3.絹子と繭子
三毛の名前を呼びながら張り出した廊下を走る。ここは人の気配がなくて不気味だ。こんなにドアがたくさんあって、さっきは人の声もしたのに。ぼくは運動神経が鈍いほうなので、どたどた騒がしい足音が鳴る。左手にはひたすら夕暮れの海の風景が続く。この夢にはぼくと三毛しかいないのだろうか? 夢だと思いつつも背筋が凍るような気がする。
廊下は緩やかにカーブしていた。途中にいくつかドアつきの階段があるのにも気づいていた。三毛はそちらに行ったかもしれないけれど、気づかないふりをする。階段を降りるのは廊下を全部進んでからだ。複雑な場所で思いつくままに進んだら迷う。そう思っていると、視界が開けた。
そこは船のデッキだった。下を見下ろすと、ここよりもずっと広いデッキがまたあって、ぼくがいる場所はそこから五階分ほど高いところにあるようだった。頭にいくつも疑問が浮かんだ。船? 何故ぼくは船にいる? それも部屋ごと? ――色々考えたけれど、夢だから、と片づけた。
白い船だった。どこまでも純白の。踏むたびにじゃり、と床が鳴るのは砂壁のようで不思議だった。そういうもろい素材でできているならおかしい。海に溶けてしまう。
この場所はより海を広く感じた。押しつぶされそうな、いや、互いに押し合っているかのような海と空。冷ややかな月はぼくを笑って見下ろしているかのようだ。ぶるっと身震いし、ぼくは振り返った。三毛を探さなければ、と思ったから。
そこにいたのは女だった。びっくりするくらい美しい、二十歳くらいの女。派手な白地に朱と紺の手毬の模様が染めつけられた着物を着、ぼくを見ている。着物の女性というのは、いわゆる日本人形のような涼しげな顔立ちをイメージするが、この女はそうではない。大きな目に厚い唇。外国の女優のような顔立ちだった。身長は普通で、ぼくよりも少し大きいくらい。何しろぼくは十三歳で、平均よりも少し小柄だから、成人した女性よりも低くなる。女は、ぼくを見下ろし、無表情に固まっていた。
「誰かいるの?」
その女の後ろの両開きになったガラス戸から、また別の女が出てきた。そちらはぼくが想像する「着物の女性」そのものの姿をしていた。切れ長の目に薄い唇。肌はどこまでも白い。着物には濃い緑に白い葡萄の模様が散っている。蔓がくるくる巻きながら広がって、この女の体全体を覆っているように見えた。この女も、ぼくを見てはたと止まり、凝視した。
「子供、ねえ」
二人目の女がつぶやく。いや、最初の女にささやいたのか。最初の女はそれを聞くと突然振り向き、「戻りましょ」と言う。慌てたのはぼくだ。今ここにはこの女たちしかヒントがない。
「あの」
背中を見せていた女たちに声をかけると、驚いたようにぼくに振り向いた。何を驚いているのかわからないが、三毛の居場所を知るにはこうするしかない。
「猫、見ませんでしたか? こう、小柄で三毛猫で赤い首輪をしていて尻尾がしなやかで真っ直ぐで、あんまり太ってない」
最初の女がきょとん、とする。緑の着物の女は少し考える顔だ。
「黒いハートがお腹にあるんです」
最初の女がぷっと噴き出した。二人目の女も少し表情を和らげる。
「そんな猫がここにいるのなら、見たいものだわ」
最初の女が袖口を口元に当てながら笑っている。
「猫がいるのね。にわかには信じがたいけれど」
二人目の女もかすかに笑った。ぼくはほっとした気分で二人を見ていた。
「三毛、逃げちゃったんです。お腹が空いたら戻って来るとは思うんですけど、ぼく、心細くて」
「あらそう」
二人目の女が目を丸くしてぼくの目を見る。この女も驚くほど美しくて、ぼくはどぎまぎする。女たちは目の前で相談を始めた。
「どうするの?」「どうするって……」「可哀想だわ」「猫はすぐに戻るんでしょう?」「わたしはちょっと話してあげてもいいと思うの」「どこで?」「例えばわたしたちの部屋で」
二人目の女が最初の女に持ちかける形で、ぼくは彼女たちの部屋に招待されることになった。三毛が戻ればそれでいいのに、話がおかしなことになっている。
「胸がわくわくするわ。だって他人と話すのは数十年ぶりよ」
最初の女の発言にぎょっとする。二人目の女が訂正して、話が正常に戻るのだろうと期待していたら、そうではなかった。
「違うわ。もう百年ぶりくらいじゃないかしら」
ぐらっと、地面が揺れた気がした。何とか体勢を整えて、二人について行く。おかしい。今日の夢は変だ。ぼくを狂わそうとしているようだ。これから常識的な世界に戻るはずだ。ぼくの夢はいつだって平凡だった。延々友達とサッカーをしているような、平凡な。でも、船の内部は、ぼくが走ってきた廊下よりも奇妙奇天烈だった。
白い廊下が曲がりくねっている。ドアが、外と同じくめちゃくちゃなデザインと配置で並んでいる。灯りがついている。ただし薄暗い。人間の小さな体が白い像になったかのような突起が、背中で灯りを守っている。見ると一つ一つ顔が違う。まるで生きていたかのような個性。
「わたしね、繭子」
最初の女が振り向いて言った。
「わたしは絹子よ。わたしたち姉妹なの」
二人目の女が言う。似ていないので「似ていますね」とも言えず、ぼくは早速言葉に窮した。本来ぼくは口下手で、大人のきれいな女性の部屋に招かれるタイプでもないのだ。
あ、どちらが姉か訊けばいいんだ――。
そう思ったときには二人の女は前を向き、黙々と蛇の体内のような廊下を歩いていた。唇を噛む。この調子だと、二人の部屋に行くのは気づまりだ。
二人の女は壁が切れた部分に吸い込まれていった。どうやら階段のようだ。ぼくはそれに従って降りる。階段はくるくるとらせんを描いているが、どうもおかしい。各階の同じ位置に出口がない。踊り場のようなものがあって、らせん階段はMの字を描いたりらせんを大きくしたりする。これでは目的の場所がわからなくなってしまうのではないか。そう思っていると、二人は一番下の階に着き、すたすたと歩いていく。ホールのようになったそこは、たくさんのドアや階段に繋がっている。ここもやはり白い。横に広がるいくつかの両開きのガラス戸の向こうに、先程見た一番広いデッキが見えた。ホールはラウンジのような使い方がしてあって、ソファーや椅子や机が自由奔放に並び、無人のカウンターでは外国人が一人で酒を飲んでいた。あとは夢遊病者のような目つきの金髪やこげ茶色の肌の人たちがうろついているだけだ。
何だか冷や汗が出て来た。このままこの女たちから離れて逃げてしまおうか。ぼくの部屋があるあの場所に。三毛だって帰ってくる。そこで寝ていれば目覚めたときには元通り、現実の世界に戻っているのでは?
そう思った瞬間、女たちがぼくを見た。微笑み、指さした先にはまたドアだ。廊下に繋がっているのか、人が出入りするたびにさっき見たような混沌とした廊下が覗き見える。うんざりだった。
「あの、ぼく……」
絹子のベージュの帯に向かって話しかけたときだった。また別の女が、嬉しくてたまらないような笑みを浮かべてドアから出て来た。三毛を抱いて。三毛はまるでその女の猫であるかのようにぼくを見ずに澄ましている。
「あ、三毛!」
ぼくは思わず大声を上げた。きゃっと叫んだその中年の女は、走り出した。ぼくも急いで追いかける。
「待ってください、その猫ぼくの猫なんです」
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