10.カナリア

 夕方になると、ぼくは空腹を覚えていた。人を二人も壊してしまったのに、砂糖の体は律儀に変化していく。一人で食事を取るのはどうしても嫌だった。三毛がいても、ぼくが一人であるということは変わりなかった。

 三毛を抱き、光を探して歩き出す。千代と食事をする気にはなれなかった。それに、千代はいつも気づけばいなくなっていて、今日もそうだった。まるで誰かから逃げてでもいるかのように、彼女は不意にいなくなる。

 三毛はしばらくぼくに抱かれたまま大人しくしていたが、ついに我慢できなくなったのか、体にぐっと力が入って逃げる体勢になった。そうはさせまいと三毛の肩のほうに手をやる。でも、頭のどこかで予感していた通り、というかいつものように、三毛はぼくの肩によじ登って背中から下に飛び降りてしまった。

「行くのかよ」

 ぼくが恨めしい声を上げたのに反応したのか、三毛はちらりと振り向いた。でも、気にする様子もなく廊下を進み、ドアが開いていた階段の一つにするりと入っていった。

 ため息をつきながら、これで光のところに行きにくくなったな、と思う。ぼくと光は別に仲良くはなかったし、三毛がいてようやく関係できているくらいの浅い交友しかまだしていない。廊下をうろつき、昨日とはまた違う空模様を眺め――空は気味の悪いくらい美しい茜色だった――もう感じない潮の香りを嗅ごうと鼻をひくつかせながら、海の向こうを見た。世界のどの位置にこの船はあるのだろう。空がこんな色なのは、今の季節の北半球の半ば辺りだろうか。日本はどこにあるだろうか。――できるだけ遠くにあるといいな。

 とりあえず、行ったことのない場所に行ってみよう。そう思い、ぼくは階段のドアを開き、「エレベータになれ」とつぶやいた。しばらく待ってみる。でも、そこはやはり白くて真っ直ぐな階段で、誰も見ていないのに恥ずかしくなったぼくは、慌ててそこから降りた。

 もはやこの混沌には個性などない。そんな気がしてきた。壁のドアはそれぞれの持ち主の思い思いのデザインのものがしつらえられ、廊下は曲がりくねり、途中で分岐し、突然階段や行き止まりに着く。まるで誰かの思考のような混沌だ。そう、まるで、一人の他人の脳の回路に迷い込んだような気分で、あまり楽しくないのは相変わらずだ。

 ぼくは娯楽のための部屋を目指していた。図書室なんかあるといい。自分が持っている本なんてたかが知れた量だし、今のぼくの混乱を鎮めてくれるのは漫画ではない。この事態を納得させてくれる夢見の本や心理学の本なんかがあるといいなと思う。心理学なんて何なのかよく知らないけれど、今のこの状況にはぴったりだとぼくの直感が言っていた。

 四階に位置する部分の舳先のほうに向かう。三階ではそこが映画室だった。四階にも同じような部屋があるのかもしれない。廊下は入り組み、右の道を選べばよかった、と後悔した次の瞬間にその道と再び合流したりしてストレスがたまる。それでもどうにか広い部屋がありそうな行き止まりにたどり着き、観音開きの大きなドアを押し開けた。

 無数の楽器。ぼくがその瞬間思ったのはそれだった。木目が美しい飴色のピアノ。打楽器の数々。ケースの形を見て、無数に置かれたものの中にチェロやバイオリンなどが納められていることに気づいた。楽器か。小さいころに父さんはギターをよく弾いて聞かせてくれた。あのころの父さんは仕事がそんなに忙しくなかった。母さんもぼくも心に余裕があって、父さんが部屋で弾いているギターの音に気づき、一緒に聞きに行ったりもした。あのころはまだ小学生だった。楽しかった。本当に素晴らしい日々だった。

 ギターらしい大きさのケースを手に取り、父さんが弾いていたのと同じクラシックギターだと気づいてはっとする。しげしげと眺め、その大きくてくびれた形を眺め、気づけば弾いていた。「愛のロマンス」を自分なりに哀調たっぷりに弾き、その時間がかけがえのないものに思えてきて、段々涙が溢れてきた。途中で父さんが好きだったイギリスのポップスに無理矢理変え、声変わりしていないまだ深みのない声で歌う。父さんはこの曲が好きだった。明るい曲調で、愛を歌う。

「すごいねえ」

 突然、低い声が響いた。ぎょっとする。大袈裟に拍手をしているその男は、あの奇妙なカナリア男だった。満面の笑みを浮かべ、丸眼鏡の向こう側では目は笑っていない。今日もきちんとしたグレーのスーツ姿で、見ようによっては戦前のエリートという印象だった。

「君は歌えるんだね。いい曲だねえ」

 ぼくはギターを床に置き、じり、と下がる。でも、男はドアのそばにいるから、完全に逃げることなんてできそうになかった。

「君もいい曲だと思うだろう?」

 その言葉はぼくに向けられてはいなかった。驚いたことに男の陰には光がいて、無表情に床を見ていた。怯えていたはずのぼくに、助けなければ、という気持ちが一瞬にして芽生える。

「わたしは水島孝夫というんだ」

 男はそう挨拶して、にっこり笑った。

「明治時代の生まれでね、イギリスに留学したこともある」

「そうなんですか」

 ぼくは用心深く答え、男の表情を窺う。機嫌はよさそうだ。

「君、この子はどうしてわたしを嘘つき呼ばわりするんだと思う?」

 突然、水島は光をぐい、と前に突き出した。感情のこもらない目で、彼女はぼくを見る。こんな彼女を見たことがない。水島に何かされたのだろうか?

「わ、わかりません。何の話なのか全然……」

「君もそう言うのかね?」

 突然、水島は大声を出した。ぼくと光はびくっと肩を震わせた。

「驚いたなあ。嘘つきだと? わたしが? どこが? どこがだ!」

 意味がわからない。でも、光が危険だということがよくわかった。男は光の肩をしっかり握っていて、声は金属音に近くなってきていた。

「カナリアがいないと、そう言うのかね?」

 カナリア。またカナリアだ。ぼくは意味が分からないなりに男に合わせようと、「います」と答えた。光がぼくを見る。男は、にっこりと笑った。

「君にも聞こえるだろう?」

「ええ」

「カナリアが鳴いている」

「はい。聞こえます」

「コロセ、コロセ、ってね」

 次の瞬間、男は光を突き飛ばした。そして、砂糖で作ったらしい長い刃物をいつの間にか手に持っていて、それを突き刺そうとしていた。光は叫び、避けた。でも転んでしまった。ぼくは、大きな声で「やめろ!」と怒鳴った。水島はぼくを見た。にっこりと、笑った。

「子供が指図するな。わたしはカナリアの言う通りにするんだ」

 ざく、と床に刃物が突き刺さった。その瞬間、光は何か白いものを撒いた。床から削り取った砂糖らしい。水島は目を覆ってうめく。

「坂口君、逃げよう!」

 光はぼくの元にやってきて、大声で叫ぶ。

「逃げるな。わたしがカナリアに叱られてしまうじゃないか」

 その背後で、水島が再び刃物を持って立っていた。ぼくはクラシックギターを掴んだ。うなり、叫び、走って、光を捕らえたその瞬間の水島を、思い切り殴った。木が割れる音と共に空洞が破れ、ギターは壊れ、水島は顔を血まみれにした。またぼくは人を壊してしまうのか。一瞬そう思ったけれど、それどころではなかった。光の手を掴み、全速力で走る。光はいつの間にぼくを追い越し、引っ張り、ドアを押し開け、足の遅いぼくをリードして走る。混沌とした廊下はぼくらを阻むように元のルートに戻そうとしたり階段を隠したりする。捕まってしまう。捕まって、殺されてしまう。誰か、助けて。

 ――助けるとも。君は最後まで残ってたくさんの人々を壊してくれそうだからね。

 また、声がした。すると、曲がった先に千代がいて、「早く!」と叫んでいる。都合のよさに驚き、でも、千代がひどく頼もしく思えて、走る彼女を追いかける。

「エレベータアにしちまえばいい」

 千代はつぶやき、ドアに向かう。後ろから水島が来ていた。あと十メートルほどで捕まる。ここで立ち止まっている場合じゃない。そう思っていたら、ドアができてエレベータになった。大急ぎで乗る。ドアは閉じ、水島の手を挟む。でも、センサーつきの親切な設計のエレベータではないらしい。ドアは再び開くことはなく、痛みに呻いた水島は手を引っ込めた。

「あいつは人殺しだよ。近づいちゃいけない」

 千代の目は瞳孔が開いていて、顔は強張っている。光も同じ顔になっていて、水島は二人のトラウマを刺激したようだった。エレベータ内は今どきのもので、さっき乗ったのとは違うシンプルな形だ。大きな姿見がついていて、恐怖に震えた子供三人を二倍に見せる。

「あんたの部屋に行くよ」

 千代はぼくを見る。

「あんたの部屋でしばらく隠れるんだ」

 ぼくはうなずく。でも、次の瞬間叫んだ。

「三毛!」

「三毛がどうかしたのかい?」

 千代が鋭い表情でぼくを見た。

「三毛、どっか行っちゃったんだよ」

「またかい? でもすぐに戻るんだろう?」

「わからない。……見つからなかったら探しに行く」

 ぼくの言葉に、千代が信じられないような顔をする。でも、と思う。三毛はぼくの一部で、家族で、安心できるパズルのピースで……。決して軽視できる存在ではなかった。

 エレベータはどういう移動をしたのか、ぼくの部屋に直通していた。中に入るとぼくはやっとほっとし、千代と光も緊張を少し解いた。でも、この狭い部屋に三人も籠城するのは難しい。とりあえずぼくは二人をベッドに座らせ、何か飲み物を出そうとして「ルームサービスは危ない」と二人に止められた。この場所が見つかることが恐ろしいのだから、部屋から顔を出すな、と。

「部屋が狭いからさ。くつろいでもらう方法がわからないよ」

 ぼくがしょんぼりとそう言うと、千代はこう言った。

「食べ物は食べなくても生きていける。部屋なら作ればいい」

 どうやって? と訊く暇もなく、部屋の壁にはドアができていて、それを開くと二人が寝るのにちょうどよさそうなベッドが二つ置かれた四角い部屋ができていた。シンプルで、真っ白で、ぼくの部屋よりも広く見える。

「光。ここはあたしとあんたの部屋。男の子と同じ部屋に寝る必要なんてないからね」

 光は、心外なことにほっとしたように微笑んだ。ぼくが何かするっていうのだろうか。

「それから、水島孝夫について、あんたたちに話しておきたい」

 千代は青ざめた顔になり、最初はぽつぽつと、段々勢いよく、話し始めた。

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