猟人の星

伊藤 薫

[1]

われら少数は、われら幸せなる少数は兄弟の群れである。なぜなら、私とともに血を流す者は、私の兄弟となるからである。


シェイクスピア「ヘンリー五世」より


 その日は、気温はマイナス25度。積雪は4メートル。穏やかな天候だった。

 2つの通りがまじわる交差点の周囲は、街路に降り積もった白い雪の中から、何本もの手足や頭部がひとつふたつと突き出している。灰色の雲が低く垂れこめ、そこから数キロ南の地点から砲撃の轟音と爆煙の柱がいくつも立ち上っている。

 毛布を被った男が通りに面する5階建ての共同住宅の一室で、うつぶせの姿勢を取っている。凍傷を防ぐために軟膏を顔に塗り、両手には二重に手袋をはめ、頭の大半を白いフードで包み、口と鼻をスカーフで覆っている。

 腹這いになっている男は《銀狼》と呼ばれていた。帝国軍制式のボルトアクション式ライフル―マウツェル・ゲヴェール98kに装着された4倍率のヘルソン望遠照準器を通して、ひたすら前方を見つめていた。

 母星から何万光年と離れた辺境に位置するこの星は、標準装備のレーザー小銃などの光学兵器がいっさい使用できない環境だった。吸引しても生体に害は無いが、外気に含まれるケッヘル粒子による作用によって、レーザー光線が拡散されてしまうのだという。この星を巡る戦いは敵味方どちらも、中世時代の有視界による近接戦闘を余儀なくされ、消耗戦になろうとしている。

《銀狼》は頭を小さく横に振って、雑念を頭から追い出した。自分は狙撃手であり、敵の狙撃手―《黒豹》を狩ろうとしている。今はそれが全てだ。

 連邦軍の1個連隊が2、3週間前からこの小さな町―ロヴァニエミを防衛していた。敵の中に射撃能力がきわめて高い狙撃手―《黒豹》がおり、この町ですでに17名の僚友を射殺している。《黒豹》は廃墟となったトラクター工場から狙撃していたが、おそらく今は北の共同住宅の一室を根城にしていると考えられている。

 通常は地面を這って忍び寄れば、遅かれ早かれ、狙撃銃か短機関銃を携えた敵が視界に現れる。自分は敵から見えない位置について、呼吸を整え、銃を骨で支える。照準の十字線をじっくりと相手の身体の中心に重ねあわせ、トリガーを絞る。すると、敵がよろめいて倒れる。あるいは、後ずさって倒れる。地面に倒れ込んで、埃や雪を舞い上げる。永遠の静寂が訪れる。敵が死者になったことが明白になる。感激や達成感、他者の命を奪ったことに対する衝撃。そんな感情などは何も湧かなかった。

《銀狼》の思考は途切れた。背後に、何かの気配を感じたからだった。腰に差した9ミリ拳銃を抜いて、部屋の入口に振り向いた。

 子どもが顔を覗かせていた。市街戦が行われているこの街では、共同住宅や公共施設の地下室などに逃げ遅れた家族が潜んで、生活を細々と続けている。子どもはタオルに巻かれた湯たんぽを両手で重そうに抱えていた。

「何の用だ?」《銀狼》は訊いた。

「お湯が要るかなと思って・・・お母さんに言われたんだ」

「ありがとう。悪いが、こっちまで寄こしてくれ」

 子どもが歩み寄ってくる。容姿は同じ人型であるが、地球人とは決定的に異なる点がある。青味がかった肌に薄い色素の頭髪。《銀狼》と同じ白系種のみを臣民とする帝国では、この星の人々は異系種として蔑まされる存在である。

《銀狼》はうつ伏せになったまま、湯たんぽを受け取る。階段を降りていく子どもの背中を見やった。湯たんぽを腹の下に入れて、《銀狼》は照準器に眼を戻した。

 現に今も、《銀狼》の視界にある遺体が見える。つい2日前に仕留めた兵士だ。背丈が小さく、まだ子どものように見えるが、連邦軍の恰好をしているなら敵だ。仮に少年兵だったとして、子どもまでも兵士として徴用する連邦軍の野蛮性に内心、呆れてみせる。

 だが、交差点の向こう側に潜んでいるであろう《黒豹》には、こんな風に簡単にはいかないだろう。

 現に昨日、観測兵のクルツが《黒豹》に左胸を射抜かれて重傷を負った。昼食の配給を受取ろうと、不用意に上半身を起こしたのが運のツキだった。負傷したクルツを部屋の奥に引きずりこみながら、《銀狼》は敵の狙撃手がいると思われる空間を睨んだ。

 ならば、新たな鉄則が必要になる。

 自制を保ち、身体はけっして動かさない。死んだ兵士のフリをする。上や周囲に眼を向けない。前方250メートル、左右30メートルほどの限られた範囲だけを視野に収める。もし敵がこの狭い領域に現れることがあったら、トリガーを絞る。狙撃銃の薬室にはすでに7.92ミリ弾が装填され、撃鉄は起こされている。ボルトを操作する必要はない。敵がこちらに迫っていたとしても、その照準を通して見える映像は細部がぼやけているだろう。250メートルという距離は、連邦軍制式の狙撃銃―エミル・レオンには射程が長すぎる。

 重要なのは待つこと。待って、待って、待つ。

《銀狼》は自分がなすべき仕事を完璧に組み立てていた。

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