Scene26 人間はリスの周りを回るか?

「人の世に絶対なんてことはないよ」

 アーロンは静かなる自信を秘めて言い切った。

「こないだ大学の授業で、こんな話題が出たんだ。怜音ちゃんにとっては、ちょっと難しいかも知れないけど」


 アーロンは、形而上学の問題を話した。それは『プラグマティズム』(ウイリアム.ジェイムズ著)から引用された話だった。


 一匹のリスが木の幹の向こうにいる。幹の反対側には人間が立っている。彼は幹の裏側にすばやく回り込んでリスの姿を見ようとするが、彼と同じ早さでリスが移動するものだから、その姿を見ることができない。この時、人間はリスの周りを回っているのかどうかという疑問が現れる。

「リスの姿を見ることができないんだから、リスの周りを回っているとは言えないと思いますけど」と怜音は即答した。

「そうだね。でも、リスと人間の軌跡を描いてみてよ。数学のグラフのように、線でさ。そうした場合、どうかな」

「リスが通った跡を人間が通ってるってことですか? でも、それって、目に見えないですよね」

 アーロンはラーメン屋の店主のように目を明るくして話に乗ってくる。

「目に見えない、たしかにそうだ。でも、それをどうやって説明する? 世の中には目に見えないけど実在しているように見えることがたくさんあるよ。思いやりもそうだし、いじめだってそうだ」

 アーロンを前にして論理的な思考など、やはりできない。


「世の中にはあまりに多くの人がいて、主義主張であふれかえっている。その数だけ矛盾が生じている。しかも人間って、全く感情的な生き物だから、自分の主義に対して矛盾するものは否定したくなる。リスの問題だってそうだ」

「難しいですね・・・・・・」

「でも、実はそうでもないんだ。つまりね、矛盾した主張のどちらが正しいかということについて、区別を立てて考えればいいんだ」

 アーロンは元の穏やかな表情に戻った。


「周りを回る」ということを、実際にどういう意味で言っているかによって、どちらが正しいかが定まるっていうことだ。さっき言ったように、リスが幹のまわりを北から南へというように移動するという意味ならば、それを追う人はリスのまわりを回っていると言える。この人はリスの位置を順々に占めていっているからだ。

 逆に、リスの背後、リスの正面という意味ならば、その人はリスのまわりを回ることはできていないということになる。リスはいつまで経ってもこの人に腹を向け、背中を向こう向きにしたままだからである。


「今みたいに区別を立ててみれば、矛盾は解決されるね。つまり、矛盾なんて最初からなかったってことに気づくはずなんだよ。主義主張の違いは対立ではなく、見方の問題なんだ……えっと、いったい、何の話だったっけ?」

「世の中には絶対っていうことはないっていう話でした」

 アーロンは丸い目をさらに丸くして、おぅ、そうだったねと言った。


「で、どうして今の話から、その結論が導かれるか、私にはいまいちぴんとこないんですけど」

「自分が絶対と思っていたことも、他人から見ると絶対じゃないってことだよ」

 アーロンはずいぶんと難しいことを語っていたようで、実は自分にも理解できるのだと怜音は安心した。

「だから、アメフト部の顧問だって、向こうからすれば、僕に非があるように見えたってわけだ」

「でも、それはちょっと理不尽ですよね」

「ありがとう。僕が高校時代に経験したことは、法律を学ぶ上での1つの理念になっているんだ。自分には非がないと思っている僕が上級生から殴られて鼻の骨を折った。上級生の方は僕を気にくわないと思った。僕の何かがいけなかったか、それとも彼らがストレスを抱えていて、手頃な僕だったっていうことかもしれない」

 アーロンは金色の毛が生えた細い腕を組んだ。

「それから、顧問と言えば、殴られた僕に非があるんじゃないかというとらえ方をした。顧問も僕を気にくわないと思っていたか、あるいは部員同士のいざこざに首を突っ込むのが面倒臭かっただけかも知れない。つまり、それぞれの主義主張は矛盾なく区別される」

「やっぱり、理不尽です」 

「そうだよ。それだけじゃ釈然としないものが残るんだ。そこで法の出番だ。つまるところ裁判っていうものは、入り乱れた主義主張を整理し、区別立てて、その上で判決を下す手続きに他ならない。だけど、実際は理念通りには進まない。なぜだと思う?」

「理想と現実のギャップ、ですか?」

「感情だよ。人間には感情がある。時にそれは様々な形に姿を変え、様々なところに襲いかかる。この世の中で一番怖いものがあるとすれば、それは、人間の心だと思う」

 アーロンはお産を終えた妊婦のような安堵を浮かべ、額の汗を拭いた。そうして、ごめんね、話しすぎたみたいだ、と詫びを入れた。


 ちょうどその時分、アーロンは自分たちで取得した特許を企業に持ち逃げされ、訴訟を起こしている最中だった。最終的には、相手方の弁護団に軍配が上がった。学生のアーロンたちにはカネと人脈が決定的に不足していた。

 その経験は、アーロンの心に何らかの影響を与えていたことは間違いない。

 彼は死ぬまで、その裏切られた話をし続けた。


 結局アーロンは国際弁護士の道を諦め、公務員試験を受け、最初のチャレンジでキャリア採用された。

 総務省に配属されたその年の暮れから、怜音はアーロンと付き合い始めた。

 それまで交際していた女性と別れ、ボロボロになったところに電話がかかってきた。自分は元カノの形代かたしろなのだろうかという疑念は、数年来憧れ続けた男性と付き合うことができるという夢の中に一瞬で霧散した。


「ひょっとして、世の中に、絶対なんてものは存在するのかもしれないね」

 スーツを着た彼は、赤坂の日本料理店で日本酒を飲みながらふとつぶやいた。

「どうしたの? 昔と言うことが変わってるよ」

「昔は子どもだったのかもしれない。世の中にはどうしても区別が立てられない問題があることに気づき始めたよ」

 アーロンは冬の空のような乾ききった顔で言った。

「それは、自分自身だ」

 怜音は首をかしげた。

 アーロンはそんな怜音を意識しながら、グラスに入った日本酒に視線を投げた。

「たとえばね、自分が死んだら世界も終わる」

「難しいわね」

「この世の物事はすべて自分の中にあるってことだよ」 


 あの時、アーロンが何をイメージして言ったのかは今となっては知るよしもない。きっと職場の中で、冷静に対処できない出来事があったのだろう。彼は仕事をプライベートにあまり持ち込まなかった。

 学生時代に描いていた理想的ヒエラルキーは、裏切りと軋轢の中で形を変えていったのかもしれない。

 だが、そのことが、もし、自分を捨てて深川明子を愛することにつながっていったのであれば、つらい。

 夢を追いかけて広い世界に出たことにより、彼の心は滅びてしまったのだ・・・・・・

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