第9話 大学見学ツアー

──描けない。


 描いては消して、を繰り返す。なかなか納得のいくものが描けない。うーん、と唸って、資料写真と見比べる。


「アヤちゃん、コーヒーいれましたよ」


 ミカゲさんの声にハッとする。そうだ、ミカゲさん、朝から私の家掃除しに来てくれてたんだった。集中しすぎてすっかり忘れていたけど。ミカゲさんはコトリ、と私の机にマグカップを置いてくれた。このまま描いていてもうまくいかなそうだし、ありがたくコーヒーを頂戴することにする。ミカゲさんは私の真っ白なパソコン画面が見えたようで、自分のコーヒーを啜ったあと、心配そうに尋ねた。


「何か、行き詰まってるんですか?」

「……今、タカヒロの兄にフォーカスした閑話を描いているんですけどね」

「タカヒロ?」

「あっ、私の漫画のキャラクターです。で、兄はマサタカって言うんですけど。そのマサタカが、脇役のつもりで描いたのに思いのほか人気が出てしまって。コメントでもマサタカの話が読みたいって意見が多かったので描くことになったんですけど。それで大学の講義室とか学食とか背景で必要になってくるんですが、資料見てもなんか納得いくものが描けなくて」


 背景だけなら描けるけど、せっかくだからモブにもこだわりたいって思い始めたら、納得いかなくてそこで躓いてしまっている。

 するとミカゲさんは、しばらく思案したあと、それなら、と言った。


「じゃあ明日、うちの大学来ます?」

「え」

「午前中は講義ないので、学内を案内できると思いますし。午後にはちょうど大講義室での授業があります」

「ええっ」


 思っても見ないお誘いだった。確かに、実物を見ればなにか掴めるかもしれない。しかも現役大学生の様子も見れるし、私にとってはありがたいことだらけだけど、でも。


「そういうのって許可がいるんじゃぁ……」

「んー、たぶん大丈夫ですよ。人なんかうじゃうじゃいますし」

「そんな適当な! そ、それに……教室に二十八歳のババアが居たら浮きません……!?」

「ははは。大丈夫ですよ。それに……」


 自分で思ってるより、アヤちゃんはずっと若くて可愛いですよ。

 思わぬ追撃を食らって撃沈。甘やかしてるだけだろうけど、きっとお世辞だろうけど、それはずるい。



 * * *



 スケッチブックよし、文房具よし。大きめのトートバックにそれらを詰め込み、久しぶりに身なりをちゃんとしてメイクもして、ミカゲさんの勤める大学へと向かった。

 校門で待っていてくれたミカゲさんに会釈をした。ミカゲさんはひらひらと手を振り返してくれる。


「お待たせしました」

「いえいえ……あれ」


 ミカゲさんが、私の顔を凝視している。何かついているだろうか、と頬のあたりを触ってみたが、何もない。


「な、何か変ですか?」

「いえ。今日はお化粧しているんだなって思っただけです」

「なんだ、そんなこと……」

「可愛いです。アヤちゃんはいつも可愛いですけど」

「!」


 確かに、ミカゲさんにこうしてきちんとメイクをしてる姿を見せたのは初めてだったかもしれない。でも、まさかこんな出先でまでそんな甘い言葉をかけてもらえるとは思ってなかった。不意にこういう嬉しい言葉の雨を降らせるから、ミカゲさんはずるい。そんなこと言ってくれるの、ミカゲさんだけですけどね! 


「どこから行きましょうか?」

「ええと、学食は昼に見たいので……とりあえず、図書館から見たいです」

「わかりました。こちらです」


 慣れた様子ですたすたと歩くミカゲさんの背中を慌てて追いかけた。



 構内をいろいろ見せてもらった後、昼は念願の学食にやってきた。こんなに机があるというのに、人でいっぱいだ。なんとか二人分の席を確保して、ミカゲさんに学食をご馳走してもらった。もちろん資料として写真に収め、有難く頂く。大学の学食なんて大味なんでしょ、って思ってたら予想を裏切られた。かなりおいしい。残さず平らげ、学食の様子も写真に収めてから、スケッチした。

 ここまでは、ミカゲさんがいてくれたので、何の心配もせず取材に打ち込めたけど、問題はこの後だ。


「僕はいったん研究室に戻って授業の準備をしてから講義室に向かいますが、一人で平気ですか?」

「う……はい」


 さすがにここで無理ですとは言えない。ミカゲさんだって仕事があるのだから、不安だからそばにいてだなんて、そんなこと。

 講義室の場所はさっき教わったし、方向音痴ではないから、きっと大丈夫。まぁ問題は場所より大学生だらけの中浮かないかどうかだけど、ここまで怪しまれずに来れたのだから、きっと大丈夫。ちょっとは大学に溶け込めている……はず! 


「いい子ですね。えらいえらい」


 去り際に、頭をポン、とされた。学生が多くいるからか、いつもよりソフトタッチだったなぁ……って、何を残念がってるんだ私は。授業までまだ時間があるし、もう何枚かスケッチしたら講義室に向かうことにしよう、と決めた。



 * * *



 ちょっと早めに講義室に着いたので、1番後ろの席を陣取った。大講義室って、こんなに広いのか。授業が始まってしまう前にこっそりと何枚か写真を撮って、何食わぬ顔で席につく。するとしばらくして、学生達が次々とやってきたので、私は目を合わせないように俯いて過ごした。

 真面目そうな子達は前の方の席に着き、いかにも遊んでそうな子達は早々に後方の席を陣取って、荷物で場所取りなどもしている。ほぅ、なるほど。

 どんどん席が埋まってくる。自分が所属していないコミュニティにおいてけぼりにされていることにとてつもない居心地の悪さを感じていると、前の方の扉からひどいボサボサ頭の人物が入ってくるのが見えた。ミカゲさんだ。この教室にいる中で唯一知っている彼の姿を見て、ようやくほっとする。ミカゲさんは教壇近くの機械を操作している。多分あれはモニターやらマイクやらの機械なのだろう。

 そうこうしているうちにチャイムが鳴り響いた。講義室内のざわめきは、チャイムなんかなかったかのように止まらない。


《それでは、始めます。前回お配りしたレジュメをご準備ください》


 マイク越しのミカゲさんの声が室内に響き、ようやくざわめきが落ち着いた。ここからだと、ミカゲさんの表情は見えないけど、多分いつもと変わらない朗らかな笑みを浮かべている。声音でわかる。

 学生達はホチキス止めになった紙の束(どうやらあれをレジュメと言うらしい)を見ながら、モニターへと視線を移した。私もモニターを見るが、なるほど、さっぱり分からない。専攻は古生物学だと言っていた気がする。恐らく今日の授業もそのような内容のことなんだろうけど。そのへんの知識はさっぱりだし、授業が聞きたい訳では無いのでモニターからは視線を外した。

 ここからだと、良く見える。真面目に授業を受けている人、おしゃべりに勤しむ人、こっそりスマホを触っている人、何やら別の勉強をしている人、カバンを枕に完全に寝る体勢に入ってる人。背中だけ見ても、様々だ。これが、リアルな大学の授業。

 私は周りの人たちに怪しまれないように、教室内をスケッチする。丸まった背中、伸びた背中、傾いた背中。そして、モニター前を行ったり来たりするボサボサ頭。目に見えるもの全てを脳内に叩き込もうと、必死でスケッチをした。

 私がスケッチをしている間にも、たんたんと授業は進む。ミカゲさんの声は、マイク越しでも静かで、柔らかい。最初にスケッチをした時より、丸まった背中が増えてきた。眠くなる気持ちはわかる。かくいう私も、ミカゲさんの声がまるで子守唄のように聞こえてきて、すこし、瞼が重くなってきた。自分を奮い立たせて、ペンを持つ。


「ちょー眠い……」

「分かる。ミカゲっちの授業、マジで眠くなるよね」


 私の前に座っていた、いかにも女子大生って感じの集団がそんなことを話している。ミカゲさん、学生から『ミカゲっち』と呼ばれているのか。本人知ってるのかな。


「でもミカゲっち甘いし、寝ててもなんも言わないから寝てもよくね?」

「確かに」


 学生からも『甘い』認定されていることに、ちょっと笑いそうになった。でもね、君たち。彼の甘さは、それだけには留まらないのだよ。なんて、ちょっと偉そうに思う。

 そのうち一人の子が、崩れ落ちるように机に突っ伏してしまった。あーあー、と思いながらも、ちょっと同情。ここにいる全員、きっと知らない。眠くなる魔力を持つ彼の声は、私を抱く時だけは、『眠らせない』激しさと熱を帯びること。「アヤちゃん」と、すこし苦しそうに私を呼ぶ声を思い出してしまって──。


「~~~っ、」


 こんな所で何を考えているんだ。すっかり眠気は吹き飛んで、私は一心不乱にペンを走らせた。



 * * *



 授業の後、帰る前にミカゲさんに声をかけることにした。機材を片付けているミカゲさんに駆け寄って、深々と頭を下げる。


「ミカゲさん、今日は本当にありがとうございました」

「いえ、僕は何も。どうですか? 何かいいものが得られました?」

「はい、とっても」

「たくさん描いてましたね。見てもいいですか?」

「え、いや、雑なスケッチなので恥ずかしいんですけど」


 渋々と、スケッチブックを手渡す。色々なパターンでたくさん描いたので、スケッチブックはもう一冊終わりかけてしまっていた。それなのにミカゲさんは、描いたもの全部にパラパラと目を通してくれている。

 スケッチブックを見終わって、私に返してくれたあと、ミカゲさんは笑った。


「すごいですね。こんなにたくさん、よく描けます」

「描くの、好きですから……」

「にしても、あの席から見てもこんなにひどい頭ですか、僕は」

「え! 私がどこにいたか気づいてたんですか?」

「当たり前じゃないですか」


 あんなに遠かったミカゲさんにも気づかれてたなんて! 私、相当怪しかったんじゃないのか。大丈夫だったかな。いや……でも後半ほとんどの人が寝ちゃってたから、見えやすくなってたのかも。きっとそうだ。

 ミカゲさんに存在がばれていたことがちょっと悔しかったので、私はさっき知り得た情報をミカゲさんにひけらかす。


「……そう言えばミカゲさん、学生から『ミカゲっち』って呼ばれてましたよ」

「あぁ、らしいですね」


 なんだ、知っていたのか。思っていたよりも反応が薄い。つまんないの。


「学生からも『甘い』って言われてましたよ。居眠りを許してあげたり、流石ですね」


 すると、ミカゲさんは片付けをしていた手を一旦止める。「いや、」と言って、少し考えを巡らせている。


「彼らに対するのは、許容ではなく傍観です。いちいち指摘していたらキリがないので、気づいていても言わないだけですよ」


 これも思っていたのと反応が違う。甘やかし上手のミカゲさんのことだから、「最近の学生は頑張り屋さんですからね」とでも言うかと思ったのに。


「もちろん、きちんと頑張っている人には、それ相応のものを与えているつもりですよ。僕は頑張っている人が好きなので。アヤちゃんが一番知っているでしょう」


 ミカゲさんの、奥二重の瞳に捕えられる。それ相応のもの……ミカゲさんが今までしてくれたことあれこれを思い出していて、カッと体が熱くなる。


「そ、それにしては、私は与えられすぎだと思いますけど」

「そんなことありませんよ。どうせ、今日は帰ってすぐに、寝ずに続きを書くんでしょう。だからまた後日、伺いますね」


 行動パターンを読まれている。だって、目で見たものを忘れないうちに原稿に反映させたいし……。図星をつかれて黙ってしまう私に、ミカゲさんは相好を崩した。このままここにいてもミカゲさんに勝てる気がしないので、大人しく帰ることにする。


「じゃあ私、そろそろ帰ります」

「ええ、お気をつけて……あ、そうだ、アヤちゃん」

「?」


 ちょいちょい、と手招きをされたので、一度は振り返ったのにまたミカゲさんのほうに歩いていく。するとミカゲさんは、ちらりと私の後方を確かめてから、私の頭を優しくなでた。


「えっ……」

「ご褒美です。さっきはしてあげられなかったので」


 さっきの学食でのものとは違って、いつもと同じように頭を撫でてくれている。さっき、物足りないと思っていたこと、ばれている? それが恥ずかしくなって、ミカゲさんから逃れようとする。だけど、それは叶わなかった。

 さっきまで優しく頭を撫でていた手が、逃げようとする私を捕らえて、引き寄せた。そのまま私は、ミカゲさんに唇を奪われてしまった。こんな所で──私の動揺をからかうように、ミカゲさんの舌は私の唇を割って入ってきた。

 ミカゲさんのキスはうまいから、何も考えられなくなってしまうのに。それをきっとミカゲさんはわかっていて、口内を好き勝手に蹂躙した。


「んっ……ふ、」


 唇が離れると同時に、唾液が糸を引いて落ちた。こんなところでこんな濃厚なキスをするとは思いもしなかった。誰にも、見られてなかっただろうか。さっきまで『先生』をしていた、ミカゲさんのこんな姿は。講義中に想像してしまったことも相まって、つい、が欲しくなってしまう──。ミカゲさんはそんな私の心情を知ってか知らずか、いたずらっぽく笑った。


「お仕事、頑張ってくださいね」


 ずるい、というか、さすがというか。こんなふうにお預けを食らったら、仕事頑張るしかないじゃないか。いい資料も手に入ったし、ミカゲさんのおかげで続きも描けそうだし。さっさと家に帰って終わらせるしかない。早く描きたい。そう思うと、自然に足は早まっていた。

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