十九 さいごの日

 縁談の話を境に、慌しい日々が始まった。

 この町に来てからというもの離れに閉じこもりがちだったのに、信じられないくらい外出する機会が増えた。ほとんど足を踏み入れなかった母屋にも、頻繁に足を運ぶようになった。

 お茶やお花、お裁縫にお料理。嫁入りに必要なものを、彰子さんはすべて叩き込むつもりのようだ。

 慣れない新しいことをするのはひどく疲れたけれど、気を紛らわすのにはちょうど良かった。

 昼間は習い事に追われて忘れられる。でも夜になり、ひとりでこの離れで過ごしていると、どうしてもあの人のことばかり考えてしまう。


 あの人は、あの日を境に姿を現そうとしない。

 会いたいという気持ちと、会いたくないという気持ちが交錯する。でも、会ってしまったら、自分の中の何かが変わってしまいそうで怖かった。

 祖母の死肉を喰らう姿を見たのが、もうずいぶんと昔のように感じる。でも、あの恐ろしい光景は、今でもわたしの瞼の裏に焼き付いたように離れない。

 畳に飛び散った血飛沫。

 どす黒く染まった経帷子。

 大きな肉塊に食らいつく獣のような姿。

 身体中を鮮血で染めたあの人の恐ろしい姿。あの時見せた苦しげな瞳。

『みるな』

 絞り出すような苦渋に満ちた声。

『ここから去れ』

 あの時は、あんなに恐ろしく感じていたのに。今でも耳に残っているあの人の声は、あまりにも悲しげで、苦しげで。


 わたしは……どうかしてしまったのだろうか。こんなにも、あの人に会いたいなんて。

 あんなにも優しい葛木さんよりも、会いたくて堪らないなんて。

 あの人と会えない日が続いた。なのに月日だけはきちんと過ぎてゆく。年を越し、慌しいまま厳しい寒い日々が過ぎていった。

 ようやく梅の季節を迎え、かすかではあるけれど春の気配を肌で感じるようになった。

 そして、この家で過ごす最後の夜を迎えた。明日の朝、わたしは葛木家へ向かう。




「今日はゆっくりと休んでくださいね」

 温まるからと、妙さんが甘酒を持ってきてくれた。

「妙さん。今までありがとうございます」

「いいえ。でも……本当に良かったですね、お嬢さん」

 良いことなのだろうか。

 確かに、この家で隠居生活を送るよりは幾分ましだろう。少なくとも、葛木さんはわたしを望んでくれたのだから。

「……はい」

 そう。きっと良いことなのだろう。

 もっと嫁入りの日を迎えるのを、心待ちにしているべきだと思う。なのに心は嫁入りのことよりも違うことに向いてしまっていた。どんなに頭から切り離そうと努力しても、気がつくとあの人の姿を探していた。

 もう最後の日だというのに、あの人は来ない。

 夜が明ければ、もうあの人とは二度と会えない。そう、会えないのだ。

 会えなくなって、あの人の存在がわたしにとってどんなに大きくなっていたのか、今更になって思い知る。

 胸に大きな穴が空いたような虚脱感。ぼんやりしていると、知らないうちに涙を零している時もあった。

 ……なぜ、こんなにも会いたいと思うのだろう?

 自分の心がわからない。

 明日は早いのだから眠らなくてはと思うのに、布団にもぐり込んでも目は冴える一方。ちっとも眠れそうにない。


 暗闇の中、むくりと起き上がる。たちまち冷気に包まれ、ぶるりと肩が震えた。そのまま布団から抜け出し、冷えた畳を踏みしめ障子を開いた。ひたひたと廊下を伝い、そっと庭に面した雨戸を開いた。

 凛と凍てついた外気が頬を刺す。もう真っ暗なはずなのに、外がほんのり明るい。

「……ゆき?」

 雪だ。雪が降っていた。

 見慣れた庭は白い雪に覆われ、まるで知らない場所のようだ。裸の枝には綿帽子のような雪。剥きだしの土の上には、柔らかな雪化粧。

「きれい」

 素足のまま庭の上に降り立った。ふわりとした新雪の感触の後、冷たさが指先や足の裏からじわじわと広がってくる。

 舞い落ちる雪を受け止めようと、手のひらを差し出した。

 雪はふわりと手のひらに舞い落ち、すぐに溶けて消えてしまう。空を仰ぐと、視界一杯に白い雪。

 寒さを忘れて段々楽しくなってきた。幼い頃、降りしきる雪の中を駆けずり回ったり、雪だるまを作ったり、着物をずぶ濡れにしながら雪玉を投げあったりしたものだ。

 空を見上げたままくるくると回り、そのまま雪の中にあお向けに寝転がった。

 雪にまみれながら、小さな頃を思い出してくすくすと笑う。目を閉じて、雪がふわふわと頬をかすめる感触を楽しんでいた。

 こんなところを他の人に見られたら、きっとおかしな娘だと思われてしまいそう。

 そろそろ部屋に戻らないと、風邪を引いてしまう。風邪ひきの花嫁などみっともない。


 ふと、周りの空気が変わった。

 雪が止んだ……?

 そっと瞼を薄く開く。雪明りに浮かび上がったのは、雪と同じくらい白い腕。ぼろぼろの墨染め衣から伸びた、骨張った手が目の前にあった。


 ――――あの人だ。


 慌てて目を閉じた。どうやらわたしが目を開いたことに気がつかなかったようだ。

 両手を地面について、わたしの顔を覗き込んでいるのだろう。目を閉じていても、ぴりぴりとした視線が伝わってくる。わたしは息をするのも忘れ、身動きひとつ取れなくなっていた。

 わたしの冷え切った頬に、そっと何かが触れる。心臓が跳ねあがった。

 骨張った大きな手。氷のように冷たい指先が、わたしの髪に積もった雪をそっと払い除ける。

 誰なんて、聞かなくてもわかっていた。

 覚悟を決めると、ゆっくりと瞼を開く。

 雪の上に膝をついて、あの人はわたしを静かに見下ろしていた。

 ……やっと、会えた。

 唇が凍えて上手く言葉にならなかった。目の奥が熱い。

 ただ苦しかった。胸の奥がきりきりと痛い。言葉を発しようとすれば喉の奥が震える。

 目の奥に熱い涙が込み上げてくるのがわかる。見られたくなくて、彼から目を逸らすと、追い掛けるように彼の手が伸びて――冷えたわたしの頬を包み込む。

 冷たい手だった。大きくて、雪よりも冷たくて。なのに触れられた途端、胸の奥に火が灯る。

 堪えきれず涙が溢れた。

 目頭を伝い落ちる涙を、彼の細い指が受け止める。溢れ続けて止まろうとしない涙を拭うように、何度もそっとわたしの頬をなぞる。


「もう二度と、戻ってくるな」

 優しく頬を撫でながら、彼は低く囁いた。

「…………どうして?」

「このの家から出てゆくお前に…………もう用はない」

 ――もう用はない。

 たったひと言が、こんなにも胸に突き刺さる。

「じゃあ、今は?」

 寒さで強張った唇で、この人を繋ぎとめようと言葉を紡ぐ。

「今だったら……駄目?」

「同じことを言わせるな」

 彼は苦しげに目を伏せると、ゆらりと立ち上がった。

「戻ってくるから……」

 行かせまいと、すがりつくように叫んだ。

 白い雪を薄っすら身に纏った青年は、物言わぬ石像のように微動だにしない。

「絶対に戻ってくるから……お願い」

 戻ってくるな、なんて言わないで。

 用はない、なんて言わないで……!

 熱い涙が、頬を伝って雪の上に落ちた。

 拭っても拭っても、涙が溢れて止まらない。どうしてこんなに涙が出てくるのだろう。どうして、この人に必要ないと思われるのが、こんなにも悲しいのだろう?

 わかりたくなかった。でもわかってしまった。

 でも……この気持ちは気付いてはいけないもの。

 溢れる涙の意味は、心の奥に封をしなければならない。だから、あの人のことで泣くのは最後。ずっと死ぬまで、この胸にしまっておくから、今日だけは……。


「う……っ、く…………!」

 唇を噛みしめ、必死に泣き声を堪える。堪えた泣き声は涙となって、尽きることなく溢れだす。

 大地にすがるように、雪の上に伏し、久しぶりに子供のように泣きじゃくった。




 翌日、わたしは葛木さんのもとへ旅立った。そして、郡司由比から、葛木由比と名を変えた。

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