第十四話[たくらみ]

 ナースステーションが騒がしい。漏れ聞こえてくる言葉の断片をつなげば、どうやら人が散ったらしい。それも屋上で。はた迷惑な奴、と思いつつも羨ましい。遮るもののない明るい場所で死ぬなんて素敵じゃないか。今日は快晴で風も穏やかだ。その情景は鮮やかに脳裏に浮かぶ。うん、ちょっとした映画みたい。短篇のネタにでもしよう。

「伊藤さぁん、検査行きましょー」

 間延びした声で若い看護師が呼んだ。最近の女の子特有の、ぺっとりした喋り方。年齢なら私の方が下なのだけど、中身は自称オバサンだからそういう感覚になる。気おくれしながら嫉妬まじりにいくらか見下している、ような。

「はいはい、準備できてますよ」

 こまごまとした貴重品を入れたポシェットを斜め掛けする。ちなみにこれは祖母が手編みで作ってくれたものである。目に入るたびに謝罪会見でも開こうかと思うほどのいたたまれなさに苛まれる品物だ。本当に申し訳ありません、おばあさまより先にお暇するなんて。とはいえ放置するのも悪いし使い勝手も良いので愛用している。多少なりとも罪滅ぼしをしたいのだ。喜んでくれるなら何でも致す所存。

「伊藤さん髪切りましたぁ?」

「えぇ。気づきますか」

「前髪すごくイイですねー」

「あ、ありがとうございます」

 患者なんて山ほどいるだろうに、こういった細かな変化にも気づくのには感嘆するほかない。私が他者に対してあまり興味を深く抱けないから余計に。物語をするならば、いろいろな人を知って分析でもすべきなのだろうとは思う。でも覚えられないものは仕方ないじゃないか。診察室の外では担当医の顔も判別できない。

 廊下をずっと進んで、賑やかな外来を通り過ぎる。次第に人はまばらになって、薄暗い一角にたどり着く。突き当りのすりガラスの窓から弱く自然光が入って、リノリウムに鈍く反射する。濁った薄緑色の長椅子がとってつけたように置いてあった。すっかりなじみになった光景。検査技師が呼びに来る。扉の中は四角い部屋だ。椅子だけがある、三畳ほどのただの空間。私を座らせて技師は出ていく。照明が落とされる。ただし真っ暗にはならない。肌がふわりと光を帯びている。綺麗だとは断じて思わないが、ついつい眺め回したくなる類のものだ。私はこの先永遠に、真の暗闇を経験することはないのだと妙な感慨にふける。あまり動くと怒られるのは知っていて、だから思考だけが静かな部屋を走る。耳鳴り、鼓動、呼吸音。こんなにも生きていて、でも生きていた証拠なんて残らない。骨も肉も血も、全部ほどけて消えてしまうから。はたしてこれは不幸なことなのだろうか。魂の宿らない肉体に何の意味があるだろう。それとも、残された人は遺体に手を触れて涙を流さなくては折り合いをつけられないのだろうか。

「終わりましたよ。お疲れ様です」

 色のない声で技師が告げた。廊下を戻る。静寂から喧噪へ、それからまた慣れ親しんだ病棟へ。みんな光を発しながら、死を待ったりあがいたりする場所。いつの間にか家よりも落ち着くようになってしまったのが悲しい。境遇が似ているだけで仲間意識まで芽生えてしまうのも。沈みそうになった心を持ち上げるべく、部屋に帰らないでリハビリルームに向かう。致死性発光症の治療は今のところ、仮説に基づいて実験しているに過ぎない。原因も不明なら何が起きているかもはっきりしない。他の動物での再現ができない。効くかどうかもわからない薬やら何やらを私たち自身が試していくしかないのだ。未来のための礎になるのなら、と壮大な決意をしてみせたところで怖いものは怖い。そのうちのひとつ、一番気楽に付き合えているのが運動療法だった。末期にかけて体重が減ることから、筋肉を鍛えて増量することで予後を伸ばせるのではないかという論によるものだ。心臓も肺も手足も無事でよかった。更衣室でスポーツウェアに腕を通しながら考える。鏡に映る自分を見れば、どう見たって病人には見えない。引きしまったお腹、お尻、それから脚。力こぶだって出来る。元々地黒で、気分転換と称してよく外を走ったりしているので肌の色も濃い。

 明るいリハビリルームで、ゆっくりと動く人たちの中で鍛錬に励む。きちんとプログラムされた一時間のトレーニング。汗を流せば嫌なことも一緒に落ちていく気がした。こんなところで知るとは思わなかったが、どうも私は身体を動かすのが好きらしい。終わってタンパク質と水分を存分に摂り、シャワーを浴びる。どう考えても発症前より健康的な私。笑ってしまいそう。

 部屋に戻れば、朝まで空いていた隣のベッドに人がいた。カーテンが開きっぱなしで背中を向けて座っているのが丸見えだった。長い、艶やかな黒髪。すらりとしたシルエット。ベタなピンク色のパジャマ。きっとこれは美人さんである。わくわくしながら声をかけた。

「あの、こんにちは」

「あれっ、こんにちは」

 ぴくんと振り向いて、朗らかな挨拶が返ってくる。鈴を転がすようなってこういう声を言うのだろう。そして顔立ちも予想通り。明快な数式を当てはめられそうな鼻梁、ガラス細工のような虹彩をもつ線対称のふたつの目、口紅もグロスもリップクリームも必要なさそうな唇。うん、すばらしい。ひょっとしてこのお顔を毎日拝見できるの? 最高の一言に尽きる。簡単な自己紹介など済ませ、よろしくお願いしますと言い合えば、至極和やかに隣同士へ落ち着いた。

 それからというもの、昼間は間仕切りのカーテンを開いたままでお喋りしたり、お散歩に出かけたりと密な付き合いになった。まっさらに透き通った肌に浮かべる微笑みは胸が痛くなるほど好み。そして言葉の使い方がすごく優しく品の良い事にも気づく。そういえば時々本を読んでいるのを見かける。でもって、その光景も嫌というほど絵になるのだ。羨ましいなんてものではなくて身を焦がすほどの、憧れと呼んでも良いような衝動により、私はひたすらに彼女を視界に入れ続けた。

 ある日、彼女は私がいつもいじっているノートパソコンについて訊ねた。何をやっているの、と。小説、書いてるの。と短く答える。途端に彼女の瞳にかつてない光が灯った。見せてよ、とあどけなく笑う。渋い顔をよそおって期待に鼓動を速めながら画面を差し出した。思ったより長く見つめられて息が上がる。ランニングより負荷がありそうじゃない?

 長い潜水のような読書を終えて、彼女が顔を上げた。ため息じみた深呼吸を二度して感想をくれた。まずはぽつりぽつりと、次第に熱く激しく。私の内側を言い当てるような鋭い意見ばかりだった。自分すら気づいていないような深部まで、彼女の言葉の爪が届く。容姿が綺麗なだけではなくてこんなに聡明な一面もあるなんて。酔うほどに彼女の発言に打たれていた。彼女のすべてに価値があると思った。恋でも愛でもたとえられないほどに狂おしく好きだ。二人で何かできたらきっと素敵だろうね。無意識に呟きが落ちる。

「たとえば?」

「うぅん、思い切り世の中に爪痕を残してみたいなって。ね、顔貸してくれない?」

 彼女が瞼をかたく結んで顎を上げた。こんなに無防備だといたずらに口付けをしたくなる。やらないけど。

「ううん、違うの。二人で一つのものを作ってみたいんだ。それに井岡ちゃんの美しいお顔が必要なの」

「なぁに、それ」

 彼女はくしゃっと顔をほころばせる。いいよ、面白いことしようって続けてくれて、肩の力が抜ける。いっとき同室だった先輩の短歌を思い出していた。一度は生前、二度目は意外な形で目にすることになった作品たち。きっと私たち、いろんな意味で光になれるよ。

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