11

 叫んだキアノスは、突然異常なほどの寒気を背筋に感じ、足が凍りついた。正面に捉えていたはずの気配が、消えている。

 次の瞬間、二本の腕が背後の闇から伸びた。

「……うっ」

 応戦する間も与えず、片方はキアノスの左腕を捻り上げ、もう片方が顔に巻きつく形で口を塞ぐ。

「…………!!」

 キアノスは心臓が喉元まで跳ね上がったように感じた。必死にこの状況から逃れようともがくが、魔術に必要な《触媒》を持つ手元、呪を唱える口が的確に封じられている。何とか身じろぎして活路を見いだそうとするが、相手の腕は細いながらに強靭で、キアノスの自由をがっちりと奪ったまま離さない。鼻の下から顎までを、相手の着ている服らしい柔らかい厚手の布が塞ぐ。

 その時、首を絞められていないことに気づきキアノスは集中力を取り戻した。

 暴れる心臓を押さえつけるように意識して自制心を取り戻すと、学院で習った近接戦法を思い出す。

 僅かに自由が利く右腕の脇を締め、掌を腰の横の高さで上に向ける。そして指先に力を込めると、僅かに反動をつけて真後ろへ強烈な肘打ちを食らわした。

「……!?」

 しかし、相手の脇腹に当たるはずの肘には手応えがない。そればかりか左肩に重い衝撃を感じ、キアノスは思わず腰を落とした。謎の相手は一瞬で拘束を解くとキアノスの肩に片手を当て、そこを支点として足を跳ね上げ、あり得ない身軽さでキアノスの頭上を舞ったのだ。

「…………!」

 キアノスの視線の先、胸ほどの高さのレンガ塀に微かな足音と共に降り立つ影。その後ろ姿を確認しつつ、キアノスはばっと飛びのいて距離をとり、身構える。

 そして、息を飲み、言葉を失った。


 幅の狭いレンガ塀の上で危なげなく振り向いたのは、漆黒のローブ、漆黒の髪、白い顔の男だった。七分にまくった袖からはやはり白い腕がのぞき、手には指を切った黒い手袋を嵌め、猛禽のような剣呑な目つきがキアノスを睨み見下ろしている。

 キアノスの背後に浮かぶ頼りない明かりに照らされ、塀の上の男は鋭い吊り目を僅かに細めた。

 口が歪み、囁き声が漏れる。

「オイオイ……こっちが静かに話しかけようとしてんだ、ちっとは察しろよ」

 そのゆっくりとした低い声に反比例するように、キアノスの鼓動は速く、高くなっていく。肺を握り潰されているように、息が苦しい。

 キアノスは、それに抗い無理矢理に声を絞り出した。

「く、黒い、殺人鬼か」

「……あンだそりゃ?」

「“黒い翼持つ殺人鬼”っていうのは、お前か!」

 男は、掠れ声を聞いてにやりと笑う。そして塀の上でしゃがみ、キアノスに抉るような視線を送った。

「てめぇが何を吹き込まれたか知らねぇが、俺はタダの賞金稼ぎよ」

 その口元から肉食獣のような牙がのぞいたような気さえし、キアノスはその悪魔のような風貌に戦慄した。

「てめぇに一つ忠告してやる。あのロスミーって野郎を信じるな、アイツは元々レントラックのハンター連中からこぞって追われ……っつーか俺が追ってた男でな」

 その時、緊張感を孕んだ声が建物の向こうから響いた。

「新人君、明かりが消えたぞ! どこだ!? 何かあったのか!」

 ロスミーの声を聞き、塀の上の男は口元の笑いを消した。不機嫌そうな殺気立った顔で言葉を継ぐ。

「あの野郎をとっ捕まえて中央に突き出すんなら、同業の誼で手伝ってやってもいいぜ。いい儲け話だ、考えとけよ」

 キアノスは呪縛されたように固まっていた。左手も自由になり、いつでも用意していた魔術を発動させられたはずなのに、微動だにできなかったのだ。

 目を見開いたまま瞬きすらできないキアノスを見やると、男は再び口の端を吊り上げ、軽く塀を蹴って暗闇へと消えていった。


 ぼんやりと建物から漏れる明かりが、キアノスの視界に入ってくる。それに気づくのを待っていたかのように、辺りに満ちていた重苦しい空気が散っていく。

(同業ってことは……やはり魔術師か! ってことは……今の闇が丸ごと彼の魔力カウェルの色か!? な、何て圧倒的なんだ……!)

 キアノスは、初めて出会った、学院の生徒でも教官でもない本物の「魔術師」という存在に激しく動揺していた。

 ロスミーと合流した後、なぜかキアノスは謎の男について詳しく話せなかったし、動揺を悟られまいとすることに必死だった。

 そのままロスミーと共に町を一周したキアノスは、眠れぬまま朝を迎えたのだった。

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