(3) エリザベス女王杯に向けて

 

 エリザベス女王杯は、以前は3歳限定で秋華賞の位置づけだった。つまりは牝馬クラシックの3冠目という意味合いのレースだったのだ。ただ複雑なことに、クラシックレースには含まれてなく、桜花賞、皐月賞、オークス、ダービー、菊花賞が5大クラシックレースだった。だから牝馬で桜花賞、オークス、エリザベス女王杯の3冠を制しても、実質的3冠馬、というケチな前置きがついた。

 

 現在のエリザベス女王杯は3歳以上であれば何歳でも出られる。特に4歳以上の、いわゆる古馬と言われる馬たちは、秋華賞がある3歳馬とちがって、ここが最大目標となる。

 

 シトリンエクレールの騎乗が決まっていた弥生は、この週をまず一つの目標にしていた。それは馬主の杭山氏にとっても同じことで、月曜、火曜、水曜と連続で電話連絡があった。

 

 木曜の追いきり後にも連絡があった。栗東での調教だったのだが、まぁまぁのタイムが出たという。

 

「前走と同じくらいの調子は保てるんじゃないかな。エクレはこのあと休ませるから、思い切り乗ってや」

 

 杭山氏はなんとなく上気した口調で言った。大馬主の杭山氏だが、GⅠ馬の輩出は久々だったのだ。

 

 それと同時に、フォックストロットからも連絡が入る。ただこちらは、エクレよりもタイムシーフの状態を聞くばかりだ。空智嬢の身体を借りている立場上、おじいさんに付き合って関西詰めになっているからだ。

 

「どう、まだ不調を表に出さない? なにか変化はない?」

 

 2人とも、不調を口に出すなんてことは絶対しないと分かっている。

 

「はい。変化なしです。ムリして強がっているのかもしれませんが」

 

「とにかく、ちょっとでもおかしなことがあったら知らせてちょうだい」

  

「分かりました。それで、あの……」

 

 いつもは短く切られる2人の電話だが、この日は弥生が止めた。

 

「なに?」

 

「エクレールは、また逃げの手を打った方がいいでしょうか?」

 

「えっ、うーん、そうねぇ……」

 

 そんなこと自分で考えなさいと突き放されるかと思ったが、意外にも、話に乗ってくれそうな雰囲気だった。

 

「どう、でしょうか?」

 

 おそるおそる聞く。

 

「前回は意表をつけたから、あのスタートで付けた差が大きかったわね。フレアみたいな能力の優れた馬じゃないから、みんなが、あいつは逃げるぞって承知してたらむずかしいわね。今回はマルクもアルフォンソも眼中に入れるだろうし。彼らは同じ失敗を2度しないジョッキーよ」

 

「じゃあ、抑えた方がいいでしょうかね?」

 

「その方が目標にはされないけど、直線ヨーイドンで勝負できる馬ではないわね」

 

 フォックストロットがはっきりと言う。

  

「ですよねぇ。じゃあ、3コーナーまで馬群で気配を消して、直線でポーンと出し抜けしてみたら?」

 

「いちばん結果を残せそうな構想ね。でもあなたにそんなことできる騎乗技術があるかしら?」

 

 フォックストロットが、さらにはっきり言う。

 

「ぐっ……」

 

「まぁ自分でいろいろ考えて乗りなさい。前走はフロックだってみんなも思ってるでしょうから、人気だって上がらないだろうし。とにかく私は、1回はGⅠ好走のチャンスを与えたんだから。あのレベルの馬で2つも勲章獲ろうってのはムシのいい考えよ。はっきり言って、よほど運に恵まれるか、よほど好騎乗するかでもしない限り、今回はむずかしいわね」

 

「そんなぁ」

 

 弥生は梯子をはずされたような感じだった。トキノザッセンの騎乗依頼を断って、エクレールに乗るというのに。

 

「それよりタイムシーフのチェックを怠らないでね。じゃあね」

 

 そう言ってフォックストロットは電話を切った。

 

 ―― あのキツネ女……。

 

 弥生は、通話が切れて待ち受け画面に戻ったiPhoneを睨みつけた。

 

 その待ち受けは、タイムシーフの画像になっている。弥生の表情はしぜんに和らいでいった。

 

 和らぐと同時に、複雑な気持ちも沸き上がってくる。おとうさんと一緒に、あの独特の雰囲気を醸し出すジャパンカップに出てみたい。その思いが強い一方、おとうさんに無理をしてほしくないという思いも強い。両方の思いが心の中で綱引きしていた。

 

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