第42話 年越の酒宴

 岸和田の町は静まりかえっていた。人の気配がまるでない。多くの人々は戦を恐れ、家財道具もろとも大津や堺の知り合いなり、親類縁者なりの所へ逃げ込んでいるのだ。故に今、岸和田には人の居ない家々が立ち並んでいる。その一つ、通りに面した小さな家の戸がこじ開けられ、奥の部屋に人の気配があった。


 服部竜胆は、灯明一本の灯りの中、立ったまま一糸まとわぬ姿になった。美しい玉のような肌。だが両脚の側面に醜い刀傷。出血は止まっているが、傷口の周囲が腫れ上がって痛々しい。竜胆はそこに黒い膏薬を塗り込み、紙で押さえた。


 左右の傷を手当てして、着物に手を伸ばしたとき、傷口に触れようとする手があった。細い白魚のような、透き通る肌をした指先が、竜胆の傷口にそっと触れる。それは雪姫の手。竜胆はその手を静かに握る。


「おまえの兄上を殺すよ。みぞれの事はその後だ」


 竜胆はそうつぶやいた。すると雪姫は、顔に妖艶な笑みを浮かべて、口元を竜胆の脚の傷口に寄せる。そして口づけると、舌を出して傷口の横を舐めた。


「一揆の連中には、せいぜい暴れてもらおう。私のために」


 雪姫の舌が脚から腰へ、そして胸へと這い上がって行く。


「おまえは良い子だね」


 竜胆は雪姫の頭をなでた。そして頬をなで、首筋を触り、その手を雪姫の着物の胸元深くに差し入れた。


「おいで、可愛がってあげよう」


 竜胆はゆっくりと、そっと静かに雪姫を押し倒した。絹のすれる音が広がる。




 もはやすっかり夜となり、小瀬の惣堂の周りは真っ暗になっていた。北風が吹く以外は静寂の世界。だが惣堂の内側は、賑やかな音と声で埋まっていた。


 中には三組の百姓の家族が籠もっていた。理由は杉乃助とまったく同じである。戦を恐れて惣堂にやって来て、しかし今、どんちゃん騒ぎに巻き込まれているのだ。もちろんここに甚六はいない。だがその事に気づく者など誰もいなかった。


「まあまあ、遠慮せんと飲んで飲んで」


 杉乃助が茶碗になみなみと酒を注ぐ。あの重そうな荷物のかなりの割合を、酒の徳利が占めていたのだ。


 戦に対する恐怖心もあるのか、百姓たちはどんどん盃を重ねた。そして酒を浴びるように飲んだのは、百姓たちだけではなかった。


「コッチデスヨ! 杉乃助! コッチノ酒ガ、モウ無イノデスヨ!」


 宣教師はすっかりできあがっていた。


 忠善は宣教師に酒を注ぐ杉乃助に、申し訳なさそうな顔をした。


「済まぬ、どうも司祭さまは酒に目がないようで」


 しかし杉乃助は笑顔で首を振る。


「いえいえ何をおっしゃいます。こんなに明るい方が一緒に飲んでくださるから、わしらも不安な気持ちを押さえられるのです。助かっております」


「ソウデスヨちゅーぜん! コレハ人助ケナノデス。オマエモモット人助ケシナサイ」


 宣教師が茶碗を振り回しながらわめく。


「忠善にございます。まったく酒癖の悪い。ところで杉乃助、一揆勢の動きはどうなっているかわかるか」


 杉乃助は徳利を床に置いて答えた。


「付け城の連中が動けば、誰ぞ触れ回るヤツがおるはずです。今の所それがないという事は、まだ出ていないのではないかと。早くとも明日でしょうな」


「明日は元日か。いかな一揆衆でも、この日だけは避けるのではないか。三が日が明けたくらいが一番危険であろうか」


 忠善も茶碗酒を口にする。杉乃助は少し心配げな笑顔を浮かべる。


「そうかも知れません。いや、そうあってくれれば助かるのですが」


 そう言いながら、自分の荷物をゴソゴソとし始めた。やがて取り出したのは、両手に白い丸い物。


「正月は祝えるかと思って、ほれ、このように餅を持ってきておるのです」


 杉乃助の些細な願いに、忠善は笑った。酒が回っているのかも知れない。




 夜のとばりが下りてなお、岸和田城は明るかった。吹き止まぬ北風に揺れる松明たいまつの灯りが、煌々こうこうと石垣を照らしている。その城門に向けて走る一人の男。刀を一本帯びただけで、鎧の一つも身につけていない。槍を構える門番の前に立ち止まると、男はこう言った。


「真鍋家家臣、多賀井たがい左吉右衛門。ただいま斥候せっこうより戻りました」



「斥候が戻りました!」


 城内に声が響く。広間では甲冑を着けた武将たちが立ち上がる。ただ柿色の甲冑の中村一氏だけが泰然と床几しょうぎに腰掛けていた。多賀井が広間に入り、一氏の横に座って頭を下げる。


「斥候ご苦労」多賀井より先に一氏が声をかけた。「それで、どのような状況であるか」


「はっ、澤城、畠中城、積善寺城、高井城、千石堀城、それぞれ人にあふれ、今にも吹きこぼれんが如きであります。城の中の兵の数までは不明でありますが、おそらく二万を下る事はないかと。殿のお言葉通り、三万を超えるやも知れません」


「左様か」


 そう言ったまま、しばらく一氏は黙り込んだ。一氏の前には大きな陣形図が広げられている。


 このとき、中村一氏の手勢は二千四百ほど。それに与力七十騎、近隣からかき集めた雑兵が二千ほど、秀吉配下の他の武将からの加勢を三千ほど加え、なんとか合計約八千の兵力で、総勢三万の一揆勢に対峙しようとしていた。


 鉄砲を除けば、個々の武装においては岸和田城の側に分がある。だが兵力の絶対数が違いすぎる。それだけでも正面からぶつかれば、ただでは済むまい。ましてや鉄砲の数では、おそらく相手が相当上回ろう。しかし岸和田城の向こう側には堺があり、大坂城があるのだ。命惜しさに籠城するのであれば、己がここに居る意味がない。


「はてさて、どうしたものかのう」


 一氏は、ため息交じりにつぶやいた。その脳裏に浮かぶのは、妹の雪の事。だがそれを打ち消す。おそらくもう雪は、河内あたりに居よう。今更考えても仕方ない。


 次に浮かんだのが、紅毛碧眼の伴天連。死人の兵。あれが今もし千人居たとすれば。しかしそれもまた詮無せんない事。何があったらと考えるより、いかにすればと考える方が益があろう。とは言え、八千の兵で三万の一揆勢を打ち破る方策が、一氏にはどうしても浮かばなかった。

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