第15話 その人は海部隆一郎

亜莉沙は舞美に「一緒に行くことにしたから。」とだけ告げて、老人と2人で「出会いカフェ ERIKA」を出た。

 結局、亜莉沙はこの老人と出かけることにした。

 悪い人では無さそうで、体力の無い老人だから、乱暴なことはしないだろうと思えたからでもある。

 亜莉沙は並んで歩きながら、簡単に自己紹介した。


「エリカといいます。女子大生です。」


 とりあえず嘘を言っておく。まだ本名を名乗るほどこの老人を信用していない。


「あの店と同じ名前だね。

 私は海部。海部隆一郎と言うんですよ。」


 海部は今ちょうど70歳になったばかりだと言った。

 今の老人は皆そうだが、70歳とは言っても足腰はしっかりしている。肌は皺が深いがハリがある。

 こうして並んで歩いているのを人が見ても、親子…いや祖父と孫にしか見えないだろう。たしかに、亜莉沙と海部が並んで歩いていても、誰も興味を示さない。

 もっと若い男。たとえば昌之と並んでいたならば、すれ違う男たちはほとんど皆、亜莉沙を品定めするような視線を向けるものなのだ。


 海部は「どこに行こうか。お茶にしようか。」と言うので、亜莉沙は海部と目についたカフェに入った。

 海部はコーヒーを頼み、亜莉沙はパフェを注文した。代金はそれぞれが支払う。海部は亜莉沙の分まで払わなかった。

 特に金額が張るものではなかったが、これはケチだからというわけではなく、おそらく海部はこうやって若い女とお茶をした経験が、ほとんど無いのだろう。

こういう場合は男性が支払うものだという意識が、海部に薄いせいなのだ。


飲み物を持ってテーブルに行き、亜莉沙と海部は向い合せに座った。その後の会話は、海部が一方的に喋り、亜莉沙はそれに相槌をうつ形で進んだ。

亜莉沙はキャバクラのバイト経験から、聞き役に回ることの大切さをよく知っている。

相手が一方的に喋っている時は、下手に口を挟んだりするものではない。うんうんと頷きながら聞いているほうがよい。

亜莉沙がバイトしていたキャバクラでは、海部ほどの高齢者はあまり来店することは無かったが、それでも1回ほど海部くらいの年齢の男性に付いたことがある。

その時の客は海部に比べて遊び慣れている感じがあった。


海部はその「遊び慣れた」感じが全くしない。


「おととし家内を亡くしましてね。」


「そうなんですか。それはお気の毒です。」


「名前はゆうこ。こういう字を書きます。」


 海部はテーブルの上に、指で「結子」と字を書いて見せた。


「結子は、私より5つも年上だったんですよ。つまり姉さん女房ってわけでね。でもいい女房だったんですよ。」


「愛してらしたんですね。」


「愛してるって…。いや、あなたのような若い女性は、そういう言い方をよくしますね。」


 海部の声が大きくなった。


「私くらいの歳になると、愛してるなんて、気恥ずかしくて言えませんよ。」


 亜莉沙は海部の声が大きいのが気になったが、海部は一向にかまわず話し続ける。

 やはり遊び慣れていない。

こんな大声を女性と一緒に人のいるところで出すのは、そういう男性特有のパターンだ。亜莉沙のような若い女性と話し慣れていないので、緊張しているのだ。


 亜莉沙は、海部に自らの大声について気付いてもらおうと、話題を変えた。


「海部さんって、何かお仕事はしているんですか。」


「僧侶なんですよ。」


 これには亜莉沙も心底驚いた。

 キャバクラでも、僧侶の客が来たことは無い。というより出会い系カフェに僧侶が来たりしていいのだろうか。


「私の寺は茨城県にありましてね。今日はちょっと所用があったので、東京に出てきて、ついでにあの店に寄ってみたというわけなんですよ。

 あの店のことは、噂でちょっと聞いていたもので。」


 海部は僧侶の自分が、出会い系に来たことを弁解しておかないととでも思ったのだろうか、その理由について熱心に説明を始めた。


 男が出会い系に若い女を求めてくる理由など、セックス以外には無い事は亜莉沙もわかる。ここで海部にもっともらしい理由を説明してもらう必要はない。

 それでも海部は自分が僧侶だと名乗ったことで、人に話し声を聞かれるのを警戒し始めたようで、有難いことに声が小さくなった。

 しばらく亜莉沙は、海部の茨城県の寺の由緒やら歴史について、海部の自慢話に付き合っていた。


「ところで…。」


 海部はいきなり話を切った。


「これで5万円なんでしょうかね。」


 さきほど出会い系カフェでの交渉で、亜莉沙はこの老人と1回5万円で合意したのだった。

 亜莉沙はホテルに行くことで5万円と理解していたし、おそらく海部もそのはずだった。ここで会話して時間を潰しているので、海部はこの会話だけで5万円かと、心配になってきたのだろう。


 ここで逃げることも出来た。

 以前にも亜莉沙は、援助交際の約束をして逃げてしまったことがあった。

 その時はもっと若い男で、実のところ少々危ない感じのする人物だったので、亜莉沙は適当にあしらって、お茶だけ飲んで逃げてしまった。

 もっともその時は、金は受け取らなかったから、ヤラせずに逃げてしまったという訳で無かったのだが、今目の前にいる海部からなら、金だけとって逃げることも出来るだろう。


 ただ、この70歳の僧侶だという老人に、それをするのはなんだか気が引けた。海部にちょっぴり悪い気がする。


「そうでしたね。」


 亜莉沙はそう返事をした。


「いや、だから…。もう少しあなたといろんな事が出来るから、5万円だと思ってたんですけど。」


「いろんな事って?」


 解っているのだが、今の亜莉沙は意地悪な気分である。

 70歳の僧侶は困ったような、戸惑うような表情をしている。言葉を思いつかない様子である。

 あまりいじめるのも悪いか。それに僧侶だと言うのなら、これ以上意地悪をするとバチが当たるかもしれない。

 亜莉沙は、少し唇を上げるような微妙な笑顔を作った。


「いいですよ。これからホテルへ行っても。」

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