Scene8 ユートピア

  怜音はその風貌に似合わずに、えらく品のないくしゃみをした。それからティッシュペーパーを鼻にあてがい、それをゴミ箱に捨てた。


「で、いったい、どんなプラントで事件を引き起こしたしたのよ? 大きな工場とか?」 

「まあ、そんなとこですかね。かなり有名な施設でしたよ」

 北村ジュンは冷蔵庫から取り出したばかりのコロナビールを瓶のままラッパ飲みした。

「新聞には出た?」

「それはもう、めちゃくちゃ大きく取り上げられましたよ。テレビだって、どの局も現場から実況してましたね。結局、何年か後に、プラントは閉鎖されましたもんね」

「つまり、私も知ってる事件よね?」

「知ってると思いますよ」


 怜音は記憶の中に残るプラント事故のニュースをたどってみる。だが、ワインの影響がある頭の中の引き出しは思うようには開かない。そもそも水の泡のように現れては消えていく日々のニュースをいちいち覚えているわけでもない。


「何なら、怜音さんのエングラム細胞を刺激して、記憶を再現してみましょうか?」

「やめてよ、恐ろしい」

 怜音は、苦笑いを浮かべた。北村ジュンは不気味に頬を吊り上げた。


「あの時ボクは、ターゲットだけを殺すために入念に下調べをし、計画を立てました。思わぬ偶然が重なったりして、ターゲットだけをあの世に送り込むことに成功したんです。まさに神がかってました」

「ちなみに、その時のターゲットって誰だったの?」

「そりゃ、さすがに言えないですよ」

 北村ジュンはビールを軽快に飲んだ。

「誰かからのオーダーがあったの?」

「そのうち、分かりますって」

「どうして? 今、教えてくれないの? 何度も言うけど、私はあなたのパトロンなのよ」

「パトロン、ですか……。まあ、いずれにせよ、今はまだ話すタイミングではないです。すべては、目的を遂行してから明らかになりますよ」

「じゃあ、あなたの目的って何なのよ? 私のオーダーを叶えてくれるだけじゃないの?」

「ボクにはすべきことがある。人はこの世に生まれた以上、その人にしかできない使命があると思っています。もちろん、怜音さんのからのオーダーも、大事な使命のひとつですけどね」

 怜音は頭の中のワインがかき混ぜられたのような錯覚を感じた。さっき実験台にされた余波が船酔いのごとく脳の深部でくすぶってもいる。


「ということですから、今回のターゲットが鎌倉に行こうがどこに行こうが、操作は可能ですよ。僕のパソコンとターゲットの脳はつながってるんですから」

「時代は進歩してるってことね」

「そうです、ものすごいスピードで。ボクは、自分たちが時代を進めていると思っている」

 北村ジュンは急に真顔になる。

「ボクたちがいなければ、ネットワークセキュリティなんて誰も考えないし、システムそのものも進化していかないわけですから。ボクが社会的に誇れるところがあるとすれば、まさにそこだけですね」


 怜音は改めて北村ジュンを見る。

 自信に満ちたその表情はしだいに歪みはじめ、やがて自分が恋い焦がれた男に見えてきた。

 今回、あいつへのリベンジを果たしたら、彼に頼んで脳を操作してもらい、一生涯、との記憶の中に生きるのもいいかもしれないと思った。もちろんその場合は、あの人の記憶も操作してもらわなければならない。

 あの人が私だけを見てくれるように。

 それが叶えば、自分はユートピアの中で生きることが出来る。

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