2)九尾の盟約と「にえ姫」

九尾の盟約と「にえ姫」(1)

 人間がよく「狐につままれた」と言うけれど、今の壬がまさにその状態だった。突然現れた鬼の少女、お互いにどうでもいいことを話しただけで、壬の名前を聞くなりあっという間にどこかへ去ってしまった。結局、彼女はなんだったのか。


「くそ、腹減った」


 残されたものと言えば、コンビニおにぎりのゴミと自身の空腹のみだ。壬は、途中にある荻原おぎはら商店でパンを買って食べてから帰ることにした。

 商店に行くと、顔なじみのおばちゃんが出てきて壬はほっとした。なんとなく伊万里との時間が嘘のようで、壬はようやく現実に戻ってきたような気持ちになった。


 それから、壬は店前のベンチでパンを食べ、そこに集まった近所の小学生たちの遊び相手をし、帰りすがら彼らを家に送り届けた。自分の家にたどり着いた頃には、すっかり夕方になっていた。


(すっかり遅くなっちまったな。圭も帰ってきてるかな)


 そう思いながら壬は玄関の戸をがらりと開けた。


「ただいまー」


 壬の家は広い。ほぼ屋敷と言ってしまってもいい。本家ともなれば、何か事があるごとに大勢の狐が集う。宴会も開ける大広間もあるし、洋風な応接間から、純和風の書院まで、急な来客にも困らない。当然ながら玄関も無駄に広いのだが、今日はその玄関にいくつもの靴が並んでいた。

 圭の靴、なぜか千尋の靴、この二つは見覚えがあるのですぐに分かった。それ以外に、大人の男物の靴が三つ。


(誰か来てるのか?)


 そう思いながら靴を脱いでいると、奥から制服姿のままの圭が出てきた。


「壬、どこに行ってたんだよ」


 開口一番、圭が言った。壬はその質問には答えず、圭に尋ねた。


「誰か来ているのか?それに、千尋までなんでいるんだ?」

「ランチのあとに千尋とブラブラしてたら電話がかかってきてさ。母さん、壬にもかけたって言ってたけど」

「そうなの?」

「ちなみに、俺も三回くらい電話した」


 圭に言われて後ろポケットのスマホを確かめてみると着信が四件入っていた。


「あ、ホントだ」

「それで、千尋も一緒に連れてこいって言うから……」

「なんで?」


 しかし、圭は首を傾げて難しい顔をした。


「それが、よく分からないんだけど、みんな集まってて」

「みんなって誰?」

「見れば分かるよ」


 玄関からぐるりと外回りの廊下を回って、ちょうど二人は居間に着いた。圭が障子戸を開けた。


「おまたせ。壬が帰ってきたよ」


 クーラーの冷気がすっと足下をすり抜けるのを感じた。壬が部屋の中を見ると、そこには、父親のまもる稲山いなやまの大叔父、剣術の師匠である猿師えんし、千尋の兄であるたちばな和真かずま、最後に千尋が座卓を囲んで座っていた。


「おう、久しぶりだな。相変わらずそっくりだな二人とも」


 強面こわおもての男が大声でアハハと笑った。となりの稲山に住んでいる大叔父だ。

 本家の伏宮から言えば分家筋となる狐であるが、並外れた霊力を持っており、一族の中では最年長の一〇五歳だった。普通の狐である父親の護も頭が上がらず、壬はどちらが本家なのか分からないと思うことがよくあった。伏見谷ふしみだにのみんなからも「大狐おおぎつね」とか「大叔父」と呼ばれ、慕われていた。


「それより、さっそくですが本題に入りますか」


 次に穏やかな声でそう言ったのは千尋の兄・和真だ。和真は御前みさき神社の跡取りで、今は大学生だが家で宮司見習いのような事をやっている。いつも元気な妹とは正反対で、静かで穏やかな人だった。


 そして、その隣に座っている細面で細目の男が「猿師えんし」と谷の狐から敬われている妖猿である。

 猿師は月に数回、壬と圭に剣術を教えに来てくれている。あの稲山の大叔父でさえも猿師の弟子だ。年齢は三百歳を超え、伏見谷で最古参と言われるあやかしである。壬たちは「百日紅さるすべり先生」と呼んでいた。


「圭、壬、こっちに座れ」


 猿師は立ち上がると二人に席を譲った。さすがにこれだけの人数だと全員で座卓を囲むこともできないからだ。そして猿師は、圭と壬が座り終えるのを確認してから護に言った。


「伏宮の、はじめてくれ」


 護は静かに頷くと、圭と壬、そして千尋を見た。


「圭、壬、そして千尋ちゃん、急にすまない。ちょっと大事な話があってね。驚かずに聞いて欲しい」


 三人はお互いに目配せしながら頷いた。その時、庭先から子狐の鳴き声が聞こえた。


「ん? もう着いたのか」

 護が少し驚いたように中腰になった。

「待て」


 稲山の大叔父が、そんな父親を片手で止めて立ち上がると障子戸を開けた。庭に大叔父の遣い狐の鈴太郎がちょこんと座っていた。


「あさ美さんも手が放せんだろうから、儂が出よう。おまえさんは先生と一緒に子どもたちに話を」

「分かった。勝二かつじ叔父、お願いできるか」

「もちろん」


 軽く頷いて大叔父は、緊張した面持ちで部屋から出て行った。


(なんだ、この仰々しさ。いったい何だっていうんだ)


 壬は普通でない皆の様子に、ただならぬものを感じた。それは圭も千尋も同じだった。壬の横で圭が少しイライラとした口調で言った。


「父さん、さっきから何なの?母さんは蔵から古い食器を持ってきて、台所でずっとなんかやってるし」

「ああ、すまん。驚かずに聞いて欲しいんだが…」


 そこまで言って護がひと呼吸置く。そして、彼は落ち着いた声で言った。


「実は、うちにとある姫が輿入こしいれされることになった」

「………………は?」


 壬、圭、千尋の三人が同時に眉根を寄せた。そして、三人はしばらく考え込んだあと、同時に言った。


「ごめん、もう一回言って」


 護が気まずそうに笑う。


「いやー、驚くとは思ってたんだけど……。じゃあ、分かりやすく、もう一回言うぞ。ぶっちゃけた話、うちにお嫁さんがくる」

「……」


 再び、沈黙。

 ややして、またしても三人が同時に言った。


「誰の?」


 ますます護がきまり悪く子どもたちから目をそらした。


「それがなー、分からなくて困ってるんだわ」

「おい、親父。ふざけたことを言ってないで、ちゃんと説明しろ」


 壬がぎろりと護を睨んだ。

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