巨大な門の下をくぐる三つの影が、外の街道へと歩み出て姿を消した。それを見届けたキアノスはガックリと膝をつき、大きく息を吐いた。

 《共有魔術》を紡ぐのに《触媒》は使い果たし、ベルトの皮袋は大概空だ。なのに、全く軽くなったようには感じない。幅広のズボンは草の汁や枯葉や土で汚れている。右腕の傷が思い出したように痛み、キアノスは顔をしかめた。ベルトに挟んだままだったローブの裾を左手だけでぎこちなく引っ張り出し、ゴミを払い落とした。

 正式な魔術師は、ローブの色にかかわらず「最低でも手首・足首まで」の「卒業時に決められた色の布」を常用することが魔術師協会の規定により決められている。

 キアノスのローブは臍の辺りから裾まで真っ直ぐ裁断してあり、膝の裏側からもスリットが入っている。下に穿いているズボンの動きを妨げないようになっているのだ。袖にも肘から袖まで切り込みが入り、腕を自由に動かせつつ空気が通りやすいようになっている。

 それでも、ボロ布のような今の体には、袖や裾が鉄塊にも匹敵する重さに思えた。

 ふと見上げると、春の訪れを告げる明るい星が天高く昇っている。キアノスは慌てて門に向かった。


 草や木の根に足をとられよろめきながら門の礎の前まで辿り着くと、その重厚な土台と遥か上空に向かって聳え立つ門を感嘆の目で見上げる。

 許されるならここで夜明けまで過ごし、レインバストの紋章や森の出入り口を隠す高度な“呪”がびっしりと刻まれた門が陽光に照らされるさまを見てみたかった。

 門は無言の存在感をもってキアノスのいる空間を額縁のように切り取っていたが、やがて、地響きのような低音を轟かせて動き始めた。

 旅立ちの刻限が来たのだ。

 キアノスは振り向くと、森の向こうにあるであろうレインバストの学舎に向けて深々と一礼した。

 森の外を見ると、両開きの扉が左右から包み込むようにゆっくりと迫ってくる。

 キアノスは、顔面から目の前の草地に突っ込んでしまいそうな体を引きずってよろよろと歩を進めた。

 完全に門を抜けてしまうと、再び振り向いて尻餅をつき座り込む。

 門が閉ざされ、ひとりでに錠がおりて、魔術によってもたらされる次元の歪みに姿を消す、それを自らの目で見ようと決めていたのだ。


 扉は既に半ばにさしかかり、門の向こう側の木々の姿が揺らめき始める。招かれざる者を敷地に入れないための、レインバスト魔術学院の防衛機能が発動したのだ。

 これで、もうここに戻ってくることはできない。

 入学してから一歩も出ることのなかった……いや、出ることを許されなかった学院に、とうとう別れを告げるのだ。

 キアノスは4年間の学院生活に思いを馳せ、森の空気を肺の底まで吸い込んだ。

 その時だった。

「ちょぉっと待ったーーーっ!!」

 キアノスはむせ返った。

 徐々に遠ざかっていく、扉が大地を擦る重低音。それとは明らかに異なる……そして明らかに場違いな甲高い声が、厳かな雰囲気を打ち壊してフェイド・インしてきた。

 蜃気楼のように揺らぐ森の中から、一直線に門を目指して突っ込んでくる、真紅の髪、真紅のリボン、真紅のローブ。

「待ってぇーーーーー!!!」

 キアノスは腰を浮かせた。

(ディナ、って言ったっけ!? あ、あの子……間に合わない!!)

 ディナ=ラージェスタ・セラルーテは無茶苦茶に回転させていた足を突如緩めると、遠目でもわかるほど全身で息を吸った。

 両手を天に向かって突き上げ、大きくスキップをするように軽やかに片足で前へ飛ぶと、その手を振り下ろす。

 つい先ほどのシウルと似たような動作。それも、より何気なく気負いなくなされた所作だ。

 そんな様子からは想像がつかないほどの轟音と共に、炎がディナの全身から吹き出した。

 キアノスには少なくともそう見えた。

 駆け出し魔術師としては幸か不幸か魔術を見慣れている部類のキアノスにとっても、それは度肝を抜かれる光景だった。

 横に倒して投げつけられたような火焔の竜巻は、揺らめく森の境界に炸裂した。空間がまるで水面のように波打ち、炎と混ざり合って激しく渦を巻く。学院の敷地の境界が、ディナのバカぢからと拮抗しているのだ。

 恐るべき魔力の“圧”と、熱波と、枯葉や草の焦げる臭いが塊となって吹きつけ、キアノスは戦慄した。

「エンタル・ガデルオラ(弧を描き我を守れ)!」

 反射的に左腕を大きくまわして魔力の盾を作ってから、キアノスは愕然として呼吸を忘れる。

 スケールが違いすぎるのだ。

 例えるなら、押し寄せる大津波に船が今まさに飲み込まれようとしている時に、波よけの防水マントを手におろおろ歩いているようなものだ。

(こ、こんなのアリか!? 何だよ、あれ!?)

 キアノスの視線が、自らの意思とは関係なくガクリと下へ平行移動した。魔力の盾を維持するだけの体力が失われていたのだ。

「勘弁してくれよ……」

 目が乾き、視界が霞む。

 いや、それは辺りを覆い始めた煙のためか……それとも。

「ディナ! やめてくれ! 全部燃えてしまう!!」

 キアノスは、自分の喉から飛び出た叫び声に驚いてから、唐突に、あの時と同じだと思った。

 背後には、森を拓いて作られた街道。

 このままあの炎が、森の守りの魔術を突き破ってきたら……

「ディナ! やりすぎだ!」

「これがやりすぎずにいられますかってーの! あたしはねぇ! こんな森の中で一生彷徨うなんて!!」

 “呪”を唱えるでも“印”を描くでもなく、ディナは手足のように炎を操り、目の前で歪みかけている森の境界をこじ開けるべく突進した。

「まっぴらゴーメーンーー!!!」

 金切り声とともに炎はさらに膨らんだ。

 キアノスの貧弱な魔術の盾は、辺りに充満するカウェルによって、とうとう大気から追い出されて霧消した。

 肌に直に感じる、熱気と魔力。

 焼けて萎びていく木々。

 キアノスの朦朧とする意識の中に、焼けた村が鮮烈に甦る。

(ああ、やっぱりあの時と同じなんだ)

 門の扉が真っ赤を通り越して白熱に輝く。

 ディナの猛烈な力は、学院を守ってきた伝統の魔術をついに破ろうとしていた。

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