2.不穏な来訪者

「小山内」

「はい」

「なぜお前はそうなんだ?」

「はい」

「成績もいい。クラスでの評判も概ねいい、教師の間でも大体そうだ。だがなぜか時々とんでもないことをしでかす。一体どうしてなんだ?」

「先生」

「なんだ? 小山内」

「先生。おれ、曲輪十和のことが好きなんです」

「あ、ああ……二組のな……」

「だから彼女が困ってたら助けたい。そう思ってます。先生も学生時代、好きな子がいたらそう思いませんでしたか?」

「ああ、それはまぁ……」

「そういうことで、それだけです」


 三日前、担任教師呉田くれたの顔には、やや強引な言い分への漠然とした理解が微かにだが見えていた。しかし彼のその顔には、同時に弛まぬ困惑も存在していた。

 他校の生徒との暴力沙汰。どんな理由があろうとそれは決して胸を張れることでも、決して許されることでもない。自分としてもいくらなんでもその言い分で、全てが通るとは思っていなかった。下された停学の処分は至極妥当な展開だと理解していた。


 経緯はこうだった。

 四日前、十和と下校していたおれはその途中、祖母からの頼まれ事を果たすために一旦彼女と別れた。祖母の依頼はそこそこ重要性を孕むもので、遊び仲間の一人と連絡が取れないので、様子を見てきてくれというものだった。

 だがその遊び仲間である杉崎すぎさき老人を訪ねれば、彼は寝食も取らずに徹夜でネットゲームに勤しんでいたというなんとも言い難いオチがつく。その報告を受けた祖母も呆れ声を上げるだけに終始し、結果割とどうでもよかった野暮用を早々に済ませたおれは、すぐに十和との待ち合わせ場所である公園に向かった。


「ああ? なんだ、てめぇ」

 しかしそこで待っていたのは十和だけでなく、彼女と、彼女を取り囲む他校のあまり素行がよろしくない連中だった。だがその状況がいつもの不可避の展開の末であるのは、多くを考えるまでもなかった。

 後に聞いた話によると、十和はおれを待つ間、時間潰しに公園を散歩していた。そこで親とはぐれた暴走三輪車と軽い接触事故を起こしたが、幸いにもそれは大きな災難にも小さな災難にも至らずに互いに怪我もなく、彼(暴走幼児)もじきに母親と再会を果たしたらしい。

 けれど十和の方は、ちょうどそこを通りがかった前出の連中とぶつかり、しかもぶつかっただけならまだよかったが、何がどうなったのかその拍子に連中の一人が十和が持っていたベットボトルの中身を頭からぶっかけられるという、軽い接触事故以上の災難を被ることになった。


 無論この悲劇の謝罪は、十和側から充分に出されるはずだった。しかし彼らは謝罪を遮り、彼女を囲んだ末に、「マァ、ソレハイイカラ、カワリニオレラトチョットツキアエヤ、コッチコイヤネーチャン」という碌でもない台詞の果てにある碌でもない展開を繰り広げようとした。

 十和に降りかかる災難は大小様々だが、こういった連中に関わるとより碌でもない結末を迎えるのが常としてある。彼女に手を出したくなる理由を思い慮ることは非常に簡単だが、彼女の意思を一ミリたりとも踏まえない言動の数々に同意を見せることは決してあるはずもなかった。


 できればどの場面に於いても、もっと効率よく立ち回りたいと思っている。そうすることが彼女に心配させないことにも繋がる。しかしいざ直面すれば、行動の優先順位が非効率な方へシフトする。今回も結果的に彼女を守ることはできたが、彼らは地面に這い蹲り、おれには自業自得の停学処分が下された。

 人生の経験が浅く、未熟な自分に毎度反省はする。けれども連中の下卑た口元を思い出せば、その辺りの後悔の念は今でもあまり感じなかった。


「わわっ、ちょっと、待って! ヘルプ! ヘルプ! いや、ウエイト! ウエイト!」

 その声におれは自分の手元を見下ろす。

 胸倉を掴まれた男は情けない声を上げながらこちらを見ている。顔にはもう必死さしか見えないが、声色に漂う緊張感はやや薄くもある。それを見取れば、まだ手を離す気にはなれなかった。

「はぁ? なんで英語だ? 訳分からん。でもとりあえず十和に怪我させた分は……」

 男はあの時の連中とはかなり毛色が違ったが、小さくとも十和に怪我を負わせ、未だ追い回そうとするその所業はよりタチが悪い。巫山戯たようにも取れる懇願は、この場の改善材料になどならなかった。


「それ! ほんっとーに、スミマセンでしたっ! だけど悪気はなかったんです! ちょっとした弾みというか……うん、弾みです! それに曲輪さんを追いかけたのも、彼女に言い寄るためにしつこく追いかけ回そうとした訳じゃなくて、それはあの、その、えっと……うわわっ」

 掴んだ手を離すと、男は地面に尻餅をつく。

 思うところはまだあるが言葉どおりに言い寄ろうとしたのでも、怪我をさせるつもりもなかったと言うなら、その言い分に一度耳を傾けるのが多分筋だった。

「えーっと……」

 しかし自由の身になった男は申し開きをするでもなく、ただこちらを見上げたり辺りを見回したり、地面の上で鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。

 その上目が合うとなぜかにへらとした笑みを浮かべ、そのいつまでも口を開こうとしない様子には必然的に苛つく結果になった。


「なんだよ、違うって言うなら早く訳を言ってみろよ」

「んーっと、えーっと、なんというか……言ってみたところで本当に解放されるとは思ってなくって……」

「なんだ? それじゃさっきのはただの言い逃れの嘘か?」

「い、いえ! それは違います! 全然全くちっとも嘘じゃあないです! ただこの僕は彼女に大事な話を聞いてもらいたかっただけなんです! 決して彼女につきまとって追い回そうとした訳でも、しつこく言い寄って交際を迫ろうとした訳でもなく、ただこの僕の話を聞いてもらいたかっただけなんです!」


 男は急に立ち上がると、必死な顔をして詰め寄る。

 男は自分と変わらない長身で、そのせいで鼻息がもろにかかる。こちらが原因なのは間違いないが垂れた鼻血も痛々しく、つい肩を押しやる。

「分かったよ、分かったって。あんたの言い分は分かったよ。だからあんまり近寄んな、暑苦しい」

「暑苦しい? うはは、それは少ぉし心外な言葉ですけど、まぁそれもそーですよねぇ。いくら僕のような美貌の持ち主でも、詰め寄られるのが男じゃげっそりです」


 男は能天気な言葉と能天気な笑みを取り戻すと、ポケットからティッシュを取り出し鼻血を適当に拭い、「僕、久坂くさかひさしといいます」と名乗った。

「それじゃあ立ち話もアレなんで、続きは中で」

 そしてそう続けると、当然のように扉を開けて店に入っていった。引き留めることも可能だったが、とりあえず後を追うと男は既に奥のテーブル席に陣取っている。仕方なく一人待っていた十和に事情を話し、相手のいるテーブルに向かうと、「じゃ僕、クリームソーダ」と、男は当然のように注文した。


「は?」

 ここは喫茶店であるから注文されても確かにそれは間違いではない。しかし若干の懸念が紛れる不穏要素を感じる。だが拒否もできず、手早く作って差し出すと、男は早速五才くらいのガキのようにもしゃもしゃと食べ始めた。

「曲輪さん、先程はほんとーにすみませんでしたっ。んぐんぐ。咄嗟にあなたの手首を掴んだ時に、ちょっと力が入り過ぎちゃったみたいです。ずずっ。ホントごめんなさいっ」

 食べながら、ストローで吸いながらの謝罪ではあったが隣を見ると、十和は困惑と当惑を窺わせながらも受け入れているようだった。自分としても当人が許しているのなら、これ以上言うこともない。


 久坂と名乗った男は二十代半ばほど、薄いグレーの長袖シャツに紫のチェックタイ、濃茶のズボン、髪は少し長めで先程は乱れていたが、もうきちんと整えられている。

 男は自認したとおりに端麗な容姿の持ち主だった。それに偽りはなく、十人中十人が振り返る容貌であるのは紛れもない事実である。しかしどうにもその利点すら霞んでしまう要素をいくつも兼ね備えていることも、確かなようだった。


「でね、そのパンケーキ屋さんでね」

 久坂はクリームソーダから片時も手を離さずに、語り続けていた。

 だが謝罪も終え、続けてその口から語られるのは、本日本屋に出向いた経緯、二週間前に十年ぶりに帰国した所以、それと宿泊するホテルで出会った美人の詳細、昨晩食べた高級焼き肉の感想、それに今語り始めたばかりの人気パンケーキ店での珍妙な出来事……。

 彼が必死に懇願したはずの〝聞いてもらいたい話〟は、いつまで経っても彼自身の口から出てきそうもない。一見関係のない話でも、どこかで繋がりがあるのかと待っていたが、能天気な声がいつまでもテーブルの上を流れていくだけだった。


「なぁ、話の腰を折って悪いが、あんたが聞いてもらいたい話は一体いつになったら始まるんだ?」

 語りはついに来月予定の実妹の結婚式話にまで広がっていた。忍耐の限界を感じて、耐え切れずに訊いていた。

「えっ? えーっと……それって何の話でしたっけ? あーそうそう、曲輪さんの話でしたねぇ。やだなぁもう、つい流れに乗って、関係のない話で盛り上がっちゃってましたよー。だけど君も人が悪いなー。気づいてたのなら、もっと早くに言ってくれたらよかったのにー」


 その返答には色々暴言が浮かんだが、相手には伝わらない気もして何も言う気になれなかった。それに目の前の相手がこういった人間だと、認識し始めた部分もある。

「なぁ十和」

「えっと、何? 吟爾」

「この男の話、まだ聞くつもりはあるか?」

 おれは十和に声をかけた。

 相手の話は本当に聞く価値があるのか。その疑念が掠めるのは隣にいる十和も同じはずだった。でもそれを決めるのは自分ではなく、彼女だった。

「……うん、まだある……」

 しかし暫しの思案の後に戻ったのはその言葉だった。それを確認したおれは再度男に向き直った。

「ということだ。だから早くあんたの用件を言え。だけどまたさっきみたいに関係のない話を始めたら、今度は十和の確認なしに叩き出すからな」

「えっ? はいっ、りょ、了解ですっ! それはもう、大了解ですっ!」


 久坂は慇懃なほど大きく頷くと、食べ終えたグラスをいそいそとテーブルの端に寄せる。紙ナプキンで丁寧に口元を拭うと、先程より幾分神妙に見える表情を浮かべた。

「はいっ、という訳でこの先は回りくどくは言いません。ずばっと言いますね。えーっと、ごほん。実はここにいる曲輪十和さん、彼女はとっても強い念によって呪われています。それは彼女から何代も前の、もう気が遠くなるほど遡ったご先祖さんから続く呪いです。この呪いをかけた何者かは曲輪家の人達が常に不運に見舞われるよう、それはそれはもう邪悪でしつこい強力な呪をかけたんです。その呪いは今もなお続き、これから先も……って、えーっと……すみません……君達、僕のこの話を聞いても驚かないんですか……?」


 相手の話を聞きながら、おれも十和もやや困惑していた。

 七才の時に両親を亡くし祖母のキミに引き取られ、その頃から五軒隣に住む十和とは幼馴染みとして育ってきた。彼女の不運さはその時から知っている。それが偶然や笑って見過ごせる類のものでないことも、とうに感じている。当人なら尚更なはずだった。

 十和の家族は今は父親の十吉じゅうきちしかいない。母親は十和が生まれた時に亡くなった。

 十吉は現在両腕両脚の骨折で入院している。なぜそうなったかは十和に説明を受けた時に、全身が痛くなったのを今でも覚えている。

 彼は既に一年に渡る入院生活を続けているが、それは退院予定日が近づく度に些細で不可解な出来事をきっかけに、また新たな重傷を負っているからだった。今ではもう病院で、死に神という逆説的あだ名をつけられている。その中で唯一救いなのは、どんなことが起ころうと十吉が常に明るい性格であり続けていることだった。


「確かに驚きはないけど、でも改めてそう言われると……」

 十和が俯いて零す。

 呪われている。

 自分でも薄々感じていたとしても、言葉として突きつけられれば重みも違う。その呟きの裏にある心情はおれにでも理解できた。隣にある掌を取ると、顔を上げた十和はその手を緩く握り返してきた。

「あははー、なんだかラブラブでいいですねぇ」

 向かい側では久坂が腕組みをしながら、うんうんと頷いている。

 万が一にも悪気はないのかもしれないが、彼の行動は全てに於いて何か小馬鹿にされている気がする。だがそう思うのにも若干慣れてきた。もしかしたらあと数分もすれば、無の境地の辺りまで辿り着くことも可能であるかもしれなかった。


「それで……あんたは彼女にそのことを言いたかっただけなのか?」

 おれは十和の手を離すと、再々度久坂に向き直った。

 男の目的が何なのかまだ分からなかったが、しかし単に目的がそれであるなら、もうお帰りいただきたいという念がある。性格的にも、この話を持ち込んだ立場的にも、長時間一緒にいたいと思う相手ではなかった。これ以上関わり合いにならない方がいいという、漠然とした忌避感情も働いているのかもしれなかった。


「んー、そうだねぇ、そうとも言えるし、そうとも言えないのかなぁ」

 その問いには相手の呑気な言葉が返る。苛立ちが逸りそうになるが、そうなる前に言葉を返した。

「はぁ? どっちなんだよ」

「あのさぁ、そうやって結論を急くのはどうかと思うよー。こういうのはそのどっちか分からないっていう、その微妙なところがいいんじゃないかー」

「……あんた、何言ってんだ?」

「そうやって結論を急くのは子供のすることだよ。大人ならその曖昧さっていうか、そこにある機微をどこまでも愉しんでいかなくっちゃあね。僕はこれまでそうして多くのことをこの手に勝ち取ってきたよ。君もこれからはもっとそういうのを学ばないと」


 おれは何も言わずに相手を見据えた。

 無の境地に辿り着くことはできず、代わりにもやもやした感情が迸りそうだったが、敢えて黙った。この男の正体が忍耐を試すために地上に舞い降りた天からの使者だと今言われたら、多分欠片も疑わない。

「まぁまぁ小山内吟爾君、本当のことを言われたからってそんな臍を曲げないで聞いて下さいよ。実はですねぇ、この僕は知ってるんですよ、君の彼女のその呪いを解く方法」


 その言葉に、おれはもう一度目の前の男を見る。

 名乗らなかった名を呼ばれたことには違和を残すが、そんなことは既に些細なことでしかなかった。

 夕暮れの店内、テーブルを挟んだ向こうには深い笑みを浮かべる男がいる。

 呪いを解く方法。その一縷の望みのようなそれが存在し、十和の日々が少しでも改善されるというなら、今すぐにでも知りたいものだった。

 しかしそれに飛びつくことのできない自分もいる。

 男は先程までとは異なる笑みを見せている。

 その場所に座る見知らぬ男がなぜ旧知の友のようにそこで振る舞っているのか、不意にその存在に滞りない疑念を覚える。今更のように正体不明の何かがそこにいる気がしていた。


「なぜだろうな、どうにも嫌な予感しかしない」

「えーっ、なんなんですかその台詞、とってもやな感じですねぇ。君にそんな言葉を吐かれるなんて僕的にはすんごく心外なんですけどー。んー、だけど僕って、そういう人間に見えちゃいますかねー?」

「そうだな、見えるとも言えるし、やはり見えるとも言える」

「あははー、それいいねー。なんだかここに来てようやく僕の方が一本取られちゃったかなぁー、ってな訳で吟爾君、君にお訊ねしますけど、『ロッソ』って店を知ってます?」

 久坂は変わらぬ笑みを見せながら、唐突に問いかける。完全に拒絶したい気持ちも湧き上がるが、流れは完全に相手の手中にある。聞き覚えのないその名にはそのとおりの表情を作って返すと、戯けた声が戻った。


「うん、そうだよねぇ、知る訳ないよねぇ。ていうか高校生が知ってる方がまぁ、ヤバイんですけど。ロッソはですね、鴨井かもい町にある所謂ストリップバーです」

「ストリップバー?」

「吟爾君、これから君がまずすることは、そこにいる夜夕子やゆこっていう名のダンサーに会いに行くことです」


 向かい合う男はこちらを見て笑んでいた。

 これからおれがどんな答えを戻すのか。

 目の前の相手をどれだけ胡散臭いと感じていようと、その言葉にどれほどの真偽を感じていようと、これからおれがどういった返答をするのか、この男は知っていた。

「はーい、それじゃ了承と取って次行きまーす」

 相手は言い放つと、どこかから手品のようにペンと紙を取り出し、なにやら描き込み始めている。念写のようにすらすらと動く手元を覗き込めば、それは行き先を示す地図のようだった。


「吟爾君、君、背は高いし顔は割と大人びてるから、門前払いを食らうことはないと思うけど、ロッソに行く時は今着てるパーカーにジーンズとかそんな貧乏くさいのじゃなくて、もっとマシな格好してって。なんならこの僕が見立ててあげようか」

 こちらも見ない相手の声色には、小馬鹿にする度が増している。対峙する相手は明らかに優位置に立っていて、立場は反転するように逆転している。

「結構だよ」

 不可逆なそれに対し、術のないおれにできるのは差し出された地図を乱暴に奪い去ることだけだった。何もなくなった手元を見下ろした男はこちらを見上げると、満足そうににんまりと笑った。

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