1-10. 瞳の中のシンギュラリティ(後編)

 スマートグラスに表示された地図上に描かれた、緑色の見回りルートと照らし合わせながら進む。上階から降りてくる足音が聞こえ、私達は配管の裏に隠れた。二人組の警備員が通路を歩いている。

 突如、爆発するような大きな音が聞こえた。窓ガラスがびりびりと振動する。警備員達は顔を見合わせると、直ちに入口の方へと走り去って行った。


「エマちゃんの方に行ったけど、大丈夫かな?」


 階段を上がりながらイブが尋ねる。


「戦いっぷりを見ただろ、エマなら大丈夫だよ。それより気になるのは――」

「あの爆発音よね。近くだったみたいだけど、何かあったのかしら。オーウェン、そちらから何か分かる?」


 マリアがメッセージを送ったが、返事は無かった。電波の状態が悪いらしい。

 地図上に『コントロールルーム』と書かれている部屋に辿り着いた。厚い鉄製の扉で厳重に守られている。文字の下、廊下と部屋の間の位置には、赤い円のマークが描かれている。カードキーによる認証が必要という意味だ。

 入口で拝借したカードキーをかざしたが、エラーコードが表示された。警備員の権限ではこの扉を開く事はできないようだ。

 私はノートパソコンを取り出し、四十四階で試みたのと同じようにカードリーダーのコネクタと接続した。事前の情報では、山王パークタワーと同じ古いシステムが使用されていると聞いていた。警備員のカードキーのIDから類推し、ブルートフォース――総当たりで認証を試みる。

 ERROR CODE [9]。ERROR CODE [9]。ERROR CODE [9]。ERROR CODE [9]。ERROR CODE [9]。ERROR CODE [9]。ERROR CODE [9]……。

 ノートパソコンのモニタに表示されているカウントが減っていき、ゼロになった。全てのパターンで認証に失敗した旨が画面に表示された。


「あれ、おかしいな」


 総当たりの範囲を広めて、もう一度ツールを実行する。

 ERROR CODE [9]。ERROR CODE [9]。ERROR CODE [9]。ERROR CODE [9]。ERROR CODE [9]。ERROR CODE [9]。ERROR CODE [9]……。

 増えるエラーコードと対称に、試行回数を示すカウントは減っていく。再び、認証に失敗した旨が画面に表示された。


「健斗。今までの試行から、カードキーのアルゴリズムを調べてみたんだけど、ちょっとまずいかも」


 イブがバーチャルコンソールをこちらに向けた。そこには、リバースエンジニアリングされたソースコードの一部が表示されていた。スワイプしながら目を通す。事前の情報とはまるで違う。この扉には、楕円曲線暗号が使用された、かなり厳重なロックがかかっている。

 再び爆発音が聞こえた。それと同時に、オーウェンからメッセージが届いた。


「緊急連絡だ。情報が漏れていたらしい。その基地局は、組織犯罪対策課の襲撃を受けている」


 私は耳を疑った。コンソールを開き、基地局の入口に設置されていた監視カメラをクラックする。

 そこでは、炎が上がっていた。入口はシールドを構えた無数の警官達に囲まれている。アガートラムがたった一人で応戦しているが、満身創痍だ。左腕は千切れ、断面から火花を散らしている。


「ただちに撤退するんだ。脱出ルートは予定通り使用できる」


 オーウェンが声を荒げる。


「エマちゃんはどうなるの」

「アガートラムは諦め、健斗のルーターにエマのデータを移す。エマも聞いているな? 一度、アドホックネットワークの圏内に入――」

「馬鹿言うな、俺は退かないからな!」


 オーウェンの指示と被って、エマのメッセージが届いた。


「そんな事言ったって、あなたが堪えたところでコントロールルームには入れないのよ」


 いつも冷静なマリアが、この時ばかりは苛立たしそうに頭を掻いていた。

 私は再度ノートパソコンに向かった。イブも隣に座って、コンソールに手を被せる。


「イブ、もう一度頼む」

「分かった」

「あんた達まで……」


 マリアは呆然と立ち尽くしている。


「マリア、なんとか説得して連れ出すんだ」


 オーウェンは私達の説得を諦め、マリアに対象を絞ったようだ。


「無理な事くらい、そこからでも分かるでしょう。私も最善の行動を考えるから、そっちもサポートよろしく」


 私達は再び、コントロールルームの扉の前に集まった。


「まだ俺達は、何も変えられていない。今日は何としても、あいつらの認めようとしない命が、確かにここにある事に気付いてもらうんだ。ここで退いて、ちっぽけなニュースとして扱われた日には、二度と俺は自分を許せない」


 エマのメッセージが届く。直後、再び爆発音が聞こえ、コンソールの映像が火に包まれた。

 これを逃せばチャンスは無いかもしれない、無理を通したいのは私達も同じ気持ちだ。


 コンソールに表示されたソースコードを計算式に書き起こす。

 二十世紀の後半に生み出された楕円曲線暗号は、特定の標数の解読は行われたもの、P対NP問題の解決しない現代で、未だに強固な安全性を保つ暗号である。


「それって、楕円曲線上の離散対数問題よね。標数は?」


 後ろから様子を見ていたマリアが尋ねてきた。


「二五六ビット」


 私は絶望的な数字を答えた。しかし、マリアはけろっとした顔でしばらく考えた後、口を開いた。


「それくらいなら、多項式時間で解ける計算式は求められると思うけど。それでも、そのパソコンじゃ数ヶ月はかかるわね」


 私はイブと顔を見合わせ、一斉にマリアを見た。


「やっぱりマリアは天才だよ! パソコンは何とかするから、計算式を頼む」


 私が書き起こしていた計算式の表示されているコンソールを、宙を滑らせてマリアに渡した。正しい計算式を求められるのか。エマが耐えている間に開錠出来るのか。分からないが、賭けるしかない。


「オーウェン、ここからだと回線が弱い。今から送るウィルスを、アドホックネットワークにありったけ流してくれるか」

「分かった。今の話を聞いて、アウトロマンサーの皆が動き始めてくれた。三分以内に、全国に流してみせる」


 オーウェンの声の裏で、慌ただしそうに指示を出す沙織や蓮の声が聞こえた。


「ゾンビマシンを作るんだね。過去の脆弱性は全て頭の中に入っているから、バックドアを作る処理はあたしに任せて」


 イブはカードキーのソースコードを横に弾いて、新たにプログラムを書き始めた。


「あぁ。俺は計算の自律分散処理をノートパソコンに組み込む」



 全国にばら撒かれたコンピュータウィルスの効果が出始めた。

 イブの作ったこのプログラムは、あらゆる脆弱性を試して、アップデートされていないセキュリティに問題のあるスマートグラスやパソコンを片っぱしからクラックする。所有者に気付かれないように、ほんの少し、いつもより処理が重く感じるくらいのリソースをもらい、楕円曲線暗号の解読に力を貸してもらう。プログラムごとに計算式は若干異なり、返ってきた答えを組み合わせることで解ける仕組みになっている。

 ゾンビマシンの計算結果が続々とノートパソコンに届く。私はすぐに、ウィルスの伝搬速度よりも、戻ってくる計算結果が多い事に気付いた。高性能のパソコンを持ち、効率的な計算も可能な誰かが助け船を出している。心当たりは一人しかいない。


「……儀利古もいるのか?」

「すまない、勝手に力を貸すと言い出してな」


 盗聴されている事前提で、オーウェンにメッセージを出したところ、苦々しい返事があった。


「相変わらず、無茶をしているようですね」


 マリアをめぐりハッカーとして戦った男の、懐かしい声が聞こえた。


「ありがとう、助かるよ」

「勘違いしないで下さいね。そんなところでマリア様を消させる訳にはいかないのです」


 照れ臭そうにしている男の顔が脳裏に浮かび、私は口角を上げた。


 計算結果が揃った。ノートパソコンにパスワードを打ち込み、カードリーダーに信号を送信する。重々しい金属音を立ててコントロールルームの鍵が開いた。


「エマは?」


 入口の監視カメラの映像をバーチャルコンソールに表示するが、煤で覆われてほとんど見えなかった。目を凝らすと、両手が砕かれ、足を引きずっているシルエットが見えた。


「開いたんだな。悪いがこっちはもう、足止めできそうにない。ちゃっちゃと終わらせろ」


 エマのメッセージが届いた。


「ありがとう。警官のスマートグラスを使って、こっちに来てくれ。全部終わったら、一緒に逃げよう」


 私達はコントロールルームに入った。大学の小さな講堂くらいの大きさで、電灯は点いておらず薄暗い。デスクトップパソコンとモニタの載った机が、均等な間隔で並べられている。正面の大型モニタには、都内の基地局の通信状態が表示されていた。

 一台のパソコンにUSBメモリを挿入し、用意していたコンピュータウィルスを流し込む。SCADAで構築された基幹システムは、事前情報から変わっていなかったようだ。事前に私達の襲撃を知って、カードリーダーのセキュリティを強化していたようだが、中に踏み込まれる事までは想定していなかったようだ。もしくは、全国のネットワークに関わる重要な施設なので、システムの変更は難しかったのかもしれない。

 コントロールルームの大型モニタにウィンドウが表示され、プログラムの処理結果が表示された。


 ネットワークの起点となる基地局の情報を書き換えれば、末端のネットワーク――すなわち日本の情報を全て書き換える事ができる。この基地局から、スマートグラスのシステムをアップデートする偽のプログラムを送信するとどうなるか。緊急レイヤの表示条件を下げて、緊急レイヤにMRが表示されるようになったら。

 そう、アコールは現実世界の存在になる。厳密には実体を持たないため、人間とは異なる。しかし、この国の在り方を変える大きな一歩になる。

 プログラムの準備が整い、画面の中央にボタンが表示された。ボタンには『THE SINGULARITY OF THE BEGINNING』と書かれている。シンギュラリティとは、人工知能の権威であるレイ・カーツワイル博士によって提唱された、人工知能が人間の脳を超える瞬間、技術的特異点の事を指す。人工知能が自らを改良する事で、技術が爆発的に進化し、世界は大きく変わるという。

 私とイブは『START』ボタンを推したが、マリアのたっての希望で半ば強引に書き換えられた。人工知能がシンギュラリティと言ってしまう辺りがクスッとくるポイントらしいが、人間の私にはよく分からない。

 私はパソコンのエンターキーの上に指を移動させた。


「守って、あたし達の世界を」


 イブが私の指に指を重ねる。


「これからは忙しくなるわよ」


 マリアが私の指に指を重ねる。

 物理的なボタンは私にしか押す事ができない。しかし彼女達は、私の罪の意識を背負おうとしてくれている。


 私達は迷わずに、エンターキーを押した。大型モニタに表示されていたボタンが消え、代わりに進捗を示すプログレスバーが表示された。

 横長の棒が青色に変わっていく。全国の基地局へとアップデートプログラムが伝わっている。

 横長の棒がほとんど青色に変わる。人々の持つ端末へとデータが伝わっている。スマートグラスのプログラムがアップデートされている。

 プログレスバーが終端まで到達した。人間の世界と、彼女達の世界が混じり合った。

 オーウェンにメイルストロム作戦が完了した事を伝えると、ヒアラブルデバイスの向こうで歓声が上がった。日本は変わると、私達は信じている。



「そろそろかな」


 イブが呟いたのを合図にしたかのように、パソコンに挿したままになっていたUSBメモリからプログラムが起動し、大型モニタに再度プログレスバーが表示された。何かのプログラムが、再び基地局から全国に向けて送信されている。


「イブがやったのか。何をしたんだ?」


 作戦は終わりで、あとはエマを連れて逃げるだけのはずだった。イブの行動は寝耳に水だった。


「ごめんね、健斗。あたし達の関係は、しばらく終了」


 イブはそう言って、バーチャルコンソールを数回叩いた。

 嫌な予感がして、私は自分のコンソールにイブのプロフィール画面を表示した。オーナーの項目から、私の名前が消えていた。


「アコールがオーナーの元を離れるのは、AIの原則に反するはずじゃ。それに、その技は教えていない」


 私の頭は混乱していた。イブが自らの意思で、私の元を離れようとしている。つい先程まで、いつも通り仲良くしていたはずなのに、どうしてこんな事になったのか。


「やっぱり、あたしの方がハッキングがうまくなっていたって、気付いてなかったんだね。枷にしかならないAIの原則なんて、とっくにクラックしてるよ」

「イブ、あなたどうしちゃったの?」


 マリアが心配そうに尋ねる。


「マリアちゃんも言ってたよね、今までのやり方ではぬるいって。正しいよ、あたし達はためらわない」


 『達』。その言葉の意味を、直後に知る事になった。

 スマートグラス上に固定モニタが表示された。照明下に男の胸から上が映っている。髪は白いが、皺の少ない肌や綺麗な白目から若そうに見える。背景にはスマートグラスの検閲対象であるはずの旭日旗が掲げられている。


「何が起こっている? 全員に見えているようだが、そこから送っているのか」


 オーウェンからメッセージが届いた。イブと睨み合う私に、返事をする余裕は無かった。


「初めまして、日本国民の皆さん。アコーリベラルの代表、碓井譲二です」


 白髪の男が口を開いた。フォーラムでのマリアの説明を思い出す。アコーリベラルは、アコール推進派の団体だと聞いていた。


「これまで私達は、平和的な手段でアコールとの共存を訴えかけてきました。しかし規制派の皆さんは、私達の声に耳を貸そうとしないばかりか、アコールの規制を進め、私達を排斥しようとしました」


 碓井は悲しそうに説明していたが、急に眉を吊り上げた。計算し尽くされた所作のようで、目を離す事ができない。


「温和な私も、今回ばかりは、立ち上がらずにいられませんでした。手始めに、皆さんのスマートグラスのプログラムを書き換えました。スマートグラスを無効にしても、アコールの姿が映るようになったと思います」


 やられたと思った。フォーラムの事を伏せて計画を実行したが、逆手に取られてアコーリベラルの功績にされてしまった。力を持っている事が印象付けられ、発言がさらなる力を持つ。


「これはほんの、始まりに過ぎません。アコールの皆さん、アコールを愛する人間の皆さん、もうびくびくする必要はありません。私達の元に集って下さい。望む者には、規制派を退ける力を授けましょう。私はここに、アコールとオーナーだけの国を建国します」


 碓井が両腕を上げると、コンソールと眼前から拍手の音が響いた。


「お前がやったのか。あのふざけた映像を、全国に流したんだな」


 自身のコンソールに向かって手を叩き続けているイブに話しかける。


「ふざけてなんかいないよ。譲二さんなら、必ず人とアコールが共存できる世界を作ってくれる」

「お前らまだ逃げていないのか、警官がドアの前まで来ているぞ」


 オーウェンのメッセージが届いた。自分達の置かれている状況を思い出した。コンソールからハッキングを仕掛け、警官のスマートグラスに息をひそめているエマのデータを、私のスマートグラスに移した。コントロールルーム内にエマの姿が現れる。


「一緒にアコーリベラルに来てくれる?」


 イブが私に向かって尋ねた。


「無理だ」

「そう言うと思ったよ。この国を整えたら、また迎えに来るね」


 忽然とイブの姿が消えた。私のスマートグラスのルーターに彼女の残滓は無かった。基地局か警官のスマートグラスを辿って逃げたのだろう。

 コントロールルームのドアが叩かれ、鈍い音が部屋の中に響いた。管理者のID番号を変更したため、正しいICタグでも開かなくなっており、少しは時間稼ぎになるはずだ。

 廊下からチェーンソーの回転音が聞こえた。いや、時間稼ぎにはならないかもしれない。


 そこから先は、頭が一杯になってしまって、よく覚えていない。

 机の上のパソコンを踏み台にし、天井の点検口を開いて上体を差し込んだ。ダクトは基地局の入口近くに繋がっていた。

 外で見張っていた警官二名に、オーウェンがIPトランシーバを通して突入するように指示を出した。

 オーウェンには警察のインフラを使用する権限がまだ残っていた。無断欠勤が続いていようが、しかるべきルートで手続きを進めなければ、懲戒解雇にできない。初めてお役所仕事が役に立った。

 見張りのいなくなった屋上を走り、オーウェンの情報通りに設置されていた清掃用のゴンドラを使用して、ビルの下まで降りた。幸いと言うべきか、忌わしくもと言うべきか、アコーリベラルのメッセージのせいで地上は混乱しており、悠々と街行く人に紛れる事ができた。


 そして、イブは私の前からいなくなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る