■第二話 1

「ぎゃっ、なんだこれ!?」

 新入生も入り、春休み中の閑散とした雰囲気が嘘のように構内に活気が溢れるようになった四月。その日、学食に行くため就職課の前を通りかかった陽史は、アルバイト掲示板に貼られたある貼り紙を見つけて思わずカエルが潰れたような声を上げた。

「どうしたんだよ? 犬のフンでも踏んだか?」

 上手い具合に韻を踏んだのは、同じデザイン学科に通う三浦和真みうらかずまだ。

 最初の講義の際、たまたま席を隣にして座ったのが縁で話すようになり、その中で同じ東北の出身――秋田あきたと岩手であるとわかるや否や、〝東北〟と聞くだけで一致団結するところがある地域柄や人柄のもと、二人も例に漏れず急速にその距離を縮めた。

 和真は、体たらくな陽史と違ってバイトと学業と一人暮らしを起用に両立させている。当然、帰省もお手の物だ。春休みになるとすぐに実家のある横手よこてへ帰り、そのまま雪解けを待って東京に戻ってきたので、こうして顔を合わせたのは約二ヵ月ぶりだった。

「あ、いや……ちょっと先に行っててくれ。急ぎの用事ができた」

「ん? おう」

 訝し気な顔をしつつも「んだらなー」と若干訛って学食へ向かっていく和真に笑顔を貼りつけながら、陽史は咄嗟に体で隠したそれを後ろ手で思いっきり剥がし取る。

 ――【泰野陽史、至急来られたし!】

 こんな果たし状めいたもの、到底和真に見せられるわけもない。

 掲示板が見えてきた際、どういうわけか通り過ぎる人通り過ぎる人、ちらちらと端っこ付近に目を止めていくと思ったら、どうやら犯人はこれ――いや、この貼り紙をした人だったらしい。そして、こんなことをする人物は構内広しと言えども一人しかいない。

「喜多さんっ! なんなんですかこれ!」

 バインとプレハブ小屋のドアをしならせるなり、陽史は剥がし取ったばかりの貼り紙を黄門様の印籠よろしく前に突き出し、真犯人を問い詰める。……そうなのだ、この人以外にいるわけがない。大学八年生、卒業浪人の喜多秋成である。

「おー、そろそろ来ると思ってたぞ!」

「そろそろって……。絶対に掲示板の使い方を間違えてますよ、それ……」

 その喜多は、貼り紙の印籠をもろともせずに、のん気にカップラーメンを作っていた。ポットからコポコポと湯を注ぎながら、猛然とダッシュしてきたせいで肩で息をしている陽史を見て、実にタイミングが良かったと言わんばかりの笑顔を向ける。

 どうやら今回は喜多に軍配が上がったようで、就職課の職員も、大勢の学生に見られる前に回収とはいかなかったらしい。してやったりとも取れる喜多の笑顔と漂ってくるラーメンの匂いにすっかり毒気を抜かれてしまった陽史は、脱ぎ散らかしたスニーカーや外の砂が散らばっているのも気にせず、その場にがっくりと膝をつく。

 ほとんど騙される形で請け負った芳二との《派遣メシ友》が終わり、ただの〝メシ友〟になってちょうど二週間。これまで平和に過ごしていたというのに一体何事か。

「まあまあ。泰野もどうだ? 激辛と超激辛があるが」

「それ、どう違うんですか……。いや、友達と学食に行く約束をしてるんで、いいです」

「そうか……」

 ウキウキとパッケージを見せてくる喜多の誘いをばっさり断る。すると喜多は少しだけしょんぼりした顔をするが、相変わらず無精ひげでそんな顔をされても可愛くない。

「それより、友達を待たせてるんですけど」

「おお、そうだった。なに、この前と同じことさ。近々どうだと派遣メシ友の依頼があったんだが、この通り俺は今年こそ卒業するために忙しいだろう? またお前に行ってもらえないかと思ってな。番号を知らないもんだから、掲示板で呼び出したんだ」

「……どの通りですか」

 少しばかり語気を強めて先を促すと、思った通り、喜多から《派遣メシ友》の話を切り出された。ズボンの尻ポケットからスマホを取り出し操作すると、今回はメッセージで送られてきたらしいそれを陽史に見せて、どうだ? と伺いを立てる視線を送る。

 その熱視線はひとまず感じなかったことにして、陽史は画面にざっと目を通した。

 今回のメシ友は女性のようだった。絵文字やスタンプがふんだんに盛り付けられたそれは派手派手しいという一言に尽き、こう言ってはあれだが、きっと本人も同じかそれ以上に派手な人なのだろうということが簡単に窺えるような印象を強く抱く。

須賀彩乃すがあやの、三十四歳。キャバクラで働いて長い、ちょっと年増の姉ちゃんだ」

「喜多さんがそれを言う……いや、いらないですから、そんな情報」

 横から挟まれた情報に、陽史は力ないため息を吐き出す。

 彼女が年増なら、喜多だって陽史からしてみれば十分に年増だ。働いているから、彼女のほうが断然、上だろう。だってこっちは八年生だ。そんなの聞いたこともない。

「ていうか、どこで知り合ったんですか? まさか通ってるわけじゃないですよね?」

「バカか! 仕事で飲みすぎて具合を悪くしていたところを介抱しただけだ!」

 思わず半眼で尋ねると、喜多はそこだけはきっぱり否定した。しかし続けて「まあ、歳だけを見れば行っていてもおかしくはないがな」などとモゴモゴ口の中で呟くので、本当は行ってみたいと思っていることが筒抜けだしダダ漏れだ。なんとも言えない苦笑をこぼしつつ、だから八年生なんじゃないだろうかと陽史は真剣に思う。残念な人である。

 とはいえ、ここで喜多を不憫に思ってはいけない。

 前回と同じ轍は踏むまいと、陽史は毅然とした態度で残念な喜多を見据え、

「すみませんが、これから講義や課題で忙しくなるので、今回はお断りします」

「なぜだ! いい人だぞ!? 年増だが!」

「なぜって、本格的に講義が始まれば忙しくなって当たり前じゃないですか!」

 可哀そうに、何度も年増と言われる彼女のほうこそ不憫だと思いながら、信じられないといった顔で必死に食い下がってくる喜多に取られた腕を引き剥がす。

 実を言えば、今回も金欠だ。実家からの仕送りはもらったが、家賃や水道光熱費などの諸経費を取り置き残ったのは今月も二万円ほどと、ちょっと心許ない財布事情だ。

 先月、一週間の短期バイトとして工事現場の誘導員をして得た給料は、春祭りの屋台での豪遊と、後日芳二に日本酒を差し入れた際に使い、もうない。残りは帰省するために使えと言った芳二の呆れ声は今も耳に新しいが、後悔もないし使ったものは仕方がなく、また日本酒も近所のご年配方の腹に入ってしまっているので、もうどうにもならない。

 それでも残った給料は、洗濯洗剤やら柔軟剤やら食器用洗剤やら、トイレットペーパーやらティッシュやら何やら、どうしても買い足さなければならない生活必需品が重なり、そのための資金としてありがたく使わせてもらった。こういうことはままあるもので、切れるとなれば、だいたいのものが一気に切れる。おかげさまでシンクの中は片付きトイレも快適、服もいい香りに包まれているが、ちょっとだけ虚しいのが本音だ。

 しかし、だからといってメシ友に頼るわけにはいかない。しかも今回は女性だ。陽史にだって、男としてのプライドというものがある。女性にメシをご馳走になり、さらにバイト代までもらうだなんて、そう簡単に首を縦に振れるようなことではないのだ。

「嘘だろう!? もう新人が行くって言ってあるのに!」

「はあっ!?」

 けれど、どうやら喜多は今回も勝手に話を進めていたらしい。前回以上にタチが悪いのは、陽史の知らない間に、というその一点だ。どうりでとっくに三分経っているのにカップラーメンに近づかないわけだ。必死に食い下がっていたわけだ。この様子からすると、《派遣メシ友》の約束は今夜あたりだろうか。予定は空いているが実に腹立たしい。

「なんでそんなことするんですか! バカでしょう! バカなんでしょう!」

 八つも年上なんて関係あるか。バカバカ罵りながら、陽史はもう泣きたい気分だ。

「いや、それに関しては本当にすまない! この通りだ! 謝る! だがな、彩乃さんも彩乃さんで、どうしようもなく誰かと一緒にメシを食いたいときがあるんだよ。芳二さんのときもそうだっただろう? 寂しいときは、誰にだって平等にあるんだ」

「そ、れは……」

 けれど、そう切り返した喜多に、陽史は一瞬、声を喉に詰まらせた。それを言ったら反則だろうと思うものの、しかし脳裏に鮮烈に蘇るのは芳二とのやり取りのすべてだ。

 それと同時に思い出すのは、仕送りがあった日に実家に電話をかけたこと。いつもは気が向いたときにかける程度だったが、なんとなく実家の声が聞きたくなったのだ。

 そのとき出たのは母だった。今月も仕送りをありがとう。近いうちにメシを食いに帰るよ。体に気をつけてってみんなに伝えといて。受話器越しに聞く母の声がどうにも照れくさくてそれくらいしか言えなかったが、電話を切ったあと、無性に涙が込み上げた。

 母は、ほとんどかかってこない息子からの電話に「何か変なものでも食べたんだべ?」とからかいながらも、久しぶりに元気な声が聞けて嬉しそうで、けれどやっぱりちょっと寂しそうで。声の様子からしかわからないぶん、それがよりはっきりと感じられた。

 ――寂しいときは、誰にだって平等にある。

 だから、その一言がタイムリーに陽史の心に突き刺さる。

 電話越しに声を聞いただけでこうなのだから、普段通りに見える和真だって、心の中では寂しいだろう。がっつり二ヵ月帰っているぶん、陽史より寂しさを感じているかもしれない。相変わらずタチの悪いことをしてくれる喜多だって、本音はそうだろう。じゃなかったら、咄嗟の切り返しにあの言葉は出てこないんじゃないだろうか。

 芳二もそうだった。老武士然としているが、中身は本当は寂しがり屋で優しく、可愛らしい人だ。今回の彩乃も心に寂しさを抱えているから、こうしてわざわざ《派遣メシ友》を呼んで一緒にメシを食おうとしているのだ。たとえ一時、寂しさを紛らわせるためだけだったとしても。バイト代を払ってでも、誰かと一緒にメシを食べたくて。

「――ああ、もう! わかりましたよ! やればいいんでしょう、やれば!」

「本当か!?」

「だって仕方ないでしょう、約束しちゃってるんですから」

「恩に着るぞ!!」

「ったく。調子がいいんだか、図々しいんだか……」

 しばらく逡巡したのち、陽史は大仰にため息をつくと、がしがしと後頭部を掻き回した。

 本当に図々しいったらありゃしない。でも、寂しさに負けそうなとき、それがどんなメシであっても、誰かと囲むメシはそれだけで明日への活力になることは確かだから。

「じゃあ、さっそくなんだが、明日の午前五時に、ここへ行ってくれ」

「朝の五時!? 今日の夜じゃなくてですか?」

「ああほら、彩乃さんは夜の商売だから」

「……ああ」

 のっけから少しだけやる気を削がれつつ、陽史は喜多のスマホに示された指定場所を自分のスマホにもメモした。当然、学食で待っていた和真に「遅い!」と怒られた。

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