Scene22 浜辺の歌

 驚くことにホテルのレストランで出されたスクランブルエッグは、口の中が踊り出すくらいに美味しかった。

「卵は自宅の庭の放し飼いの鶏が産んだもので、ケチャップもオーガニックのトマトから作った自家製なんですよ」

「HOTEL NAGISA フロント係 浜辺美声」と記されたネームプレートを付けた女性はそう説明した。

 それにしても美声とはいったいどう読むのだろうと本気で考えてしまう。まさか「びせい」じゃあるまい。「みこえ」だろうか、はたまた「みえ」だったりするかもしれない。

 浜辺歌男に浜辺美声。

 いったいどうなってるんだろう? これじゃまるで夫婦めおと漫才のコンビ名じゃないか。


 浜辺美声は、そのネーミングからすると、いたって平凡な声で話した。

「支配人はとにかくこだわりがあるお方でね、自分が納得するものしかお客様に出さないんです」

 透は、なるほど、と思った。あの支配人を見ているとまさにそんな感じだ。

 そのわりにはさっきの対応は顧客満足とは程遠い。コミュニケーション力に難があるのかもしれないが、それが余裕で許せてしまうほどの食事のおいしさだ。

 明子はサラダを中心に食べている。

「そのグリーンサラダも全部手作りなんですよ」

「家庭菜園をお持ちなんですか?」

 明子が言うと、浜辺美声は一旦フロントの奥の部屋に下がり、1枚のパネルを持ってきた。そこには2基のビニールハウスも備わったちょっとした農園の写真が映されている。

「このお野菜は、この畑で出来たものなんですよ。支配人は鎌倉野菜を中心に栽培していて、鎌倉駅前にあるレンバイで売ったりしてるんです」

「レンバイ?」

「農協連がやっている即売所のことです。この辺りのプロの料理人が買っていったりするんです。最近じゃ、観光客の方も増えたかなぁ」

「すごい、本格的ですね」

 明子は目を丸くして言った。鼻の付け根には昼間ずっとしていたパワーグラスの跡が凹んでいる。

「わざわざ遠くから買いに来られる方までいらっしゃるんです。横浜だけじゃなく、都心からもまとめ買いに来られるんです。美味しい野菜を食べたいっていう人が増えてるのかしら」

「インターネットを使って手広くマーケティングをすればいいんじゃないですか?」

 透が聞くと、浜辺美声はうれしそうに首を振る。

「いえいえ、支配人は身の丈に合わないことをしようとは思っていませんからね。それよりは、直売所に直接足を運んでくださる方の期待に応える方が大事だという考えなんです」


「ところで、支配人は今どこにいらっしゃるんですか?」

 透は聞いた。

「厨房に入っていますよ。あの人は調理も担当するんです」

 そのこと自体驚きだったが、今食べたスクランブルエッグがあの気むずかしいおっさんによって作られたと思うと驚きは倍増だ。

「いろいろとお話を聞きたいわ」

「あの人は、ああ見えて、かなりシャイなんです」

 その瞬間、透は水を吹き出してしまった。

「あ、大丈夫?」

 浜辺美声は慌ててクロスで拭いてくれた。

「いや、すみません、ちょっと……」

 透はそう言いながら紙ナプキンでを口元にあてがった。あれでシャイだなんて、地球がひっくり返ってしまう。


「なんだか、かなり楽になってきたわ」

 客室に据えられた籐のチェアに背を埋めた明子は開口一番そう言った。

「こうやって、窓辺に座って海を見ていると、昭和の文豪になったような気がする」

「いやいや、君は文豪っていう雰囲気じゃないよ」

「どういう意味?」

「だって。文豪っていったら、夏目漱石とか川端康成とか、気むずかしい顔をした男っていうイメージだ。このホテルの支配人みたいなタイプだよ」

 明子はふっと笑い、再び視線を海に投げた。


 日が傾きかけた由比ヶ浜には、カラフルなヨットがずらりと浮かんでいる。大学生みたいな男女たちが浜辺を歩き、太平洋を渡ってきた波が年輪のように幾重にも打ち寄せている。

「見た目の問題じゃないわよ。心の中の問題」

「なるほど」

 明子はゆっくりと息を吐き出しながら、もう一度、揺らめく水面に目を遣った。


「あれ?」

 彼女はたちまち真顔に戻り、目を凝らしている。

「風景が揺れてる」

「また眩暈かい?」

「ううん、そうじゃないみたい。揺れてるのは頭じゃなくて、風景の方だもん」

 明子は大きく目を開けて、まばたきをした。

「鎌倉に入ってから、頭の中が全部入れ替わったみたいな気がしているの。私の顔、何か変じゃない」

「何も変じゃないよ。疲れてるんだ。シャワーを浴びて、早くゆっくりした方がいい」

「先生がいる。砂浜には多くの人たちが海水浴をしているけど、分かるの、先生だってことが。だって、白い肌の西洋人を連れてるじゃない?」

 透は明子と同じ方向を見たが、彼女が一体何を言っているのか全く分からない。


 その時、朝、北鎌倉に入る前の横須賀線の中で、そういえば自分も眩暈がしたことを思いだした。

 あの茂みを抜けた瞬間、自分たちはどこか特別な世界に入り込んでしまったのではないかと思った。

 今起こっているのは、かも知れない。

一般的に現実だと考えられている地点から、1枚幕を開いて入った世界。

 現実世界と夢想世界のあいだ。

 横須賀線に乗って鎌倉エリアに入ったことは、その特別なareaに足を踏み入れたのではないかという予感――いやこれは直感といった方がいいかもしれない、あるいは霊感とでも言おうか――、そんな感覚が胸の奥に墨のように広がっていく。

 ここはいったい、どこなんだ?

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