そのままどのくらい経ったのだろうか。

 やっと腰を上げたはいいものの、キアノスは心の底にまで蜘蛛の巣が張ったようなもやもやとした気分で立ち尽くしていた。

(もうこんなに日が高い……いけない、門を探さなきゃ)

 太陽の僅かな傾きから方向を導くと、俯いてのろのろと歩き始める。

 西へ、西へと行けば、理屈では森の西端に着くはずだ。しかし、魔術学院の敷地となれば話は違う。

 上級教官たちの魔術によって整えられ管理されているこの森は、「出る資格のない者」を出さず、「招かれていない者」を入れないように、森と外界の境が捻じ曲げられている。

 キアノスは、カトルールに言われるまでもなくそのことを知っていた。それでも今は歩き続けることしか思いつかず、とりあえず進んでいくよりほかなかった。


 どれほど歩いただろうか。飲まず食わずの疲労がこたえてきたキアノスの前に、少し開けた草地が現れた。

 柔らかい草が茂り、陽光が降り注いで、暖かく心地良い風がゆるい渦を巻いている。幼い頃よく聞いた伝承に出てくる、妖精たちが集うという森を思い起こす。 

 キアノスは誘われるように草地の真ん中に歩み寄り、穏やかな陽だまりに腰を下ろした。

 ふと見ると、視界の端でキラキラと光るものがある。ローブにくっついたままの魔力カウェルの蜘蛛の糸が陽光に当たり、磨かれた金属のように輝いているのだ。

 光を反射しない青いローブに、それはよく目立つ。キアノスはローブを脱ぎ、ぼんやりと糸を取りにかかった。

 繊細な糸が撚り合わされているそれは、ローブから離れたとたんキアノスの手に絡み付いて離れない。キアノスは大きく手を振ったり指で弾いたりしてみたが、見かけによらぬ頑固さで粘着してどうにもうまく取れてくれない。

 苛立ちのつのる気の晴れない作業に没頭していたキアノスだったが、前身ごろがあらかた綺麗になったところで、改めてローブを見つめた。

(深い色だ……シウルには悪いけど、僕は一人前の魔術師としてこのローブを着るつもりだ。意地でも着続けるさ。……でも)

 キアノスは空を見上げた。薄雲のたなびく空。ローブの色と対象的な明るい青。

 キアノスは大きく息を吐く。

(そういえば、僕はなぜ魔術師になろうとしたんだろう)


 ――リリィカ。


 キアノスは軽く目を閉じ、心の中で呼びかけた。

 若輩ながら村の役に立ちたいと魔術師を目指し、精神的にも金銭的にも独力でレインバスト魔術学院に入学したリリィカ。基礎科を卒業してからも、ハイ・クラスへ進むため必死に勉強していたリリィカ。

 彼女の気丈な笑顔は、業火に縁取られ煤に汚れた記憶の中でなお色褪せない。

(僕は……志半ばで死んだ彼女の遺志を引き継いだんだろうか? いや、リリィカに遺志なんか無かった。望みが……あったとすれば、生きて、村の子供たちを教え育てる先生になりたかったはずだ)

 ではなぜ、自分はそれまで敬遠していた魔術の道を志したのか。

 どうして、異端でも出来損ないでも構わないとまで思っているのか。

 刳るような胸の痛み。

 ああ、この先は深く考えたくないと、心の底がざわめいている。

(贖罪、なのか)

 あの夜、キアノスたちの生まれ育った村は炭と化した。それは事実だ。

 出稼ぎついでに隣町や山向こうの村を渡り歩いていた自分が、偶然にも災厄を免れた。それも事実だ。

 ――だからって、僕だけが生き残ったなんて言わないでください!

 レインバストの入学に際して、キアノスは面接官に食ってかかったのだ。

 ――他にも逃げ出せた人がいるかもしれないでしょう!?

(そこに甘えはなかっただろうか……)

 いくら認めたくなくても、あの惨事の謎を調べ、真相を突き止めるべき者は少なくとも自分なのだと、そろそろ自覚するべきではないか?

 キアノスはもうひとつ深くため息をつくと、ローブをひっくり返し、再び残る糸を取り始めた。

 大体、覚悟を決めたところで、誰が何のためにあんな酷い行いをしたのかキアノスには想像すらできない。それほど平和な、何の際立ったところもない村だったのである。

 何のために?

 何のために、か。

 なら、自分は何のためにこの《はぐれ色》のローブに固執しているのか。

 そこまでして魔術師たることに、どんな意味がある?

 リリィカのためか?

(……違う)

 では何なのか。

 自分を変えるため?

 悲惨な過去を封印するため?

 それとも、リリィカの愛した生まれ故郷の名誉のため?

(あの場にいて村を救いたかったとでも? あの襲い来る圧倒的な破壊に立ち向かえたはずの“力”が欲しかったとでもいうのか? ……違う、それは絶対に違う……!)

 狂おしいほどのもどかしさで、キアノスは唇を噛み締めた。

 ここで目を背けてはいけないと、柔らかい布地をきつく握り、無理矢理思考を頭に縛り付ける。

 やはり、リリィカの残像をまとって生きたかったということなのか?

 自分よりよほど村のこと、世のことを考えていた彼女の夢を継いでやれば――

(生き残ってしまった後ろめたさが紛れるとでも!?)

 心をどこかに彷徨わせたようなさまでキアノスは立ち上がり、綺麗になったローブを頭から被った。

(リリィカ、僕は魔術師になったよ。このローブにお前が生きてると言っても間違いじゃない)

 肌寒い風が、森の中から吹き出してくる。

(でも、魔術師になった僕に、『僕』はいないんだろうか……)


 キアノスは、糸が切れた操り人形のように座り込み、静かに膝を抱えた。その姿は大海に浮かぶ孤島のように頼りない。

(こんなんじゃ……これ以上シウルたちに迷惑をかける前に、ローブを捨てた方がいいのかもな……)



────────



 容赦なく時は流れていく。今日最後の陽光が背の高い木の葉叢の向こうにかかり、風が四方からキアノスを急き立てる。

 青いローブは、急速に迫る夜の中に暗く沈んだ。


 刻限は、真夜中。






<試練の森> 終

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