偽怪証明
真瀬 庵
File.1 這い寄る人形
プロローグ――梅雨明けの来訪者
一週間ぶりの太陽の日差しによって、部屋は蒸していた。梅雨が明けた喜びは、初夏の熱気によって掻き消されてしまう。まだ七月に入ったばかりだというのに、気温は夏そのものであった。
汗ばんだ額に前髪を張り付かせた
画面には彼宛てに届いたメールが表示されている。ショッピングサイトの広告や怪しげな出会い系サイトからのスパムメールがほとんどであるが、一通だけ、毛色の違うものがあった。
件名に「匿名希望」とだけ記されたそのメールを残し、他はすべてゴミ箱へ移動させる。
氷波は匿名のメールを開くと、食い入るように読み始めた。
テキストだけの味気ない本文が画面いっぱいに表示されている。
氷波が真剣に読んでいる匿名メールの内容は、実話怪談――いわゆる、本当にあった怖い話である。彼が運営するウェブサイト《怪異の
しばらくメールを読み
「なんだよこれ。クーラーつけてないのか。サウナより酷いぞ」
インターホンも鳴らさずに上がり込んできた
年季の入ったジーンズとメタルバンドのロゴが入ったTシャツ。腰に巻き付けスカートのようになっているキャメル色の革ジャケット。一年を通して彼女はこの
冷たいものでも買ってきたのか、彼女の右手には水滴で濡れたレジ袋がぶらさがっていた。
「エアコンはあいにく故障中だよ。修理は来月末までおあずけだってさ」
氷波はディスプレイから顔を動かさずに答えた。その声からは覇気が一切感じられない。
「このご時世に扇風機も無しって。お前、ほんとに文明人か」
「ネット環境さえあれば生きていけるんだよ、現代人は」
引き篭もりまっしぐらだな、とため息交じりに言うと、真登佳はテーブル脇のソファーに座った。ワンルームに二人の人間がいると一気に狭苦しく感じられる。
真登佳に背を向けたまま、氷波はパソコンのディスプレイに向かい続けている。
彼女は結露まみれのレジ袋からアイスキャンディーを二つ取り出すと、一つを氷波に差し出した。
「ほれ、早く食べないと溶けてお亡くなりになるぞ」
氷波は「ん」とだけ言ってアイスを受け取る。視線はディスプレイに固定されたままだ。
「また怪談か。いい加減飽きてくるだろ」
「同じような話でも細部が違ったりするからね。都市伝説とか民間伝承みたいにある程度パターン化出来るのは否定できないけど。そういった揺らぎを楽しむって意味では落語と似ているかもしれないね」
「落語だって何回も聞いてたら飽きるっての」
「君の大好きなミステリだって型に
「ミステリなんてとっくに飽きてるよ。でも他のものが私の嗜好と合うかって言ったらそんなこともないし。仕方ないから書いてるって感じだな」
「仕方ない、か。読者が聞いたらどう思うかな……」
早くもアイスを食べ終えた真登佳はレジ袋にゴミを押し込み、だらりと立ち上がった。
氷波の背後へ移動すると前屈みになりディスプレイを覗き込む。
「で、今日のはどんな話なんだ。廃墟系、交通事故系、田舎系。それとも新手の降霊術遊びか?」
ふざけた口調で囃子立てると氷波の手からマウスを奪い、素早く画面をスクロールさせてメールの頭まで戻してしまった。
「ちょっと! まぁ、ちょうど読み終わったところだったからいいけど。内容は呪いの人形系の話だったよ」
「ていうとあれか。何度捨てても帰ってきたり、髪の毛が伸びたり、殺人鬼の魂が乗り移って動いたり」
「最後のやつは怪談とは違う気がするけど。そんな感じのよくある話だったよ」
ふんふんと言いながら、真登佳は忙しく目を動かし文章を追っていく。
「なんだかんだ言って、結局、興味があるんじゃないか」
「私が知りたいのは、それが本物の怪談なのかどうかってことだけだよ」
怪奇現象に対してどこまでも受け身な氷波と違い、真登佳は懐疑的な見方をする。このスタンスは二人が大学のオカルト研究会――通称オカ研に所属していた頃から変わっていない。
「真相が何だろうと、どうでもいいんだけどなぁ」
「どうでもよくない。もし本物の幽霊だったりしたら、怖くて夜寝られなくなるだろ」
真登佳はむっとした表情で氷波のほうを見た。彼女は怖い話が苦手であるが、これもオカ研時代からのことであった。そもそも、彼女がオカ研に入ったのも、オカルトなどこの世に存在しないことを証明するため、という極めて変わった目的からだった。
「それに、掲示板とかに書き込まれる実話怪談なんか、大体は勘違いが原因だぞ」
「大体って、それじゃあ例外もあるってこと?」
「もちろんあるよ。作り話という名の例外が」
つまり、実話怪談のうち合理的な説明がつくものは本当の体験談、説明がつかないものは作り話だと彼女は言うのだ。なんて横暴な分別方法なのだろうと氷波は思った。彼女の中には、一切の怪奇現象が入り込む隙もないのである。
もう何度目になるか、こちらもとうに暗記してしまった説明を彼女は口にする。
「現実に起きた出来事だとして、怪談は大きく二つに分けることができる。一つが、不安定な精神状態での錯覚や勘違いによる《
誤怪に偽怪。その単語を聞いた氷波の脳裏には、ある人物の名前が浮かんでいた。
――井上円了。通称「妖怪博士」。近代化の波が押し寄せた明治時代、民衆の迷信打破に努めた仏教哲学者である。彼は自身が創始した妖怪学において怪奇現象を四通りに分類しており、《誤怪》《偽怪》の他に、自然現象によって起こるものを《
怪奇現象を認めないその姿勢、同じ井上という名字。井上真登佳が彼の子孫なのではと思い、いつか本人に直接訊いたことがあるが、あっさりと否定された。本人曰く、「井上なんてありふれた名字を根拠に論理を飛躍させすぎ」だそうだ。
「なるほどな」
一通り読み終えたのか、真登佳は前屈みの姿勢を解いた。
「これ、怪談じゃないぞ」
「え?」
唐突な宣言についていけない氷波を見て、真登佳は意地悪な笑みを浮かべる。
「典型的な《偽怪》だよ。まぁ、じっくり読んで考えてみるんだな」
エアコンが直った頃にまた来る、と言い残して真登佳は帰ってしまった。
真登佳はいつもふらっと遊びに来ては、風のように去ってゆく。気まぐれな猫のような彼女が氷波の家を訪れる理由はよく分からない。大方、昨日見たホラー映画が怖すぎて家に一人で居たくないだとか、そんなところだろう。
寂しくなった室内に、落ちかけた西日だけが薄らと残る。涼しい風が微かに吹き込んできた。もうじき夜が来る。
束の間、氷波の意識は遠くへ行っていた。はっとしたように現実へと焦点を合わせる。
どうしてこの怪談が人為的に引き起こされた《偽怪|》だと言い切れるのか。
怪談をじっくりと読むことでそれが分かるのか。
怪談の中に何か手掛かりが、怪談ではないと証明できる証拠のようなものが存在するというのか。
すっかり暗くなった部屋に照明を灯し、デスクチェアに腰を下ろす。
氷波はディスプレイに表示されている怪談に、再び意識を集中させた。
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