嘲笑を抱いて君の海に堕ちよう 単話

 日差しが皮膚を刺す。包丁のような光が、海水の表面を通って、疎らに俺を食う。海の中、裸眼を晒して、学校で教えない、酷く不格好な体の形をして、進んでいった。

 家の前の海水浴場は、遠くに住んでいる金持ちが大金任せに土地を買って、俺達住民に管理と使い方を任せているそうだ。それを住民達は、自分達用の遊び場にしている。観光客を入れなくても、毎月他の海岸の収入よりも高い金が入る。だから、ここにまで一般の人間が遊びに来ることは無いし、それなりに人気のこの温泉街において、唯一近所の子供達がのびのび泳げる場所だった。


「リン、そろそろ西瓜食いに行こう。もう冷えてるだろ」


 隣で泳いでいたアキがそう言った。隣の家に住んでいるアキは、幼馴染で、いつも俺と一緒に遊んでいる。

 夏休みの最初、宿題だとかそんなものは後でやれば良いと放棄して、俺達はいつも通り、何の目的も無しに、海の中を漂う。俺の家の畑で取ってきた西瓜と、胡瓜を少々、冷えた洞窟に置いていた。


「うん」


 俺の返事に、ニカッと笑ったアキは、そのまま、街一番の泳ぎの速さで、洞窟に向かって行く。洞窟は陸からは行けないようになっていて、俺達はいつも、数年前に俺の兄が作った木製の船で、荷物をそこに持っていき、そこを静かで涼しい休憩場所として使っていた。洞窟の奥からは、冷えた真水も流れていて、どっかの大学だかが調べた話では、天然水として飲むに適しているらしく、水分補給も出来る。今日はその水で西瓜と胡瓜を冷やしていた。

 海水を掻き分けて、アキの後ろを行く。すぐそこの断崖絶壁の中、カヌー三つ分くらいの穴が開いていた。そこに入ると、気圧差か奥から風が吹いて、冷えた空気を肌に感じる。太陽光で荒れた肌が、ゆっくりと癒えるようにも感じた。


「包丁と板、袋ん中入ってるから」


 波で削られた滑らかな岩肌に上がり、アキがそう言った。縄で繋いだ木船の中、アキの持ってきた大きな巾着に、まな板代わりの厚い木の板と、箱の中に入れられた万能包丁が入っていた。俺はそれを取り出すと、湧水が溜まる窪みで、重そうに西瓜を上げるアキに寄る。


「冷えてる?」

「あぁ。良い感じ」


 アキが西瓜の表面を撫でて、地面に置いた。俺はそれを受け取って、板の上で、包丁を立てる。水分が弾け飛ぶ音がして、ウリ科の甘い匂いが辺りに広がった。隣でじゃくじゃくと音がするので、そちらを見ると、勝手にアキが、胡瓜を貪っていた。


「お前はさあ」


 呆れた声を漏らすと、アキは知らん顔で一本を丸々食べて、俺が切った西瓜に手を伸ばす。


「待て。これは待てよ」


 犬の待てのように、アキの顔に手を出す。奴は一瞬、不貞腐れたような顔をして、黙った。

 西瓜を切り分けている内に、どんどん匂いは洞窟を充満しては抜けていく。全て切り分け終わると、包丁を真水で洗って、水を一口飲み、正座で待っているアキに向かう。


「いただきます」


 俺が手をそろえてそう言うと、アキも同じく言って、四等分した西瓜に食らいつく。食い意地の張った奴だと、心底思う。

 こんなんでもアキは元々、あの海水浴場を買った家を本家とする、かなり良い家柄だと、親から何度も聞いていた。曰く、昔、この街は山の神を祀っていたが、アキの家の先祖が、山の神が物の怪であると突き止めて、海の神を使って退治しただとか、今も海の神を祀ってこの街を守っているだとか、そんな伝説があるのは確かだ。事実、アキの家はそれなりに大きな旅館をやりながら、この街の祭りを指揮している。

 ただ、こいつの西瓜を食う量だとか、勢いだとか、時々見せるアホさを見ていると、伝説は伝説を超えることは無いと思えた。アキは俺と変わらない歳の、泳ぎが上手いだけのただの子供だ。


「この後どうする? もう一回泳ぐ?」


 物思いにふけっていると、アキが目を合わせてそう言った。


「いや、疲れたし、日が暮れる前に帰ろうよ」


 俺の言葉に、またアキはニカっと笑って、わかったとだけ言った。俺が西瓜を食べ終わるのを待つと、水で手を洗って、道具を仕舞い始める。多めに持ってきていたタオルが役に立ったようで、渡される道具は仄かに湿るだけだった。俺はそれを船の傍で袋に詰めていく。


「あ」


 突然、アキが一つ、そう落とした。ちゃぽんと音がして、何かが落ちたんだと理解した。反射的に顔を向ける。アキは手を押えて、青ざめていた。


「どうした」


 暗くてよく見えなかったが、すぐに傍にあったライトで、アキを照らす。その手からはドクドクと脈打ちながら、明るい赤色の血液が流れていた。急いで足元の海への入り口を見る。少し深くなったところに、キラリと光る、刃物が落ちていた。海水に赤が混じる。


「落ち着け。鮫が来ると厄介だ。血を止めよう」


 急いでタオルを袋から出して、血の出ている左の手、その手首をぎゅっと縛った。少し出が悪くなった血液を見て、アキに立つように促した。俺達はそのまま、血液が海水に入らないように、洞窟の少し奥に移動する。

 案外冷静なもんで、綺麗な水で消毒しないとと、ひたすらに思っていた。怪我をする前提で遊んでなどいないし、消毒液も包帯も無かった。ただ、血が止まるまでは船に近づけない。海に血をあまり垂らしたくなかった。少し、洞窟が海に向かって斜めになっていることに気づいた。真水は海に向かっている。近くの湧水で手を洗ってもダメだと悟る。

 酷く悪寒がした。洞窟の奥から風が吹く。


「血が止まるまでもう少し奥に行こう」


 俺の提案に、アキは黙って頷く。パニックに陥っている。いつも饒舌な此奴が、妙に黙って下を向いているのが不自然だった。


「痛いか?」


 手で手を押えていて、アキの傷口は上手く見えなかった。それでも、血液の量からして、かなりの深さで、大きな血管を傷つけているのは何となく察しがつく。

 ばしゃんと後ろから、いつもの波とは違う、生物が跳ねる様な音が聞こえた。俺が振り返ろうとすると、アキがやっと口を開く。


「鮫だ。俺の血を嗅ぎつけてきた。結構大きい。足を踏み外したら噛まれる」


 アキの言葉に、俺も賛同が出来る。同時にゴンという音もして、生物が船の底に当たったのだとわかった。

 俺達はもっと奥に行って、湧水がまだ奥でも沸いてないか探る。徐々に道が狭くなっていって、俺はアキの先頭を行く。


 正直、ここまで奥に行く前に、どうにか船に乗った方が、策としては安全だったかもしれない。鮫だって、もしかしたらそこまで大きくなかったかもしれない。アキの焦った表情に、俺もパニックになっている。冷静だなんて、嘘だ。溶けた脳に、更に、今まで行ったことのない洞窟の奥に進む好奇心が流れ込んで、興奮していた。


「アキ、大丈夫か?」


 途中、後ろにいるアキに声をかける。


「大丈夫。でも、血が止まらないんだ」


 アキの弱音を聞いて、正義感か何かに近いモノも沸き上がる。


「ぎゅって、タオルの上からでいいから、手首を押さえろ。そしたら少しは良くなるから」


 俺は後ろも振り返らずに、奥へ進んでいく。ぴちゃぷちゃ、というアキの足音が、一緒にいるという確信だった。自分が風上にいるからか、アキから血液特有の錆臭さはしない。

 手にしていたライトで照らす道は、また開き始める。俺が黙々と歩く先、急に空間は閉塞感を捨てた。


「何だ、此処」


 空間は高く高く、上に小さな光を持って、俺達を迎える。学校の体育館くらいの広さと、建物四階程の高さを持つ。風は上からだった。おそらくは、その穴が、山の中の何処かだということは、頭の中の地図で読み取れる。

 少しだけ明るくなった周囲と、突然のことに、脳が一度思考を止める。俺は手のライトを目の前に上げ、壁を大きく照らす。そこは壁ではなく、何か、社の様なもので、俺の目に宗教感を見せつける。


「……遺跡?」


 独り言が漏れ出す。

 岩の社は、洞窟の壁をくりぬいて、それを歪な社の形にし、更に中をくりぬいて、木で扉を作ってある。遺跡という程ぼろぼろではなく、特に扉の木は柿渋を塗ってまだ新しい。


 目を奪われて、俺は呆けていた。中学生の、一種の冒険だ。不可思議なモノを見つけた時の高揚が離れない。


「いっ……」


 ふと、俺の後ろから、アキの声が聞こえた。一瞬で我に返って、アキの方に振り向く。


「ごめん! ちょっと驚いてたんだ……大丈夫か。一回座ろう」


 アキを座らせ、俺は辺りを見る。傍に湧水が無いか確認して、社の右に、ちょろちょろと流れ出る水と、それを貯めるように彫られた岩があった。近づいてみれば、丁度一つ柄杓もあって、それに水を汲み、アキの元へ戻る。


「泥がついてるかもしれない。一回傷を洗おう」


 俺は手を押さえるアキの手を、ぐいと自分の近くに寄せた。アキと目が合う。アキは無表情だった。

 アキの左手に、星のマークを見る。ヒトデのようなものじゃない。三角二つの、六角形のようなやつだ。


 俺がそれを見て思考を停止している間に、アキは感情を何処かに捨てているような顔をしていた。

 口角が上がった。

 目が俺を獲物のように扱っていた。

 右手にタオルで隠したナイフを持っていた。

 歯が獲物を食った後の、赤い鮫のようだった。

 アキじゃなかった。

 此奴はアキじゃなかった。

 これは豊宮とよみや彬人あきとじゃなかった。

 後ろから泣きべそ掻きながら、アキが、アキじゃないモノと、それにナイフを突き立てられる俺に向かって走ってきていた。


 アキの左手と左肩に、傷があった。左肩の血は尋常じゃない。肉が抉れている。此奴に噛まれたんだとすぐにわかった。それでもアキは俺を助けようと、こっちに駆けてくる。


「違う! それじゃない! そいつじゃない! 俺が殺したかったのはそいつじゃない! 俺は契約を破ってない!」


 何を言っているのかわからなかった。それでも、アキが元気に声を出して、いつも通りのアイツであることに、何となく幸福感を感じていた。


 刃物が俺の心臓を刺す。ドクドク動く、臓が抉れる。一瞬で全てが終わった。アキの姿をしたそいつは、最後に、俺の首を口に付けて、俺を終わらせた。




 泣くなアキ。今のお前程痛くは無いから。


 ……おやすみ はやくおまえのきずがなおりますように




―――――

〈参考〉

日本書紀卷第二神代下にほんしょきだいにかんかみよしものまきより、第十段「山幸彦と海幸彦」


〈検索キーワード〉

日流子伝承

土着山神伝承

日本における神域伝承

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