Scene28 亡き恋人のシルエット《明子の場合》

「御主人のことを教えてほしいんだ」

 透は、1階のレストランからもってきた白ワインを明子のグラスにゆっくりと注いだ。アンティークで豊満なデザインのワイングラスからは、さわやかな葡萄の香りがふっと立ち上がった。

 明子は中学生が描いたデッサンのような無表情を顔に貼り付けたまま、ワインをすっと口のすき間に入れた。


「亡くなった方のことを思い出させるのは酷だけど、それでも、今後のために知っておきたくて」

 明子は無理に笑顔を作った。意図的な笑顔だった。非言語によるコミュニケーションは彼女の常套手段でもある。


 明子にはがあるらしい。

 だが彼女はそこから抜け出したいと考えていると思いたい。彼女はこの旅で何かのきっかけをつかうとしている。

 明子を闇から救い出したいと思う。

 でないと、一生後悔する。


 過去に愛した明子の記憶が蘇ってくる。

 彼女は救世主だったし、亡くなった今なお、彼女への思いは変わらない。

 まだ大学生だった頃、ややこしい恋にはまり、自暴自棄になって廃人同然にまで堕ちていた。日暮れと同時に目を覚まし、夜の街であぶく銭を稼ぎ、夜明けと共に眠る。大学の単位はことごとく落とし、無気力の中、退学という選択肢がいよいよリアリティーを帯びてきた頃だった。


 明子はそんな自分に声をかけてきてくれた。

 奇跡だった。

 人間には誰かを引き寄せるパワーがあるのだと仮定するとき、全人類の中で自分の存在に気づいてくれるのは明子しかいなかっただろう。

 でも彼女は大学を卒業して1年と半年後にこの世を去った。子宮頸がんだった。


 ちゃんと予防接種を受けていれば、こんなことにはならなかったのにね。

 

 亡くなる2日前、大学病院の病室で、白すぎる顔をした明子は笑った。

 あぁ、今だから言えるけど、透君と一緒に暮らしたかったなぁ。あなたと結婚して、どこにでもあるような幸せな家庭を築きたかったのよ。それが、私の夢だった。

「過去形にしなくてもいいよ」

 透は焼け焦げるような胸の奥から、言葉だけを絞り出した。

 明子は慈愛に満ちた瞳をそっと閉じて、すっかり細くなった頬を左右に1回ずつ振った。


 透君はやさしい人よ。たとえば、花壇の真ん中に咲いている大きな花だけに目を奪われるんじゃなくって、隅っこの雑草に咲く花を美しいと思えるような人。

「そんなこともない」

 私は、あなたのそういうところがすごく好きだった。

 あなたには幸せになる権利が十分にあると思う。

 すごくわがままなお願いをしてもいい?

「もちろんだよ」

 あまりにわがままなお願いで自分でもいやになるけど、やっぱり私、死ぬのが怖いの。どうしてもこの世に自分というものをとどめておきたいの。

 こうなってしまった以上、誰かの心の中に生き続けることしかその方法はないの。

 さんざん考えたのよ。夜もずっと。でも、どう考えたって、そうするよりほかはないの。

 透君には、将来、好きな女性と幸せな家庭を築いてほしいと心から願っている。

 でもね、その人との生活の中でも、ふっと、1年に1回でも構わないし、10年に1回でも構わないから、私のことを思い出してほしいの。


 明子の弱々しいまぶたからは、朝露のような涙が一粒、転がり落ちてきた。

 透は枕元に置いてあるガーゼでそれを拭いた。


 私はあなたたちの幸せを心から応援するし、ずっと見守るわ。だから、私のことを、思い出して……

「俺はあくまで君と結婚するつもりだよ。病気が治るものと信じてる」

 ありがとう、でもね、人間って、こんな感じで死ぬときにはね、自分の命の終わりをはっきりと悟るものなのよ。まさか、こんなにも早く悟るとは思いもしなかったけどね。あぁ、どうして検査を受けてこなかったんだろう・・・・・・


 明子は朝顔の花びらのような笑顔を浮かべた。


 ねえ、透君、私、将来、いろんな夢を抱いていて、あなたと家庭を築いて、いろんな仕事をして社会に貢献したいって思っていたのよ。だから、今すぐにでも死んで楽になりたいくらいに悔しいの。

 でもね、こういう状態になって、はっきりと分かったことがあるの。


 明子は瞳を閉じたまま口角だけを上げた。そうしてこう言った。


 人間ってね、やっぱり宗教的な存在よ。

 健康で何でもできるときには気づかないけど、こうやって生命力が弱ったときになって、痛いほど身に染みるのよ……


「俺は、今、できる限りのことをしておきたいんだ。たとえそれが君にとって迷惑だとしても」


 目の前にいる明子はすっかり日が落ちた由比ヶ浜の情景を眺めながら、その顔に不釣り合いなほどに大きなワイングラスを口に運び、唇にそっと浸した。


 ホテルNAGISAは建物こそ古いが、その分味わいがある。このホテルの良さがじわじわと理解され始めている。

「どうして透さんは、そんなにやさしくしてくれるの?」

「え?」

「私みたいな人間、普通の人なら見捨てるはずなのに」

「俺は普通の人間だよ」

 明子は首の細いグラスをそっとテーブルに置いた。まるでろうそくの炎が消えないように気をつけているかのような所作だ。


 小さな丸テーブルの上に置かれたグラスの横には重厚なチェーンの付いた部屋の鍵があり、隣にはパワーグラスが置いてある。


「正直に言うけど、俺はずいぶん前に、大好きだった女性を病気で亡くしたんだ。しかも君と同じ名前だった」

 明子は海に目を遣ったまま、すっと背を伸ばした。

「でも、誤解しないでほしいんだ。彼女を失った哀しみを埋めるために君と一緒にいるわけじゃない」

 明子は横目で透を見た後、しばらくして、まっすぐ海の方に顔を向けた。

「べつに、いいのよ」

「あの時俺は、心に決めたんだ。もう誰も好きにならないって。たとえ深く愛し合って結婚したとしても、どうせいずれ離別の哀しみはやってくるんだ。だったら、いったい何のために人を好きになるのか、その意味を完全に失っていたんだよ」

「同じよ、私も」

 明子は哀しみをベースにしながら、様々な感情のにじむ顔で透を見た。


「でも、俺の場合は、彼女を亡くしても、自分が死のうとは思わなかった」

 透は、静かなそれでいて重みのある視線で明子を見返した。

「なにも前向きに行き続けようっていうわけじゃなかった。死なないように気をつけながら生きるという、冷めたやり方をとってきたんだ」


 明子は瞳だけをかすかに動かした。疲れ切った頭の中で、透の言葉の意味を具現化しようとしている。

「ところが、そんな生き方はやっぱり面白くないって思う出来事が起こった。君の登場だ。どうして俺が君にやさしくするのか? それは、そもそも説明できないことだし、仮に説明しようとすればするほど真実から遠ざかってしまい、君を退屈にするだけだと思う。ただ、1つ言えるのは、俺は人生をかけて君を思い続けたいという事実のみがあるっていうことだよ」

 明子はふっと肩の力を抜き、微細な笑みさえ浮かべながら、再びワイングラスに手を伸ばし、口へと運んだ。グラスの中のワインは、砂時計の砂が移動するように、彼女の唇の中に吸い込まれていった。

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