 いいえ、あるわよ、と怜音は頭の中で声を上げる。

 今、この瞬間こそ、絶対よ。

 大学生のアーロンは少し考え込む。

 勝った、と怜音は思う。

 もはや私はあなたに子ども扱いされる存在ではないわ。

 それだけ経験を重ねたの。良い経験も、悪い経験もね。

 あなたはもうこの世にはいない。だからあなたは永遠の存在なのよ。でも私は違う。今という時間を生きている。今は誰に何て言われようとなの。絶対に今なの。

 あなたは私を裏切った。私は決して許さない。

 でもね、あなたを恨めば恨むほど、余計に苦しくなるのよ。こんな生き方はもうやめにしたい。あの女にリベンジを果たした後、私はどうしようかと思う。いっそのことあなたの元へ行こうかしら。


《それは違うね》

 アーロンは言う。

《生きている人間にとって今が絶対だなんて、ただのまやかしだよ。気分によって今はどんな形にでも変わるんだ。つまり、人生は気分によって決まるともいえる。今という瞬間こそ流動的であり、過ぎ去ってしまった時間の方が、後から変えられない分、よほど絶対的だ》

 怜音はベッドに横たわったまま、生きている人間と死んでしまった人間のどちらが絶対的かを考えた。


 あなたが言うことも違うわ。

 あなたは私が高校生の時、区別を立てることによって矛盾は解消するって教えてくれたわよね。

 あなたの観点からすれば死んだ人間の方が絶対かも知れないけど、私の観点からすれば生きている人間の方が絶対的存在なのよ。今という時間は絶対に存在してるんだから。

 その瞬間、アーロンの記憶はふっと消える。

 怜音は隣に横たわる北村ジュンの汗ばんだ髪の毛を撫でている。


「怜音さんは本当に自分でピュアだと思っています?」

 怜音は頭の中の回路を微調整して現実世界モードに切り替えた。

「思っているわよ」

「ということは、ボクの存在もきちんと受け入れてくれるわけですね?」

 北村ジュンの顔を間近で見ると、アーロンの顔とオーバーラップする。怜音は何も答えない。


「ボクの研究の最終目的をお知りになりたいですか?」

「もちろん、ぜひ!」

「すべて人は、誰かに認められたいということなんです。世界中のハッカーたちの大多数はそう思って、日々密かな研鑽を積んでるんですよ」

「全然答えになっていないわ」

 怜音は身体を北村ジュンの方に向けて、その汗ばんだ海藻のような髪の毛をさらに撫でた。

「十分な解答だと思いますよ。どうぞ、そのまま受け取ってください」

 部屋の中にはムスク系のお香が焚いてある。


「あなたが私を喜ばそうとしてくれるのはすごくうれしいわ」

 北村ジュンはわけもなく心地よくなってきた。天国にいるかのようだ。

 怜音は続ける。

「人間の頭の中では2つのものが同時に同所を占めることができない」

「なんだか哲学的ですね」

「アーロンが教えてくれたの。ウイリアム・ジェイムスの『プラグマティズム』の一節」

「なあんだ、あなたがこよなく愛している人が教えてくれた言葉か」

「何よ、人を愛し続けることが悪いみたいじゃない」

 怜音は自己主張する小学生のごとく言った。


「今の私の頭の中には、リベンジしかないの。それが終われば、やっと別のものを入れることが出来る」

「つまり、ボクの存在を認めてくれるのは、その時だというわけですね」

「あなたのことなら、とっくに認めてるんだけどね。気づかないの?」

「気づきませんね」 

「あなたが鈍感なのか、それとも要求水準が高すぎるのか」

「どちらも違いますね。鈍感で要求水準が高いのは、怜音さんの方ですよ」

 怜音はぱちっと目を開けて、それについて考えた後、諦めたように笑った。


 この人の脳はまだやられてなんかいない。北村ジュンはそう思った。


 リベンジを成功されれば全てが思い通りになる。

 いずれあなたの頭の中は100%俺のことでいっぱいになりますよ。来年の今頃には、あなたの脳は完全にハッキングできますからね。

 俺の研究の最終目的はね、愛するあなたを俺のものにすることですよ。

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