第45話 怒濤とイナズマ

 遠い地鳴りはいつしか明確な足音となり、小瀬の惣堂の中に響き渡った。百姓たちは身を寄せ合い、恐怖に耐えている。その緊迫感が頂点に達しようとしたとき、百姓の子供の一人が気付いた。


「お父う、何か燃えてる」


 言われてみると、確かに何やら焦げ臭い。やがて目が痛くなってきた。煙が入ってきている。そして誰かが声を上げた。


「上!」


 屋根の内側に、赤いものがちらついている。もはや間違いはない。惣堂が燃えているのだ。百姓たちは扉に走り寄った。力を合わせて押し開けようとする。しかし開かない。パニック寸前の百姓たちの後ろから、忠善が静かに前に出た。


「下がっておれ」


 背中の刀の柄に手をかけたかと思った瞬間、それは真っ直ぐ縦に振り下ろされた。固い破断音。扉の右側の蝶番ちょうつがいが砕けた。


「今だ、押せ!」


 忠善のかけ声と共に、再び百姓たちは扉を押す。木の折れ、割れる音。扉は向こう側に倒れた。飛び出す百姓たち。忠善は宣教師を振り返った。


「司祭さま、お急ぎを」


 しかし宣教師は、杉乃助の荷物を探っている。


「何をしているのですか」

「酒ガ残ッテイタラ、モッタイナイデショウ」


「それどころではありません」


 忠善は宣教師を小脇に抱え上げると、火の回った惣堂から飛び出した。しかし。


 そこは人の海。怒濤の如く押し寄せる一揆勢。立ち止まる余地などない。荒れ狂う人の波は忠善を翻弄し、その手から宣教師をもぎ取った。


「司祭さま!」


「ちゅーぜん」


 それは、ほんの瞬き一つか二つの間の出来事。走り過ぎて行く、数え切れない人の流れにぶつかり突き飛ばされながら、何とか宣教師が立ち上がったとき。


 その胸から刃が生えた。


 背中から胸を貫いたのは、反りのない忍び刀。絶句する忠善をあざ笑うかのように、崩れ落ちる宣教師の背後に立つ影。それは。


「杉乃助、貴様!」


 杉乃助はしかし、ギラギラと光る目でニヤリと笑った。


「悪いな、俺は松蔵ってんだ」


 ほとばしる銀光。忠善は長刀を振り下ろした。巻き込まれた一揆衆が二人、胴を斜めに切断される。しかし松蔵には僅かに届かない。


 逃げ延びた。松蔵の顔にその思いが表われた瞬間、忠善は二歩踏み込み、切っ先はレの字を書くように跳ね上がった。一揆衆をまた一人巻き込み、上半身を斬り飛ばしながら、長刀の先端は松蔵の左の顎から右のこめかみに走り抜けた。


 僅かに傷が浅かったのか、松蔵は即死しなかった。顔面から血を吹き出しながらのたうち回るその姿は、周囲の一揆衆に一瞬の動揺をもたらし、その隙に忠善は宣教師を抱えて走り去った。




 岸和田城の兵は、城門から吐き出されるかの如き激しさで飛び出し、素早く市中を駆け抜けた。その勢いのまま岸和田の町から南側に少し進み、広く陣形を形作る。一揆勢に岸和田の町を焼かせる訳にはいかない。その手前に最終防衛ラインを引くのだ。


 中村一氏は、この戦いの総大将である。ならば岸和田城に残って采配を振っても良かったのだが、そんな事のできる性格ではない。自ら馬を駆り、七十騎の与力衆と共に岸和田城を出た。そしていざ岸和田市中を駆け抜けようとしたとき。一氏の耳にかねを叩く音が聞こえた。


 ちっきちん、ちっきちん、ちっきちん、ちっきちん。


「なんまいだーぶ、なんまいだーぶ、なんまいだーぶ」


 高野聖こうやひじりの如き詠唱が、板葺きの屋根の上から聞こえてくる。しかし、その声は一氏のよく知っているものだった。


「雪!」


 屋根を見上げた一氏の目が丸くなる。着物が薄汚れ、髪が乱れてはいたが、そこにいたのは間違いなく雪姫。


「姫さま」


「雪姫さまだ」


 一氏の動揺は瞬く間に与力衆にも広がった。


「何をしている、早く雪姫さまをお助けしろ!」


 河毛源次郎の指示に、与力たちはみな雪姫の元に集まった。一氏も呆然と見上げている。その首筋に、何か冷たいものを感じた。一氏は思わず振り返る。


 一瞬の青い火花と破裂音。同時にましらの如き何かが、弾け飛ぶように落ちた。そして地上で跳ねると、それは刀を構えた、髪の長い娘の姿になった。


「おのれ、何奴」


 佐藤次郎左衛門が一氏と娘の間に割って入る。しかし娘は次郎左衛門を見ていない。一氏の事も見ていない。町の入り口の方をにらみつけている。そこに立っていたのは、黒いコートを纏った人影。ナギサである。



「この状況で遠距離トラップなど、正気の沙汰ではないと言えるね」


 ピクシーは怒っているようだった。


「でも成功したじゃない。で、バッテリーは」


「五パーセントを切っている。もはや万事休すと言えるね」


 しかしナギサに後悔はない。恐怖もない。どちらかと言えば、清々しい気分である。変な感じ。ナギサの顔に、思わず笑みがこぼれた。


「やっぱり殺しておくんだったよ」


 服部竜胆の声が震えている。


「後悔は先に立たないもんだって決まってるからね」


 対峙するナギサの声には余裕がある。


「ホント、まったくだ。でも」


 竜胆はニッと歯を見せた。


「せっかくだから、後悔のお裾分けだ」


 そして屋根の上を振り仰ぐ。


「雪」


 何人かの与力がすでに屋根に上っている。その真ん中で雪姫は、呆然とした顔で、だがしっかりとした動きで、懐から護り刀を取り出した。白い鞘に包まれた護り刀を。与力たちは息を呑む。竜胆の口が動いた。


 し、ね。


 雪姫は素早く護り刀を抜くと、一瞬の躊躇も見せずにその刃を自らの喉に突き立て……なかった。さすがにそれは無理だった。いかに強力な催眠でも、生存本能を凌駕するような強制はできないのだ。雪姫の両目から涙が流れる。屋根に上がった与力たちが雪姫に飛びつき、護り刀を取り上げた。竜胆は小さく舌打ちすると、岸和田城を見上げた。


「情けない……こんな小さな城ひとつ落とせないとはね」


「もう諦めな。あんたの目的は何一つかなわない」


 ナギサの言葉に、竜胆はうなずくようにうなだれた。佐藤次郎左衛門の隣には、河毛源次郎が刀を抜き構えている。周囲は与力たちに囲まれて、もう逃げる場所もない。その中で、服部竜胆はこう声を上げた。


「ざーんねーんでした」

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