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 代金後払いという約束を律儀にして、キアノスは学院を出てから初めてまともな食事をとった。

 とはいえ、まだ体のあちこちに痛みが走り、集中力も散漫になっている状態である。柔らかいパンをスープに浸して食べるだけで精一杯だったのだが。

 腹に物が入り一息ついたところで……というより、ゆっくりと辺りを見回す心の余裕ができて初めて、キアノスはディナの姿が見えないことに気がついた。それどころか、100歩先からでも聞こえそうなあの高い声もしない。

 卒業試験の日の遭遇から先ほどまでのことを思い返し、キアノスは酒場のカウンターの奥にいる女主人に声をかけた。

「あの、えーと……お姉さん、ちょっと聞きたいことが……」

「お姉さんはやめておくれよ、あんたまで町のバカどもにつきあうことないよ。あたしのことはネーサと呼んどくれ。まあ、どう呼んでもネーさん、なんだけどね!」

 あっはっは、と笑い、からかわれていたと気づいたキアノスは顔から火が出る思いをして身を縮める。

「ネ、ネーサささん、ディナは……さ、さっきの赤いローブの女の子……」

 動揺して舌が回らないが、場を取り繕うために言葉をつなぐ。

 ディナがいなくなっても、別段困るわけではなかった。だが、別の意味で困る人が出てくることは、容易に想像できる。

 町の人々だ。

 ディナは確実に騒ぎを起こし、迷惑をかけるに違いない。何よりキアノスの脳裏には、昨日シウルに言われた言葉が去来していた。

(《はぐれ魔術師》な僕だけでも同窓の恥なんだとすると、まあ残念なんだけど、これ以上学院の評判を落としたくないしなぁ……)

 そんなことを考えていると、カウンターの奥から返事が聞こえる。

「ああ、彼女! 宿部屋の廊下を掃除中だね。それが終わったら今度は酒場の裏方仕事をやってもらうよ」

「そうですか……」

 曖昧な答えを返しながら、キアノスはネーサと目を合わせないようにカウンターの横の棚に顔を向けた。

 並ぶ酒やグラスに混じって置いてある野草の瓶に目が留まる。料理の香味料として使うのだろうが、薬草や《魔力媒体カタリスト》として重宝するものも多数あるようだ。

 一方棚の上の、手が届かなさそうな段には、見たこともない動物の骨らしきものが飾ってある。見たところ小型の肉食獣のようだが、一緒に飾ってある異常に長く細い一対の骨が妙に印象的だ。

「……なんだい、気になるのかい?」

 ネーサに声をかけられ、キアノスは骨から薬草に目線を下げながら答える。

「ええ、ちょっと」

 すると、奥から顔を出したネーサはポンと手を打ち、一段高く声を張った。

「そんなに気になるんなら、せっかくだからお前さんも一緒に働けばいいさ! 今夜は賑やかになるねぇ、ま、仲・良・く、ね!!」

「えっ!? な、何の話ですか!?」

「何じゃないよ、酒場の裏方仕事さあ! 強がってるけど、あの子もひとりじゃ不安だろ。手伝っておあげよ」

 意味深な流し目で言うネーサに何か大変な勘違いをされている、と気づいた頃には、キアノスは肉厚な掌に両肩を包まれ、グイグイとカウンターの奥に押し込まれていたのだった。


 店の奥には調理場があり、倉庫が隣接している。

 キアノスが言われるままに倉庫に入ると、食材や道具類の並ぶ棚が左右にそびえ、その間にあるらしき通路は体を斜めにしないと通れないほど狭かった。

 ネーサに押しつけられた書き付けにある調味料を、やはり押し付けられた籠に入れながら、キアノスは暗い倉庫を奥へ奥へと進む。

 そして行き止まりの壁にたどり着くとそこには扉があり、その脇には出窓があった。

 窓の外では日が沈んだばかりの夕闇が辺りを包んでいる。どうやらこの扉は店の裏口らしい。

 キアノスは扉の前の少し広くなった空間で背伸びをし、体を捻って軽く動かすと、籠の中身を整頓して再び倉庫の中へと引き返した。

 調理場への扉を開けると、ぶすっとした顔のディナが床掃除をしているところだった。

「あ、ネーサさん……調味料」

 キアノスが差し出した籠をちらりと見て、調理を待つ食材を次々と台に放りながらネーサが感嘆した。

「やっぱり魔術師さんは違うねえ、ラベルのないヤツも多かったろうに……学院では香草やスパイスの勉強もするのかい?」

「いえ、大体の草花には薬草としての効果もありますし……それに、世界のあらゆる物を知って覚えたくなるのは魔術師の癖ですから」

 笑って答えると足元からディナが「ふーん」と応じたので、キアノスは笑顔がひび割れるのを感じたが、努めて無言で籠に目を戻した。

 正確に言うと、全ての動植物には多かれ少なかれ魔力カウェルが宿り、中には独自の色を帯びるものさえある。動植物どころか、鉱物や金属にも強い力を発するものがあるのだ。

 魔術師というのは、自他の魔力を知り、操り、術として編み上げる知識と技術を持つ者を指し、熟練すれば魔力の色を見抜いてその本質を判断できる。その動植物が何という名前かすら知らないのに、魔力の感じ方によって使い道を見分けられる魔術師もいるくらいだ。

 しかし、キアノスはそれを特にネーサに解説するつもりはなかった。

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