十六 花の名は


 わたし宛の手紙が届いた。味気のない白い封筒に、少しだけ右に傾いた文字でわたしの名前が記されていた。

 送り主は、もちろん葛木さんだ。

「お嬢さん。いいものが届きましたね」

 この間の方でしょう? と手紙を手渡しながら、妙さんは意味深に含み笑いをする。

「そんなのではありません」

 あの時の真剣な葛木さんの面持ちを思い出すと、自然と頬が熱くなる。

 妾の娘だとわかっても、葛木さんの態度は変わらなかった。とてもいい方だと思うし、素敵な方だと思う。

「多分、正平さんに頼まれたのよ」

 肩身の狭い腹違いの妹に情けを掛けてくれ、と頼まれたに違いない。

 きっと乗り気じゃなかったから、あんなに気分が悪そうだったのだろう。

「きっと、いい方なんだわ」

 思わず好意を持たれていると勘違いしてしまいそうだったが、日が経つにつれ冷静にそう判断を下す自分がいた。

 手紙の内容は、他愛のないお天気や季節の移り変わりについてや簡潔な近況報告だった。

 お世辞にも上手な字とは言い切れないけれど、几帳面で、真面目な気質が文字に現れている気がした。

 封筒には、まだ何かが入っているようだ。

 逆さまにしてみると、すとんと手のひらに落ちてきたのは、都忘れの押し花が入ったしおりだった。

「……きれい」

 厚紙と透かし紙に挟まれた都忘れの押し花は、花びらの紫色も鮮やかなままだ。

 もしかして手作りだろうかと思いながら、上にかざしてみたり、裏返してみたりする。

 よく考えてみたら、誰かに何かを頂くのは初めての経験だった。

 しかも大好きな初夏の花を、こうしていつでも見れるなんて。我ながら単純だとは思うけれど、やっぱり葛木さんはとてもいい方だと思った。


 いい方、というだけなの?


 自分の心に訊ねてみる。

 葛木さんから手紙を貰って嬉しいのは本当。

 本当だけれど、どこか心の底には後ろめたさに似たものが沈んでいるような感じ。


 ああ、もっと嬉しと思えたらいいのに。


 あの時の葛木さんの言葉や眼差しで、心がいっぱいになればいいのに。

 どんなにそう願っても、瞼を閉じると浮かんでくるのは葛木さんじゃない。墨染の衣を纏ったあの人が邪魔をする。

 どれだけ目を閉じていたのだろう。固く閉じていた瞼をゆっくりと開くと、辺りは淡い朱色に染まっていた。

 自分の手も、庭先に咲く草花も、土も、空も何もかも。

 けれど、わたしの目は庭の片隅に佇む黒い影帽子に釘付けになってしまう。

 この人の存在は、静かな水面にさざ波を立てる気まぐれな風のようだ。

 姿を、気配を感じるだけで、こんなにも気持ちが揺れ動いてしまう。心はいつだって、この人の方へと向いてしまう。

 ……悔しい。

 わたしの命が尽きる日を待ちわびているような相手のことを、こんなにも気にしてしまうなんて。

 どこにいるのだろうと、その姿を目で追ってしまうなんて。

 わたしは……本当に馬鹿みたいだ。

 もつれた黒髪が覆う背中を睨みつけていると、視線に気づいたかのように、ゆっくりとこちらを振り返った。

 たったそれだけのことだというのに、胸が締め付けられるように苦しいくせに、甘い思いが満ちていくような不思議な感覚に囚われる。

 こんな些細なことで心がいっぱいになるなんて、認めたくなかった。

 込み上げてくるこの気持ちが何なのかなんて知りたくもない。

 わたしは「その何か」を押さえつけるように、勢い良く庭先に降り立った。


「ほら、見て」

 無理やり明るい声を上げながら、夕陽色に染まったあの人の元へと駆け寄った。

「きれいでしょう?」

 葛木さんから貰ったしおりを、自慢げに差し出した。

 でも案の定返事はなく、虚ろな目をこちらに向けるだけだった。

 この人が、押し花のしおりなどに興味を示さないことなどわかっている。

「……きれいでしょう?」

 何度訊ねたところで、何か反応が返ってくるとは思えなかった。

 諦めてしおりを持った手を引っ込めようとした時、あの人の手が伸びてきた。

 わたしが持っているしおりを手に取ると、静かな目で見下ろす。

「この花の、名は?」

 驚いた。まさかの興味を示してくれるなんて思っていなかたから、すぐに言葉が出てこなかった。

「都、忘れ」

 やっとの思いで吐き出すと、あの人は不思議そうにくり返す。

「みやこ、わすれ?」

「この花の名前。きれいでしょう?」

 彼がわたしの話に興味を持ってくれたのが、また嬉しくてたまらなかった。

「ある方が、手紙と一緒に送ってくれたの」

 葛木さんが、と言い出すことができなかった。この人と葛木さんを重ねて見ていたことを見透かされそうで恥ずかしかったのかもしれない。

 すると突然、興味を失ったかのようにしおりをつき返してきた。

 一体どうしたのだろう。わたしが驚いている間に、あの人は背を向けてしまう。

「……っ」

 待って。

 喉まで出掛かった言葉を飲み込む。呼び止めても無駄だと知っていたから。

 色褪せた墨色の背中は、次第に深まりつつある夕闇の中へと溶け合うように消えてしまった。

 寂しい――なんて思わない。

 そもそも、自分が死ぬのを待ちわびている相手に「寂しい」と感じること事態がおかしいのだから。

 ――いつものことだ。

 それでも彼が消えた場所から、なかなか目を離せない。

「馬鹿みたい」

 馬鹿みたいじゃなくて、馬鹿だ。

 あの人が消えた庭先から無理やり視線を引き剥がすと、目元を手の甲でごしごしと擦った。

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