いがぐり

南条 華

貴族ですけど何か?

朝の匂いが、今日は少しちがう。

梅雨で、寝汗で体がベタベタでも、今日の朝は嫌悪感が全くない。

なんだか、別世界に降り立った気分になる。


ブラインドを開けて、外が曇っていても、私にだけは分かる光がある。


でも、そんなことは家族には言わず、私は仕事へと出掛ける。


こんないい日に、誰かと口を聞いて、トラブルになんて巻き込まれたくないのだ。


会社へ着く前に、自販機の横に車を停めて、缶コーヒーを飲む習慣は、もう会社に勤めて1年続いている。


いつもは100円の缶コーヒーを買うのに、今日は120円の缶コーヒーを飲む。

正直にいえば、味の違いなんてわからない。

そもそも、この習慣は、眠い体にカフェインを入れて、仕事モードのスイッチを入れるためのものであって、味なんかこだわりはない。


でも、今日は気分の問題。いつもよりも高い缶コーヒーを飲むことで、気分が上がるのだ。


スイッチが入った瞬間、私は別人へと変わる。

人格までは変わらないけれど、普段下を向いて暗い性格の私は、前を向き笑顔を作る。


今日、仕事の人と話す内容を今のうちに決めて頭の中でまとめながら、車を職場の駐車場へと進める。


「おはようございます!!!」


車を降りれば、明るい私は完成している。

誰よりも明るく元気に挨拶して、いつも機嫌よく、悩みなんてない人間を演じる。


29歳、独身。中山那月(なかやま なつき)。

彼氏なし。そもそも作る気なし。結婚も、もちろんする気もなし。

根暗。人間不信。ちょいオタ。


でも、そんな私を完全に理解して受け止めてくれるほど、現実は甘くないって知ってる。


職場の先輩も同僚も、後輩も、なにかにつけ私には結婚を勧める。恋愛も。


でも、悪い人たちじゃない。


私のことを思ってなのも知ってる。


だから表向き、私は結婚願望があるアラサー女子を演じているのだ。


「30過ぎくらいに結婚したいです!」

こんなことを、目を輝かせていえば、周りが喜ぶのを私はよく知ってる。

だからこそ、仕事では別人を演じるのだ。


今の会社に勤めて1年、私はわかりやすいように働き者をしている。

重いものを持つ時、面倒な書類作成、人が嫌がる仕事。

それらすべてを、積極的に率先して行う。

ずるいかもしれないけど、わかり易く働き者でいることで、昇給なんて簡単なのも知ってる。


現に、この1年で給料は2万円ほど上がったのだから、成果はかなりある。


お金が大事。


明るい家庭なんて欲しくないの。


ただ、お金が欲しいだけ。


お金持ちと結婚しても、お金に困らなくなっても、自分の時間が無くなれば意味が無い。


定時の鐘が鳴る。


この瞬間、何か解き放たれた気分になる。


もう、本当の自分に戻れるのだから。


今日は車をとばして、銀行のATMへ。

私の前に数人並んでいて、私は並んでいるあいだに、通帳とキャッシュカードを取り出す。


本来は、並ぶのが苦手な私でも、今日は違う。鼻歌交じりで、並ぶ時間を楽しむ時間がある。


私の順番が来て、通帳を記帳する。


通帳には、私の頑張った証が詰まってる。


そう、今日は給料日。


通帳をずっと眺めていたいけれど、後ろに並ぶ人の咳払いが聞こえて、急いでキャッシュカードを入れて1万円を引き出す。

咳払いをした人に会釈して、その1万円を抱えて隣の本屋へ。


買うものは決まってるから、無駄な道は通らずスムーズに欲しい本を何冊か手にする。


尊敬するMayuさんという写真家の写真集。

水越栄一著書の新作の小説。

倉田栄子先生の新作漫画を3冊。

料理雑誌と写真雑誌、文芸雑誌。


全て合わせて、7800円。


躊躇なく、1万円をレジに出せる快感は、たまらない。


残り2200円で、その隣のスーパーで発泡酒をケースで買う。


車の中で、本屋の袋開けて、匂いをかぐ。

萌える。この瞬間、まさ萌え。


先生方のおかげで生きてます。


そう思いながら、本屋の袋に頭を下げる。


こんな趣味、職場では絶対に言えない。


言ったところで、変人扱いだ。


車の中から、スーパーに入っていく家族連れを見る。


お母さんと小さい子供。お母さんは仕事帰りだろうか…。


入った給料はすべて、子供にいくのだろうか…。


それが自分だったらと思うと、少し恐怖すら感じる。


やっぱり私は、独身でいたいと強く願う。


いつか言えたらいいのに…

「独身貴族ですが何か?」

と職場で。


そんなことを思いながら、本を読むのを楽しみに車を家へと走らせる。


家に帰ると、そんな楽しみも奪われることも知らずに…。

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