5-1

「芳二さん……ちょ、あと何往復させる気ですか」

 それから小一時間ほどして、ちょうど昼十二時を回った頃。陽史は汗だくになりながら三百メートルほど離れた神社と芳二の自宅を、もうかれこれ四往復はしていた。

「あと三回はしてもらわにゃ困る。ほら、追加だバカ野郎」

「三回って……。てか、バカ野郎って何なんですか……」

 たまらず玄関式台にどっかりと腰を下ろし、後ろ手を突いて天井を仰げば、その傍らにこれまたどっかりと優に十人分は作れるだろう大鍋を置いた芳二が、お前の根性はそんなもんか? と言いたげに、ふん、と鼻を鳴らして陽史を見下ろす。

『祭りに行くなら差し入れを持っていかにゃならんだろう』と、芳二はそれからすぐに台所に立ち、あれこれと料理を作りはじめたのだ。前に陽史にも出してくれたきんぴらや漬物、豚汁に加えて、今回は無造作にちぎった海苔を混ぜ合わせた卵焼きや唐揚げ、ウィンナーに特大のおむすびなど、片手でつまめるものがみるみるうちに量産されていった。

 今、陽史の横に置かれた鍋には、おでんが入っている。昆布だしのいい匂いが家中を包み込み、震源地の鍋からは、蓋をしていても強い香りと白い湯気が出ている。肩透かしを食らったようなものだった陽史には、拷問に等しいかもしれない。メシの時間にはちょっと早いが屋台で豪遊しようと思っていた腹の虫が、その瞬間、切なくグウと鳴る。

「何を言っとるか。女房の差し入れはこんなもんじゃなかったぞ」

「そんなあ……」

「女々しい声を出すな、うっとうしい」

「……う」

 芳二が言うには、床に伏せる前の幸枝は、毎年春祭りに大層な量の差し入れを持って行っては、実行委員や神社などの関係者や屋台の人たち、催し物に出る地元の子供たちや来場者などに振る舞っていたという。それが生きがいのようなものだったそうだ。

 今でこそ大いに賑わいを見せているが、昔は祭りと言ってもさして規模の大きなものではなく、屋台も出なかったそうで、その当時からの慣習のようなものだという。

 特に催し物に駆り出された子供たちには大人気だったということだった。由緒ある祭りではあるが、お駄賃をもらえるわけでもなく、屋台があるわけでもない当時の春祭りは、子供たちにとっては楽しくもなんともないからだ。そこで少しでも楽しんでもらおうと幸枝が差し入れをし始めたたところ、子供たちの目がパッと輝いたというから面白い。

 台所に立ち忙しなく動き回りながら、芳二はそんな昔話を聞かせてくれた。

 それを聞いて、陽史は微笑ましく思った。子供というのは、目に見える見返りがないとなかなか頑張らない。陽史にも覚えがあるそれは、きっと当時の子供たちからしてみれば本当に嬉しいものだったのだろうし、間違いなく楽しみだったのだろう。

 幸枝が亡くなって七年。すっかり春祭りから足が遠のいていても、芳二の記憶にはそのことがしっかり残っている。だから『祭りに行くなら差し入れ』というわけで、幸枝から受け継いだその慣習を七年ぶりに芳二が、その手伝いを陽史がしているわけである。

「ほら、とっとと行け。追加の握りめしを作らにゃならんのだ」

 という間に、炊飯器から炊き上がりを知らせる電子音が鳴る。

「……は、はいっ!」

 陽史は芳二と炊飯器に急き立てられるようにして鍋の取っ手を掴むと、重いそれを万が一にもひっくり返してしまわないよう、慎重に慎重を重ねて神社へ向かった。

 その道中、陽史は、やっぱり芳二さんは可愛い人だな、と頬を緩ませた。

 仕方なくといった体だったが、その実、芳二はやはり春祭り用に大量の食材をすでに準備していたのだ。じゃなかったら、あんなにホイホイ料理を作れるわけがないし、おむすびだって、炊くのに小一時間はかかるはずが今の時点で〝追加〟が炊けるわけがない。

 もしかしたら毎年、今年こそはと思いながらこの日を迎えていたのかもしれない。そう思うとちょっと切ないが、七年越しにやっと踏ん切りがついたのだから、結果オーライといったところか。ともかく、五往復目の往路の最中に思うのは、最初は怪訝そうだった人たちの顔が、今は〝次はどんな差し入れだろう?〟と楽しみ半分、呆れ半分になっていることだ。そろそろ「本人はまだか?」と声が上がりそうなくらいである。

「ふ。早く芳二さんにみんなの顔を見せたいな」

 せっせと大鍋を運ぶ陽史の足取りは、慎重だが軽やかだった。


「おー! やっと本人のお出ましだ!」

「そらそら、芳二さんも、そこの若けえモンも、座んな座んな」

 それからさらに三往復後、最後は芳二とともに神社へ向かうと、すでに酒が入っている男集団から豪快な声がかかった。手伝いの女性たちは何とも言えない苦笑いだ。もう毎年のことで諦めているのかもしれない。男は昼だろうと夜だろうと、いつも酒を飲む口実を作りたがるし、探している。陽史の地元の男たちも、何かあればすぐに宴会だ。

 陽史は男連中の酔いに任せた迫力に若干気圧されつつ、腰をずらして空けてくれたスペースに「お邪魔します」と体を滑り込ませる。芳二はと見れば、ややむっすりした顔で、芳二と同年代の男たちが固まっているところへ腰を下ろした。渡されるままにレジャー用のプラコップを持たされ、そこにドバドバと瓶ビールを注がれてちょっと焦っている。

 その少し離れた場所では、女性陣と催し物担当の子供たちが、芳二が作った大量の差し入れを前にジュースやお茶で昼食としていた。祭り半纏(はんてん)にハチマキ姿の小学生男女、十数人が口いっぱいに頬張っているのは、おむすびだったり唐揚げだったり卵焼きだったり。思わぬところで美味しい料理にありつけ、彼らの頬は満足そうに持ち上がっていた。

 屋台の人たちも休憩といったところだった。大皿に大胆にドンと盛られたそれらを「どうですか?」と渡して歩く女性たちに礼を言いつつ、好みの料理をその手に取っている。

「それにしても、陽史がいきなり鍋を抱えて現れたときにゃ、驚いたわ」

 隣に座った五十代くらいの男性に言われ、陽史は少しばかりバツが悪い笑みを浮かべた。すでに呼び捨てである。でも、そこが問題じゃない。

「孫ってわけでもないんだろう? 知り合いにしちゃ歳が離れすぎてるし」

「はあ、まあ、なんていうか……」

「なんだよ、気持ち悪いな。はっきりしろ」

「いや、その……」

 第一便を持って行った際、どう説明しようか迷った末に、芳二とは〝ちょっとした知り合い〟とだけ説明していたのだ。すぐに「まだまだありますから取ってきます」と逃げるように引き返し、を何度も繰り返していたので、次第にそのことはうやむやになっていったが、改めて問われると、なかなかどうして説明のしようがなくて困る。

「メシ友だ」

 するとそこに芳二が口を挟んだ。

「メシ友……? って、そりゃなんだい」

 芳二に瓶ビールを注いだ年配男性が、怪訝そうに芳二の顔を見る。

「その名の通り、ただメシを食う友人のことだ。たまにはわしにだって若いモンと飲み食いしたいときがあるんだ。別にいいだろう、もう女房もおらんのだし」

「芳二さんっ」

 助け舟を出してくれたのは嬉しいが、またそんな言い方をして、と陽史は思わず身を乗り出した。正直、今ここで《派遣メシ友》のシステムを説明されてもちょっと困るので、ここは当たり障りなく〝メシ友〟とだけ紹介してくれたのはありがたい。けれど今の言い方では、捉えようによっては棘を感じる人もいるかもしれないし、嫌味に聞こえる人もいるかもしれない。現に場の空気が一瞬、ヒヤリと凍ったような気がした。

「……俺らとはメシを食いたくねえってのかい?」

 それまで楽しかった雰囲気が、質問を投げかけた年配男性のその一言で様変わりする。一触即発の雰囲気にハラハラするのは陽史だけじゃない。この中では若い部類に入るのだろう、そもそもの発端となった質問を投げかけた男性の顔からも笑みが消えた。

「いや。これまで近所付き合いは女房に任せっきりだったから、今さら付き合い方がわからなかっただけだ。今は、たまにはジジイ同士も悪くないと思っとる」

 しかし、芳二のその一言で再び場の空気が変わった。

 肝を冷やしていた陽史と男性はほっと息をつき、どちらからともなく視線を組み交わすと、なんとも言えない顔で笑い合う。どうやら今日の芳二は素直らしい。その芳二は前にも増してむっすりと不機嫌そうな顔でビールにちびちび口をつける。けれど、もうただの照れ隠しにしか見えず、緊張が走っていたそれぞれの心がふっと弛緩していった。

 例の年配男性も、芳二のその様子から言わんとすることがわかったようだった。意外なこともあるもんだとわずかばかり目を瞠ったのも束の間、まだ十分に残っている芳二のプラコップにビールを注ぎ足し、「飲め飲め!」と再び宴会仕様に戻る。

 その様子を見て陽史は、幸枝が生前、何十年にも渡って繋いできた近所との縁はまだまだ切れていなかったんだということをまざまざと見せつけられた気分だった。

 この人たちだって、幸枝を介して芳二と長年の付き合いがある。その幸枝が他界して七年。近所の人たちも近所の人たちで、娘も遠く一人者になってしまった芳二とどう新しく関係を築いていったらいいかと、手をこまねいていた七年でもあったのだろう。

 なにしろ、芳二は元来、素直な人ではない。先ほど売り言葉に買い言葉で一触即発の空気になりかけたことからも、芳二と歳の近い男性陣も、もれなくそうだ。これでは、心の中でどんなに心配していても喧嘩腰になるのは目に見えている。犬猿の仲というほどではないにせよ、顔を合わせれば何かと悶着があることをお互いにわかっていたからこそ、こうしてともに酒を手にするまでに長い時間がかかったのかもしれない。

 だって、芳二を「まあまあ」と止める人はもういないのだ。同情されたくないし、したくないという意地と見栄の張り合いを止める人も、もういないのだから。

「にしても、久しぶりだなあ、祭りがこんなに賑やかなのは」

「そうかい」

「幸枝さん印の差し入れも、あの頃の味と一つも変わっちゃいねえ」

「ふん。女房が残していった料理帳の通りに作っただけだがな」

「それでも懐かしいもんさ」

「……そうかい」

 美味そうに海苔入り卵焼きを頬張る年配男性に、芳二はしみじみ相づちを打つ。俯けたその顔は嬉しそうでもあり寂しそうでもあり、陽史の心はキュッと摘ままれる。

「ほらほら、陽史も食いな。まあ、作ったのは芳二さんだけどよ」

「あ、はいっ!」

 それを皮切りに、宴会はただの食事会のようになっていった。

 あれだけ大量だった料理はどれも全員の胃袋の中に収まり、残ったのは数個のおむすびと唐揚げ、あとはおでんの汁と、具を刺していた竹串くらいだろうか。陽史の胃も、もう何も入らないくらいに満腹に膨れ上がった。優に三日分は食べた気がする。

 それでも芳二と屋台で豪遊することは忘れず、腹ごなしにヨーヨー釣りに勤しんでいれば、なんとなく小腹が空いてくる。「……おいおい、まだ食う気か」と芳二や屋台の店主に呆れられながらもしっかり屋台の味も堪能したのだから、もう世話ない。

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