#25

「み゛ゃ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぉ゛ぉ゛う゛~ッ!!」


 ミュールが蓋を持ち上げる直前のこと、突如その蓋が勢い良く飛び上がり彼女の両手の間をすり抜けていった。宙を舞った蓋はミュールの頭の上を飛び越えて、唖然として口を開けたまま、なんならば浮かべた笑顔のそのまま固まったのミュールの目の前に現れたのは奇声を上げながら両手を万歳した猫似の獣人、イヨだった。


 そのままの時間が数秒続く。沈黙が降り、ミュールは以前として万歳してこちらも固まるイヨを見詰めていた。


 白目を剥いていたイヨの両目のまぶたから瞳が降りてくると、その瞳の中の時間帯的に丸く広がった瞳孔が両方ぎょろりとミュールを見詰める。ここまでは予定通りの筈、予定と違うのは一つだけ。イヨは万歳を下ろしてジーンズとの間に差し込んだマイクを手に取り、それをそっとミュールの口元へと寄せ、訊いた。


「驚いた?」


 ミュールは答えない。しかし硬直からは解かれたのだろう、表情は色を失い、そっと首を傾げるとイヨの背後に居るウォーヘッドにその冷ややかな深紅の瞳を向ける。だがそこへイヨの手にしたマイクが彼女を追い掛けて再びその口元へ。そして。


「お・ど・ろ・い・た・?」


 再び問い掛けられたその言葉にミュールが遂に苛立ちを覚えると彼女はイヨの手から、もしくは前脚からマイクを引っ掻くり自ずと口元に寄せて驚かないと一言。それもとても詰まらなそうな、それでいて悲しそうな、つまりは期待を裏切られた上にそれを茶化されたことに酷く憤慨した表情をした顔をして。


 しかしそれを聞いてイヨもまた詰まらなそうな顔をして、今度は彼女の手からマイクを引っ掻くり返すと何故驚かないのかと逆切れする。


 そんな事決まっているではないかとミュールがまたイヨからマイクを奪い取ると口にして、更に続けた。


「私が見たかったのは子猫なの! ちいさくてふわふわで、よちよち歩くとってもかわいいキティちゃんなの!! なのにどうして出てきたのがヤニ臭いオヤジみたいな猫……なのかもわかんないヤツなのに喜べるのよ!?」


「ミュール、言葉遣いを……」


「ヤニ臭いわけねえだろ、俺が吸ってんのはマタタビなんだからな。それよりオヤジ臭いってのはどういう意味だ!? 俺だって毎日日向ぼっこして体中お日様の香りよ!! それに俺の愛らしさはお袋のお袋から産まれた頃と何ら一ミクロンも変わっちゃいねえ、クレイジーさもな!! こちとら産まれた瞬間から奇妙奇天烈摩訶不思議、ネズ公とは仲良く喧嘩ばかりでえ!!」


「クレイジーキャット、お前は何を言っている……」


 ぎゃあぎゃあにゃあにゃあと交互にマイクを取り合いながらなじり合う二人と、それらの間にしかし入る事も止めることも出来ないでいるウォーヘッド。


 彼はイヨに協力を取り付ける為に彼の提案したサプライズを受け入れはしたが、よもやこうも酷い状況に陥る事までは予想しない、出来ないでいた。だがよくよく考えてみれば必然の様な気もして、ミュールに対する罪悪感に耐え切れなくなり腰を上げようとするがそこへとイヨが放り投げたマイクがやって来て彼はそれを受け止める為に動きを止める。


 見てみると言い争い中の筈のイヨが彼を見て一つウインクをして見せていた。まさか更に酷い状況に陥りはしないだろうかとウォーヘッドは警戒する。そしてイヨの発言の番が巡る。


「いいぜ、この不愛想のガキをWowと驚かせてやる」


「わーお、それほんと? よくもそんなことが言えたわね。その事が驚きよ。言っておくけどできなければその時は」


 じゃん! と、そしてミュールの皮肉を遮って箱の中へと両手を突っ込んでいたイヨがそれを持ち上げると、共に現れたものを前にしてミュールの表情が一変。目を見開き顎が外れたかのように開いた口を隠すか塞ぐように両手を口元に押し付け、しかし言葉を失ってしまう。


 辛うじて発された言葉と言えばOh my Godとそればかり繰り返し口にしながら、彼女は目の前に居るそれを見詰めた。


 イヨの手にすら隠れてしまいそうなほど小さな体。綿毛のように細かく柔らかく、まだ毛並みすら整わないその体毛はちょっとした微風にも揺れてしまう。くりくりした両目を不安そうに見開いて、その両耳は忙しなく右往左往。何処を見れば良いのかも分からないのか首を頻りにあちらこちらへと向けるその生物は紛れもない、ミュールが欲していた子猫そのものであった。


 シルバークラシックタビーを反転させたような黒に銀の模様が入った子猫。それを前にして肩を震わせ、神様神様と繰り返し呟くミュールはその手を子猫へと伸ばす。普段であれば意地悪の一つでもしてイヨは彼女の手を避けるのだが、今回に限っては空気を読みミュールの手に子猫を渡した。


 恐る恐る子猫の両脇を持ち、しかし扱い方に戸惑うミュールにイヨは猫の抱っこの仕方を教えてやる。すると彼女はすぐにそれを実践し、両腕の中に子猫を包み、きゅっと緩く抱き締めると柔らかい子猫の毛へと頬を寄せた。


 子猫は訳もわからず困った様子であったが、件のミュールはご満悦。ウォーヘッドと半身を箱に入れたままのイヨは互いに見合い、ウォーヘッドは何はともあれサプライズ成功の安堵とミュールが喜んでくれたことに頬を緩め。イヨは親子して世話が焼けると呆れた笑みをそれぞれ向かい合わせにする。


 そこへミュールがこの子猫は何処からやって来たのかと、どういう猫なのかと訊ねるとまずはイヨが口を開いた。


「この世には不幸な猫たちが大勢いるもんだ。当然全部は救えねえが、そのガキはそん中でも本当にラッキーなヤロウっつーとこ。ちなみに雑種だな」


「……すまないな、ミュール。ペットショップから見付けてくることも考えたんだが、シェルターでの話を思い出してしまって。スコティッシュフォールドとか、エキゾチックショートヘアが良かったんだろうが……」


 エキゾチックショートヘアの名称がウォーヘッドの口から出た瞬間イヨが吹き出し、”スパイク”と同じ趣味なのかと彼を茶化す。それの頭をウォーヘッドは押さえ付けて箱の中へと押し戻しながら、元々はショップから血統書付きのものを選ぶつもりでいた事。しかしそうする直前に以前テレビ番組で紹介されていたシェルター、つまり保健所の実態を思い出し考え直した事などを説明し、再度ミュールに彼女の意見を聞かなかったことをウォーヘッドは謝罪した。


 しかし当のミュールは彼の謝罪に対して首を振ると、嬉し涙の滲んだ両目でウォーヘッドを見上げ、顔のすぐ横、頬と触れ合う位置まで抱いた子猫を持ち上げると口の両端を目一杯伸ばして引き上げ笑みを浮かべる。


「血統書とかそんな事どうでもいいよ、私ね、この子で良かった! ありがとう、パパっ! もちろんイヨもっ」


 そう言って駆け寄ったミュールは、それを見て体を傾け自らの頬を差し出したイヨのその頬へとキスを一つ。次いで彼の入る箱を回り込み背後のウォーヘッドへと駆け寄り、膝を折って上体を低く屈ませたことによって降りてきた彼の頬にもキスをする。


「んじゃあ後日改めて病院でそいつ見てもらうとして、必要なもんは一通りこの通り。後大切なのは……」


 箱の中にはイヨと子猫の他にも餌やトイレ、トイレに入れる砂など入っており、イヨはそれらをウォーヘッドと共に引っ張り出しながら指折り必要なことを口に出して行く。そして最後に一つ思い当たると、それはウォーヘッドが口に出した。


「名前だな。大切な家族にはちゃんとした名前が必要だ。実は幾つか決めてある。ミカエル、ガブリエル、ラファエル……」


「詰まんねえな、優等生」


「エンジェルなのはまちがいないけど、何かかわいくない」


 右手の指を一つ一つ折りながら考えてきたという子猫の名前候補を口にして行くウォーヘッドであったが、いつの間にか箱を離れ酒の無いこの家の冷蔵庫から代わりにソーダを取り出し、それを咥えながらのイヨがいかにも詰まらないとそう書かれているような顔で以て彼の案をミュールと共に実質却下する。


 今まさに四本目、薬指を曲げようとして固まるウォーヘッドを他所目に、今度はミュールがその腕の中で垂れ下がった彼女の髪の毛を掴まえようと前足を忙しなく動かしている件の子猫を見詰め、するとはっとしたように両目を見開くと花の咲いたような笑顔を二人の前に向けた。


「私決めたわ、この子の名前! ここのところにドクロみたいな模様があるでしょう? ね、だからね、この子は今日から……」


 ミュールが示したのは子猫の喉元より少し下、胸と言って差し支えない位置にある、他の渦巻き模様とは少し違った模様。彼女の言う通りそれはどくろのように見える。


 ここで平静を欠いたのは何故かイヨで、彼は頻りに彼女にそれは止めた方が良いと告げるのだが、ミュールは聞く耳を持たない。そしてウォーヘッドが興味あり気に彼女にイヨに遮られた言葉の続きを促すと、イヨは己の顔を片手で覆いながら箱へと戻り蓋を探し始める。ミュールは続けた。


「この子はね――”パニッシャー”!!」


 そしてイヨを呼ぶ低いウォーヘッドの声と、それに応えない箱の中に籠ったイヨ。二人の攻防は暫く続く事となった。もちろん、ウォーヘッドが禁止している過激な描写を含んだコミックをイヨが勝手にミュールに見せていたからだ。


 何故イヨがミュールにその様なコミックを見せたのか。実はそれは以前ウォーヘッドが熱心にそのキャラクターが活躍するコミックを読んでいたのを彼が知っていたからである。共通の話題を持たせてやろうというのが目的だとイヨは言うが、その実はそんなコミックを父であるウォーヘッドが好きだと知った時の娘であるミュールの反応が見たかっただけ。


 その時に奢った口封じの為の三段重ね超豪華ぱちぱちパウダー付きアイスクリームの効果たるや、どくろをその胸毛に頂いた子猫のキュートな処刑人パワーの前には無力であった。


「……せめてフランクにしなさい」


「結局パニッシャーじゃねえかよ……ふぎゃっ……それにその猫はメスだ馬鹿ども!!」

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