第41話 彼女の記憶 (前編)
気がつくと私は、どこかの学校の一室にいた。
初めて見る場所だった。室内には長机が並んでいて、脇にはイーゼルやキャンバスが置かれている。どうやらこの学校の美術室のようだった。
体を動かすことができなかった。いや、正確に言うと、今の私には体そのものがなかった。
ここには私の肉体はなくて、意識だけが存在していた。景色は映り、音は聞こえ、室内に漂う絵の具の臭いだって感じることができる。だけどただ感じるだけで、自らは何もすることができない。まるで夢の中にいるようだった。
自分の意思とは関係なく、視界は勝手に動いている。その中に一人、知っている顔があった。
(朝霧君……)
思わず呟く。だけど声にはならない。今の私にできるのは、ただ目の前の光景を眺めることだけだった。
朝霧君はさっきまで見ていたような夏服ではなく、学ランを着ていた。うちの学校の冬服はブレザーだから、初めて見る格好だ。身長も今よりも低くて、顔つきもわずかに幼い。
朝霧君は私に気づくことなく、黙々と絵を描いている。差し込む日差しやあたりの様子から、どうやら放課後のようだった。
美術室の中には朝霧君一人しかいなくて、外から聞こえてくる喧騒も、どこか遠くに感じる。まるでこの一室だけが、世界から切り離されているようだった。
そんな静けさの中、出入り口の戸を開く音が響いた。
一人の女子生徒が入ってくる。癖のある髪と、すらりとした足、鶴羽明菜だった。
ただしこちらも顔つきはわずかに幼くて、着ている制服も違っていた。
(中学生のころの二人だ)
理屈でなく、感覚的にそう理解した。今ここにある景色は、自分の中に入り込んできた恨縄を通じて流れ込んできた、鶴羽さんの記憶だった。
「それって、この前授業で写生に行った時のやつでしょ。まだ終わってなかったの?」
鶴羽さんは朝霧君の顔を見ると、驚いたように言う。私の知っている彼女とは違い、明るくて朗らかな印象を受ける。
私は恨縄に取りつかれた彼女しか見ていないけど、きっとこれが彼女本来の性格なのだろう。
「絵を描くのは嫌いじゃないけど、時間がかかる」
「適当に色塗って提出すれば良いのに。みんなそうしてるよ」
そう言って彼女は朝霧君の絵を覗きこむ。どこかの神社の絵のようだ。所々、まだ色が塗られていない場所が残っているけど、その絵を見て綺麗だと思った。
「結構うまいじゃない」
「そうか?」
「私、これでも美術部だから少しは分かるつもりだよ。まあ美術部って言ってもほとんど幽霊部員しかいないし、まともな活動もあんまりしてないけどね」
鶴羽さんはそう言って笑うと、自身の画材道具を下ろす。どうやら彼女は、まともに部活をやっているようだった。
「これって……」
鶴羽さんは再び朝霧君の絵を眺めると、ある一か所に目を止めた。神社の壁の部分に、不自然な色の部分があった。全体の色使いが奇麗なため、余計にそれが目立つ。
「やっぱり変かな」
朝霧君は困ったように、そしてどこか寂しそうに言う。私にはそんな朝霧くんの様子に思い当たることがあった。
妖怪の見える私の目は、時折妖怪だけでなく、他の人とは違う景色を映すことがあった。誰かと同じものを見たとしても、私の目に映るそれは、色や形が他の人の言うものとは異なっていた。
何かの云われがある場所や、お寺や神社といった神聖な場所では特にそれが多かった。
その絵に描かれている色や形も、たぶん朝霧君の目に映ったものをそのまま描いたのだろう。けれどそれは他の目には映ることはない。今のように誰かから指摘されても、勘違いだとごまかすだけだ。
だけど鶴羽さんは首を横に振った。
「いいんじゃないの。朝霧君がそう見えたんならそれで。写真じゃないんだし、一人一人見え方が違うんだって思えて、私は好きだな」
朝霧君はそれを聞いて一瞬驚いた表情をしたけど、やがて小さく笑った。
「……ありがとう」
今と変わらない、穏やかな笑顔だった。
その仕草を見て、鶴羽さんの頬にさっと赤みが差し、そっと顔をそむけた。
「ねえ、朝霧君……」
鶴羽さんが再び朝霧君の方を向く。意を決したような、それでいてどこか可愛さが混じったような顔をしている。
私は恋愛経験なんてないけど、鶴羽さんが朝霧君のことがずっと前から好きだったと知っている。そう思って見ていると、今の彼女の表情が恋する少女のそれだということはすぐにわかった。きっと、この時から既に好きだったのだろう。
朝霧君が顔を向けたのを見て、鶴羽さんが口を開こうとしたけれど、それを遮るように、備え付けられていたスピーカーからチャイムの音が響いた。
「——————っ!」
チャイムの音に驚いたのか、鶴羽さんは無言のまま、口だけをパクパクと動かしながら体を硬直させた。朝霧君は、不思議そうな顔をしながらそれを見ている。
「ごめんね、描いている途中なのに話しかけて」
鶴羽さんは慌ててそう言うと、いそいそと教室の隅にあるシンクへと移動し、水入れに水を汲み始めた。朝霧君からは見えないだろうけど、その顔は赤く染まり、何度も激しく息を吸っていた。
何というか、傍からそれを眺めていると、見ている方が恥ずかしくなるくらい純情だ。告白したというのが高校に入ってからというのだから、これからも当分の間言いだせないでいたのだろう。
そのことが微笑ましくもあり、その結末を思うと切なくもあった。
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