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その日は五月晴れの一日だった。
晴れといっても雲は多く、まとわりつくような湿気の一方で風もわずかなものだから、不快指数でいえば今年最悪の数字に近い。人数の多い授業の教室では息が詰まるほどで、冷房を弱く設定する教授が忌々しかった。「自主休講すればよかった」という学生たちの後悔の声に、電気代を気にしてエアコンの設定温度を下げられない英里奈が口をとがらせていた。
三限を終えて英里奈や攸子と別れたわたしは、航大くんと合流した。彼はここのところの気温の乱高下に負けて早くも夏風邪気味らしく、声をからしていた。そういえば、攸子の弟も熱に浮かされているという話だった。中学や高校はまもなく期末テストだというから、災難な話だ。
講義後に航大くんと会う目的はほかでもない、赤石さんの家を訪ねるためだ。先日相談した件について、事後報告だ。
箕原さんが写真を撮ってギフトカードを盗まされた可能性が指摘されてから、航大くんは急いでクラスメイトを頼って彼女と連絡を取った。そこで赤石さんと征吾さんが心配した最悪の事態たる、ギフトカードのコードの写真を撮ることで指定の金額を強要されるという事態がまさに進行中と明らかになった。
それからは急ぎ足であったが、まずは学校の先生に事情を伝えるところから始まり、加害者に対する無視やサイトへの通報で自己防衛を図った。赤石さんは消費生活センターへの相談も提案していた。やがて加害者からの嫌がらせや強要は収まったという。最終的には警察沙汰になるのかもしれないが、ひとまず赤石さんに報告できるまでには、厄介なトラブルが鎮静化した。
「それで、結局何が動機だったんだい?」
わたしたちを迎え入れた赤石さんは、事の顛末を聞くより先に、箕原さんが奇妙な窃盗をはたらくに至った理由を尋ねた。最後に少しだけ確認したいことがあったようだ。
彼はこの暑い日の、申し訳程度にしか空調の聞いていない部屋で、熱々のコーヒーを提供してくれた。きょうは遠慮しよう。
「何でも、topSALEで取引したユーザから強要されていたみたいで」航大くんがかすれた声で説明する。「あいつが手作りのアクセサリを売ったら、買い手から不良品と難癖をつけられたらしくて。何を言っても聞いてくれなくて、ユーザ評価やメッセージでの嫌がらせに遭っていたらしいです」
と、ここで航大くんがむせこんでしまった。切なそうなので、彼が喉を休めているあいだわたしが代わりに説明する。
「『不良品を買わされた』というのが相手の言い分だから、箕原さんはサイトへの通報を躊躇ってしまって。それである日、『ギフトカードのコードを写真に撮って慰謝料を払え』と強請られた――どうにもお金を払うほかに方法が思いつかず、どうやってお金を準備しようかと悩んでいたとき、航大くんと健一くんのやり取りを聞いたらしいです」
なるほどね、と赤石さんはコーヒーを口にした。この暑い中よく平然と、汗もかかずにおいしく飲めるものだ。わたしはいま、麦茶がこわい。
「金額については勘違いしていたか?」
「あ、はい。そうみたいです」
箕原さんは「慰謝料」として、五万円――彼女が売ったアクセサリの価格の百倍だ――を要求されたという。その仰々しい名目の割には大した金額ではなかったのも、彼女が要求に従ってしまった一因なのだろう。
ところで、箕原さんはなぜ航大くんの、たった千円のカードを盗んだのか? 赤石さんはふたつの可能性を提示していた。ひとつ、たとえ少額でもすぐに払えるお金が欲しかったから。ふたつ、千円のカードだと知らなかったから。
結果は後者だ。
赤石さんは予想を言い当てて得意げである。
「そうだと思った。箕原ちゃんはコードを未入力だったから、実際の金額を自分の目で見ていない。だから『あした返す』というのなら、金額をわかっていたか、少なくても予想できていたはずだ。千円のカードとわかっていて盗んだのなら、その時点で返していたほうが自然だ。高校生なら千円くらい持ち歩いていて普通だからね。
『何とかして』返すというのもちょっと違和感のある言葉だった。もし千円と知らなかったにしても、容易には払えないほど高額だと思っていた可能性が高い。
どうして勘違いをしたか? ――健一と航大の話を聞いていたのだろう。ふたりの会話は『高かったんだぜ』という健一の言葉で途切れている。そして、金額を指定できるバリアブルのギフトカードは、その範囲が書かれているものだ。
本当の金額を知らない彼女は、健一の発言を信じ、書かれていた最高額をカードの金額と思い込んでしまったら、まあ、渡りに船の五万円に見えたんだろうな」
こくりこくりと、航大くんが必死に頷いている。「その通り」の一言を声に出すのも辛いようだ。
不幸中の幸いというべきか、今回の件では実際に金銭的な損害を被った人はいなかった。航大くんは自分のコードを入力できたし、箕原さんも写真で送ったほかに強要に応じてしまったことはない。加害者にお金は一切渡っていないのだ。
あとは、箕原さんの心の傷が癒えてくれれば。
「この度は、あ、ありがとう、ござ……ごほっ」
せっかくお礼を述べようとした航大くんだったが、自分が思っている以上に喉の調子が悪くなっているようだった。見かねて、彼には先に帰ってもらった。テストも近いことだし、体調を大切にしてもらわないと。
狭い歩幅で重い足取りの高校一年生を見送りながら、思いついた。今回の事件が本当に解決するためには、箕原さんと彼のあいだに気まずさが残らないことも大切だ。もちろん、健一くんとも。
見送るふたりが玄関に残され、並んで立つ。うだるような蒸し暑さでも、外は開放感があるだけ心地よい。わたしは足元の飛び石の数を数えていた。
「なあ、遙」
顔を上げる。彼は神妙な面持ちだ。
「航大は本当に自分のカネを――正確には健一のカネなのかもしれないが――取り戻したと思うか?」
「そうなんじゃないですか?」
「違うな」
内心その答えは予想できていた。大学の教授たちがよく同じやり口でわたしたち学生に問いかけてくるから。
「本当は、現金をあのカードに交換した時点で、自分のカネを差し出している」
「お買い物って、そういうことじゃありません?」
「本当に買い物を達成するのは、ウェブ上で商品を受け取ってからだ。言っただろう――カネは見えなくなったときに真価を発揮する。デジタルコンテンツは、最初の製作費以外に原材料費がほとんどかからない。コピーすればいくらでも増やせるから、原価は売れれば売れるほど限りなくゼロに近くなる」
電子書籍とかそういうもののことを言っているのか。確かにそうだけれど、エコということもできる。資源節約。
「人はついに原価のないものを売買し始めた。しかも、そのやり口は姑息だ。カネを電子化すると、商品と交換する前から、企業が莫大なカネを手にすることになる。先に手にしたカネは、商品で支払われるマイナスよりも先に、次のカネ儲けのために使われる。いざ商品と交換しなければならないときがきても、すでに新たなカネ儲けが進んでいるし、交換する商品もほとんど原価ゼロだから、痛くも痒くもない。こうやってカネは、視認できないデータの形になった瞬間、実際に存在したはずの価値から勝手に増殖していく」
「……?」
「現金にはできない芸当だよ。
何やら講釈を垂れているが、わたしにはむつかしい。
中学校の社会科で習った信用創造と似たようなことだろうか? 市中銀行は預金をそのまま持っていなくても、借金として貸し出すだけならいつか返ってくるから、持っていることと同じ。ゆえに、誰かに貸し出して、預金として使われなくなるはずのお金が別の売買を生み出し、どんどん経済を膨らませる。
そういったことを指して「自己増殖」とは、まあ、言えなくもないのかもしれない。
「要するに、目に見えて、手にも取れる現金が一番怖くないってことですか?」
「一番マシではあると、僕は思っているよ。征吾はそう思っていないどころか、カネに踊らされて増殖をさせていく殊勝な趣味をお持ちだが」
表情はどちらかといえば穏やかだ。何かを達観し諦めている顔ともいえる。
「赤石さんは、つまるところ何が嫌いなんですか? お金ですか? お金持ちですか?」
「人を踊らすカネが嫌いだ。カネに踊らされてカネ儲けに走るカネ持ちが嫌いだ。カネを増やすためには人を人とも思ない汚い人間とそいつが持っている余るほどのカネが嫌いだ」
そのとき一瞬現れた彼の嫌悪の表情に、わたしはたじろいだ。
人をも殺そうかというような憎しみが溢れ出ていた。
でも、それはすぐに引っこんで、代わりに嘆息がこぼれた。
「とはいえ、僕も銀行口座を持つくらいには、カネに屈している。カネを自己増殖させるためにデザインされた社会に屈している」
赤石さんですら膝をつくのだから、わたしは言うべくもない。
彼は自宅の壁にとん、と手を置いた。
「まあ、せめて現金主義を徹底したと言えば、この家かな。意地でもローンは組みたくなかった」
「え? 現金で買ったってことですか?」
声が大きくなった。
「はいはい、近所迷惑だ。静かにね。ああ、征吾から買ったよ。現金で」
「……どこにそんなお金が?」
「探偵時代にカネ持ちから巻き上げた成功報酬」
「く、詳しく聞かせてください!」
「いや、守秘義務があるから話せないよ。僕もそこまで不真面目じゃない。というか、遙の用事はもう済んだだろう?」
「じゃあ、何か手伝います! そうだ、お掃除しましょう。家の中、ひどく散らかっているじゃないですか」
「掃除しないほうがありがたい。どこに何があるか、あれで把握しているから」
問答の末掃除をすることにはなったが、彼の探偵時代の話を聞くことはなかった。
目に見えないお金に対して、わたしは赤石さんのように警戒心や嫌悪感を抱くことはできない。それでも、山のように積まれた紙の束や、重く分厚い本を整理するなどしているうちに邪推がはたらいてしまう。
自らの手で触れられるモノに囲われていなければ、貧しい生活に胸を張っていなければ――持つ持たざるで泣かされるこの世の中が、恐ろしくて仕方がないのではないか、と。
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