(5) フレア、ペースを上げず

 

 ―― 壁が2つある。

 

 マルクは思う。

 

 勝つには、勝ちきるには、壁が2つあるのだ。

 

 1つは当然、フレアの壁だ。フレアに追いつかなければ、勝てない。

 

 そしてもう1つの壁を感じる。

 

 3番手、アルフォンソだ。

 

 あれが、上がっていくなかで壁になる。立ちはだかる。

 

 マルクは感じていた。アルフォンソがフレアでなく自分に意識を向けていることを。

 

 壁は、2枚なのだ。フレアの壁を乗り越えようとする前に、手前の壁が邪魔をする。何かしらの方法で。それが障害となり、フレアの壁に追いつく時間を削られてしまうかもしれない。

 

 ―― たったの9頭立てだが……。

 

 マルクは思う。妙に前を捌きにくいレースになってしまった、と。

 

 フレアはあっさりシクタンを交わして、2コーナーで先頭にたった。

 

 ―― そこから、どうするだろう。

 

 弥生はモニターに目をくぎ付けにして、思った。

 

 菊花賞では、向こう正面から差を広げていった。今回もそうするのか?

 

 フレアはペースを上げない。シクタンと順位を入れ替わっただけで、今度はシクタンが1馬身差でうしろに付けている。

 

 ―― 離し逃げをした方が、あの馬の良さが出ると思うんだけど……。

 

 弥生はペースを上げないフレアを不思議に思った。もしかしたら、菊花賞までの疲れがたまっているのかな。だから馬がペースを上げられないのでは? それとも古馬オープンの流れだと、飛ばすのは危険と見ているのか?

 

 弥生の疑問と、スタンドに詰めかける客たちの不安は合致していた。シクタンにぴったり追走されている状況に、薄いどよめきのようなものが起きている。意外に伸びないのではないのか、と。みんな圧勝を期待していたのだ。

 

 下層とは違い、馬主席の岡平師は南條の余裕を察知していた。

 

 分かるのだ、騎乗しているさまを見れば。腕から腿から頭から、焦りが伝わってこない。これは南條自身が意識して抑えようと思い、馬を従わせているだけにすぎない。双眼鏡越しに岡平師は、

 

「南條、余裕だな」

 

 呟いた。

 

「さすが天才ジョッキーの岡平さんだ」

 

 横の声に岡平師はびっくりして、双眼鏡をはずした。

 

「石本さんっ!」

 

「岡平先生、敵情視察ですか?」

 

 好々爺然とした笑顔で言う。昔から冗談の好きな人なのだ。

 

 岡平は大馬主の石本を当然知っているが、さほどの付き合いはない。弱小厩舎に預け、また何も意見を言わないことで知られた馬主だからだ。厩舎としては所属のジョッキーに乗せてあげたいものだからだ。それでフリーのトップジョッキーだった岡平には、ほとんど石本の馬はまわってこなかった。

 

 付き合いこそなかったが、しかし岡平はこの大馬主を尊敬していた。

 

「いや、探ったところで弱点は見つかりませんよ」

 

 岡平もつられて表情を緩めた。

 

「そんなこと言って、菊花賞では勝ったじゃないですかぁ」

 

 石本が笑顔で返し、岡平師も笑ったが、ちょっと返答に詰まった。そこに、石本がもう一言続けた。

 

「今日はフレアと南條君、ちょっと伝説を作るかもしれませんよ。のちのち、競馬ファンの語り草になるような、ね」

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