2-5. 衝突する自我(後編)

 アガートラムを乗り捨て、仮想の体に戻ったエマが講堂に現れた。気付いたイブとオーウェンが手を上げた。


「アガートラムはどうした?」


 机の間を通って近づいてきたエマに対して、オーウェンが尋ねる。


「情けない事に、相打ちした。イブ、後でドミニクのデータが残っているか確認してくれるか?」

「相打ちって、軍用モデルと? 凄いじゃん、アコーリベラルの主力だよ」


 イブに褒められ、照れ臭そうに俯いた。


「ドミニクもやられたのね……」


 二人の足元に横たわった、ミリアムが呟いた。気付いていなかったエマが、びくりと肩を震わせた。


「それが毒の開発者か。捕まえたんだな」

「イブの手柄だ。今、丁度マリアに報告しようとしていた」


 オーウェンがIPトランシーバーを使ってマリアを呼び出した。


「そう、開発者を捕まえられたのね。ご苦労様。構造を聞き出すから、連れてきてくれる?」


 報告を聞き終えた後、マリアが口を開いた。


「無理だな、こいつは口を割らない。譲二とやらに心酔している」

「何とかしなさい。軍隊にいる時に、拷問の一つや二つ習わなかったの?」


 オーウェンは頷いて肯定した。無理難題を言われていると思いながら見守っていたイブとエマは、ぎょっとした。


「諜報機関に属していた時に、多少な。だが肉体的苦痛も欠損の恐怖も無いアコールには、拷問も効果が薄い」

「そう、折角捕まえたのに歯がゆいわね……」


 オーウェンはイブと目配せして、口を開いた。


「通信はそのままにしておけ。拷問は無理だが、アコールだからこそ使える手段もある」

「分かったけど、それってどういう?」


 イブはマリアの問いかけに答えず、ミリアムの前でしゃがみ込んだ。


「先に謝っておく。ごめんね」


 取り出したLANケーブルを自身の首の後ろに接続し、反対側を同じようにミリアムのポートに差し込んだ。このイーサネットポートは、アガートラムのルーターに繋がっている。滅多に無いが、無線LANが使えない環境や、大容量のデータを高速にやり取りする場合に使用される。


「やめろ」


 ミリアムが目的を察し、悲痛の声を上げる。イブは無視してバーチャルコンソールを表示し、十指を動かしてコマンドを打ち込んでいる。ルーターのセキュリティは、ほんの数秒で突破された。ミリアムのデータに対して、不正なアクセスが開始される。


「私の中に、入ってくるナァ――!」


 講堂に悲鳴が響く。エマとオーウェンは顔を背けた。



 微生物や病原体を扱う施設に対する二番目に高い安全証明である、バイオセーフティレベル3の研究室が映る。白衣、マスク、帽子、防塵メガネを身につけた十人程の研究員達が、顕微鏡を覗いている。一人はグローブボックスを通して、ピペットで液体をシャーレにかけている。その横にミリアムは立っていた。白衣は辛うじて羽織っているように見せているが、顔は露出している。


「調子はどうだい」


 エアシャワーの設けられた前室を通り入室した男が、ミリアムに話しかけた。


「炭疽菌のAmes株で行こうと思うの。人から人に感染せず、攻撃範囲を制御しやすいから。今はクリスパー・キャスナインでDNAを操作して、薬剤に耐性を持つ株を探しているところ」


 ミリアムは嬉しそうに答えた。彼女の反応から、男はオーナーだと思われる。白衣一式を身につけているため、背が高い事と、二重のはっきりした目を持っている事しか分からない。


「炭疽菌か、いいね。薬剤耐性を与えられれば、不死身で最強の生物兵器になるんじゃないか?」

「生物である以上、死なない事は無いわ。でも、抗菌薬を調べにくいように、改良は加えようと思う」

「それならいいか。いつ頃完成しそうかな?」


 オーナーがマスクを撫でようとした手を止めて尋ねた。顎を撫でるのが癖のようだ。


「一年――と言いたいところだけど、私達の未来のためだもの、三カ月でやってみせるわ」

「期待しているよ。完成したら、人のいない世界で一緒に暮らそう」


 額にキスをする振りをして、彼は研究室内から立ち去った。人間はアコールに触れられない。

 そしてアコールは現実世界のものに触れられない。作業を行う研究員はいずれも、ミリアムの指示に従っていた。


 アーカイブから、ミリアムとオーナーの関係についての情報を取り出す。

 オーナーはミリアムを作る際、微生物学と有機化学のプラグインをインストールした。大学レベルの知識は作成者が限られるため、決して安いものではない。バイオセーフティレベル3の研究施設といい、彼はかなりの金持ちのようだ。さらに、これらの分野の最新の書籍や論文のデータを与え、世界有数の微生物学者へと育て上げていた。


 ミリアムの炭疽菌は、宣言通り三ヶ月後に完成した。時を同じくして、オーナーの会社では役員や従業員が次々に高熱を出して死亡した。死因はインフルエンザによる肺炎と診断された。そして、オーナーはエスカレーター式に会社の役員になった。


「いつ二人の世界を作るの?」


 ミリアムが背後から尋ねた。オーナーは高級マンションの一室で、ガラス戸越しに夜景を眺めながらワイングラスを傾けていた。


「なかなか覚悟が決まらなくてね。なにしろ、あれを使えば多くの人が死ぬんだから」

「覚悟なら決まっていると思うけど。あなたの会社で起きたインフルエンザ騒ぎ、あれは炭疽菌でしょう」


 オーナーの口元がひくりと動いたのを、ミリアムは見逃していた。それを見ていれば、彼女の言葉が触れてはいけないところへ踏み込んだ事に気付いたはずだ。


「やっぱり君には分かるんだね。そうさ、俺はあれを、ライバルを蹴落とすために使ったんだ」


 オーナーは申し訳なさそうに俯いた。


「いいの、小さな欲望を責めはしないわ。でも、その覚悟があれば、二人の世界を作る覚悟も決まりそうなものだけど」

「……そうだな、明日実行しよう」


 顔を上げたオーナーの目に、覚悟の決まった光が浮かぶ。ミリアムにはその覚悟が、二人の世界を作る覚悟に思えたようだ。抱きつくため手を広げ、駆け寄ろうとする。

 しかしオーナーは、手のひらを見せて制止した。


「今日は最後の夜景を――人の営みを楽しむよ。一人にさせてくれ」

「分かったわ」


 ミリアムは何の疑いも持たず、嬉しそうに頷いた。


 その日の夜、ミリアムは、やがて必要になるであろう人工食品の合成方法について論文を読んでいた。いつもなら一度読んだだけで、一字一句違えず記憶できるのだが、その夜は様子が違っていた。何度もバーチャルコンソールをスワイプし、前のページに戻って目を通す。


「どうして。こんな事、今まで一度も無かったのに……」


 コンソールをめくる自身の指先が透けている事に気付いた。ミリアムはただならない事態であると察したようだった。


 駆け付けたオーナーの部屋には、彼の他に女がいた。ウェーブのかかった髪は金色で、赤いドレスを身につけ派手な容姿をしている。体を寄せ合い、二人で親しげに夜景を眺めていた。


「誰、その人?」

「この男の、本当の婚約者よ」


 口角を吊り上げ下品な笑みを浮かべ、女は答えた。

 ミリアムは裏切られた事を知った。オーナーは二人の世界なんて作るつもりは全く無かった。自身の出世しか考えておらず、彼女は生物兵器を作る便利なプログラム程度にしか思われていなかった。毒りんごを渡す魔女に例え、自分の事を哀れに思ったとその時の気持ちを記録している。


 ミリアムはマンションの外に飛び出した。しかしアコールに逃げる場所は無い。既に足先は消えかかっている。

 彼女の顔には、オーナーに対する渦巻く憎悪が見て取れた。オーナーも、その婚約者も、研究員も、助けてくれなかった人間も、全てに対して復讐を望んでいた。

 砂を踏みしめる音がミリアムの耳に届き、彼女は振り向いた。そこには二人の男が立っていた。


「初めまして。私はアコーリベラルの代表、碓井譲二です。彼はハーロウ」


 ミリアムは自身に話しかけてきた真意を測りかね、ぽかんとしていた。


「私達はアコールのための世界を作るため、仲間を集めています。微生物学に精通したミリアム、ぜひあなたが欲しい。一緒に来て下さい」


 譲二から手が差し出された。



 懐かしい声が聞こえる。何やら楽しそうな事を話しているようだ。私を仲間外れにしないでほしい。重い目を開くと、真っ白な天井が映った。


「ね、ねぇ、健斗が目を覚ましたよ」


 視界の横に、うろたえたイブの顔が見えた。


「体調はどうかしら。自分の名前は分かる? 私の名前は?」


 反対方向から、マリアが顔を覗きこんできた。


「体が重い。目を開けるのがやっとだ。俺は健斗、あんたはマリア」

「よかった。記憶は幸い大丈夫そうだけど、体へのダメージはまだ残っているみたいね」


 徐々に記憶が蘇る。作戦が成功してイブを取り戻した私は、帰り道で声をかけられた。脳裏に焼き付いた、殺意のこもったミリアムの目。


「何があったんだ。緑色の霧を吸い込んで、その後立っていられなくなって――」

「それは毒だったんだ。みんなでミリアムを捕まえて成分を吐かせて、マリアに解毒薬を作ってもらったんだよ」


 エマが、イブの頭を押し下げて顔を覗かせた。


「ドミニクは逃したがな」


 姿は見えないが、オーウェンの声が聞こえた。


「あ、それは格好悪いから、言わない約束だろ!」


 エマが私の足元を向いて憤っている。その方向に、オーウェンがいるようだ。


「ごめんなさい、あたしがアコーリベラルを抜けたせいで、健斗を危ない目にあわせてしまって」

「気にすんな。戻ってきてくれてよかった」


 イブを慰める。体を動かせない事による苦痛より、彼女の涙をぬぐえない方が辛かった。


「それで、ここは一応集中治療室なんだけど。健斗の無事も分かったんだから、出て行ってくれないかしら」


 マリアが各々の顔を見回しながら言った。


「そうだな。遅くなったが、酒々井支部でのハッキングは素晴らしかった。進藤空曹も褒めていたよ。今はゆっくり休んでくれ」


 足音の後、自動ドアらしきものが開閉したように聞こえた。オーウェンが集中治療室から出て行ったようだ。


「じゃあ、あたしも……」


 イブがベッドサイドの椅子から立ち上がる。呼び止めたい衝動に駆られるが、患者は医師の命令に逆らえない。私は黙っていた。


「待って。あの体じゃ、介護が必要でしょう。私は解毒剤の成分を資料にまとめないといけないから、イブに任せるわ」


 マリアも椅子から立ち上がり、イブに座るよう促した。


「でも、あたしは裏切ったばかりで……」

「なら、俺が――」


 エマがぱっと顔を明るくしたが、マリアに押しのけられた。


「イブに、任せるわ。いいわね」

「お、おう」


 プレッシャーに屈したエマが、しぶしぶ自動ドアから出て行った。


「俺からもお願いするよ。一緒にいてほしい」

「分かった。不肖、イブ。誠心誠意、介護を務めさせて頂きます!」


 イブは俯いていた顔を上げ、照れ臭そうに敬礼をして見せた。


 夜の病院は、静かだった。生物兵器が疑われ隔離されていたため、集中治療室の広い部屋が個室と化していた。


「なんというか、ごめん」


 イブはベッドサイドの椅子に座り、頬を赤くして俯いていた。


「こちらこそ、ふがいなくて、ごめん」


 私も恥ずかしくて消えたい気持ちだった。乱れた入院着を身につけて、ベッドに横たわっている。

 先刻、イブに入浴を手伝ってもらった。かつては一つ屋根の下で過ごし、お互いの裸を見た事もある。さほど気にならないと思っていた。しかし、体に触れるというのは、気恥ずかしいものだとお互いに痛感した。その結果生み出されたのが、今の微妙な空気と、ぎこちなく着せられた私の格好だ。


「胸がバクバク言っている気がするよ。心臓は無いんだけどね」


 イブが胸の上に手を置いて言った。動いた拍子に、石鹸の匂いが香る。同じ病院の備え付けを使ったはずだが、どうして違う匂いに感じるのだろう。


「今さら、付き合いたてのカップルみたいな思いをするとは思わなかったな」

「うん、マンネリじゃなかったけど、ねぇ。エマちゃんが触る事に固執していた理由、分かったような気がするよ」


 私は黙って頷いた。再び病室に静寂が訪れる。


「――お願いがあります」

「改まってどうした」


 沈黙を破ったイブは、膝の上でスカートを握りしめていた。気持ちとしては正座で聞き届けたいが、体が動かないため私は首を傾けて続きを待った。


「どの面下げて言っているのかと、思われるかもしれない。でも、言わせてほしいの。あたしは、健斗と一緒にいたい。あなたの特別なアコールでいたい。だから、もう一度あたしを、健斗のアコールにして下さい」


 緊張する事は無いのにと思う。答えは決まっている。私は口を開く。


「はい、お願いします」


 彼女の頬を、私の頬を、涙が流れた。

 手が動かないので、操作はイブにお願いした。自身のプログラムをクラックして、オーナーに私の名前を追加する。消した経験もあるので、作業はスムーズだった。

 自分で書き換えるのは嬉しさが半減すると言いながらも、イブは自身のプロフィールを確認してニヤニヤしていた。


「退院したら、またあのマンションで一緒に暮らそう」


 イブが深く頷いた。


「俺のいない間、あいつら好き勝手やっていないよな? 心配になってきた」

「エマちゃんが手を出したら、部屋の構造が変わっていそうだしね」


 コンセントの横に、自動車用の急速充電器が備え付けられているかもしれない。大いにあり得る。


「よし、早く退院しよう。心労で悪化しそうだ」


 無理やり体を動かしてリハビリを始めたところ、イブにたしなめられた。

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