第三章 過去との邂逅



 他人だらけの街の中


 重い身体を引き摺って


 冷たい空気を吸い込んだ


 見上げた狭い空の先


 かつての私が笑った気がした





 自然と身体が玄関へと向かってしまったのは染み付いた奴隷根性のせいか、それとも「今日で辞める」ということは少なくとも今日の分の仕事は終えなくてはいけないという義務感のせいか。

 どちらかは分からないが、僕は彼女に先んじてドアへと向かい、また鉄を軋ませながら扉を開けた。

 そこには随分と懐かしい顔があった。


 「―――あさひくん……?」

 「―――……弥生ちゃん?」


 てっきり先ほどの少女が戻ってきたものだと思っていたので、その見知った顔立ちに時間さえも止まった気がした。

 中学生にも見える、幼い顔立ち。大きな瞳と、気弱な印象を与えてくる口元。小柄なこともあって非常に男の庇護欲をそそるその雰囲気も、何年か前に別れた時のままだった。制服風のワンピースという良い意味で飾り気のない服のチョイスも変わらない。……それでも胸部だけは更に大きくなっているので、それもまた彼女らしかった。

 そう、僕はどちらかと言えば、こういうタイプの女子が好きなのだ。小柄で可愛らしいタイプの子が。

 「……本当に、本当に久しぶりだね……。って、もう子どもじゃないんだし、年上の人にこんな口調じゃ駄目だよね」

 「いいよ。今更敬語を使われても反応に困るから」

 彼女の名前は四条弥生。一つ年下で、僕の高校の頃のクラスメイトである四条飛鳥の妹だった。

 彼女達姉妹は僕と同じく幼い頃に両親を亡くしており、そしてこれも僕と同じく親戚に引き取られていた。そういったこともあって、高校時代は仲が良かった。

 「……で、いっこ訊いてもいいかな? なんで、あさひくん、ここにいるの?」

 「えーっと……」

 答えに詰まるが、僕にも訊きたいことがあった。

 「……そういう弥生ちゃんは?」

 「え? 私は……」

 黒い長髪を揺らして俯く。

 まさか、と考えた瞬間に、ぐいと肩を掴まれ後ろへと追いやられた。その手の主は勿論、斉藤狼子。

 「……仕事の依頼だろ。入れよ。で、お前は出てろ」

 先ほどと同じようにそう指示されるも、先ほどとは違ったのは弥生ちゃんが、

 「できれば、あさひくんも一緒に……」

 と宣ったことだった。斉藤狼子は僕に目を遣り、ああこいつ旭ヶ丘って名前だったっけ、というような表情をしてから言った。

 「いいよ、お前がいいならな。じゃあ、二人とも中に入れ」





 あまりにも何もないコンクリート打ちっぱなしの一室に弥生ちゃんは戸惑ったらしい。こんな工事現場みたいな部屋に通されても何処に座れば良いか分からない。その気持ちは痛いほど理解できた。とりあえず、まだスーツケースに入れていなかった自分用のクッションを彼女に薦める。

 斉藤狼子はと言えば、いつも通り、部屋の片隅に置いた自分用のソファーに腰掛けていた。他人は地べたで自分は椅子。依頼人の前で恐ろしく尊大だ。とんだ個人事業主もいたものである。

 「……あー、お前みたいな女子が何処であたしの情報を知ったかは訊かないでおく。……で? これだけは一応確認しておくが、あたしの職業、分かってるんだろうな」

 そう問われて弥生ちゃんは小さく頷いた。

 「何でも屋さん……ですよね」

 「違う」

 即答する斉藤狼子。

 「百歩譲って『事件屋』『揉め事処理屋』ならそう言えなくもないが、『何でも屋』は違う。何でもやってくれるのはそっちの男の方だ」

 「え? そうなの、あさひくん」

 「いや、なんと言うか……」

 そう言われると否定しにくく、実に説明しづらい。

 「あー、まあそれは冗談だが、で? 仮にあたしが何でも屋だとして、お前はあたしに何をさせたいんだ? おつかいくらいならそこの男がやってくれるだろう」

 「そうなの?」

 「いや、なんと言うか……」

 冗談だ、ともう一度言って、彼女は閑話休題する。

 「とりあえず依頼内容を言え。請けるかどうかはそれからだ」

 「依頼……依頼内容、は……」

 黒髪の少女は一つ、大きく深呼吸をする。それに伴い豊かな胸部が上下し、視線が自然にそこに吸い寄せられ、次いで斉藤狼子の嘲笑を含んだ視線が僕に突き刺さった。

 「へえ、なるほどねえ、そういう子が好みなのかお前」――とは口にしなかったが、琥珀色の瞳が何よりも雄弁に語っていた。

 やがて、弥生ちゃんは口を開いた。

 「……姉の。姉の、四条飛鳥を止めて欲しいんです」

 「止めて欲しい?」

 「飛鳥を?」

 僕と斉藤狼子の反応に頷く。

 「最初に、最初に一応聞いておきたいんだけど、あさひくん、お姉ちゃんから連絡貰ってないよね?」

 「え? 高校卒業した後すぐに一度会ったきりだけど……」

 大学一回生のゴールデンウイーク。おじさんの家に帰った際、僕は駅で四条飛鳥と再会した。三年間同じクラスで、一応同じ部活に所属し、それなりに仲が良かった相手であっても、卒業してしまえば連絡が途絶えてしまうこともある。飛鳥と会うのは卒業式以来だった。

 『ヒサ。キミは今何処にいるんだっけ』『京都の大学だよ。飛鳥は?』『ボクはフリーターかな。でも……』『え?』『いや、なんでもない』――ファーストフード店で交わした会話を思い出す。

 『またいつか、ボクの音楽を聴いてくれ』。

  昔の仲間数人でカラオケ屋に行った帰りに、そう彼女が笑ったことを覚えている。

 「お姉ちゃん、あさひくんと会ったその後に失踪したんです」

 「失踪? そんな話、全然……」

 「あ、でも違う、違うんです!」

 大袈裟に手を振り、続ける。

 「失踪って言っても、広芝のおじさんの家からいなくなっただけで……。定期的にメールや手紙は来てたし、東京で働いてる、って言ってたから……」

 「で、その東京に行ったお姉ちゃんがどうしたって?」

 「あの私……私、姉がギターをやっていた影響もあって、音楽が好きなんです。それでネットや雑誌でインディーズのグループを調べたり曲を聞いたりするんですけど……。あるロックバンドのボーカルがお姉ちゃんだったんです。『フリーダム・ライダーズ』っていうんですけど」

 ……『フリーダム・ライダーズ』、か。

 米国の公民権運動の際に同じ単語が使われていた気がするが、どういう意味だっただろうか。

 「……東京に行った姉貴が、何をしているのかと思えばバンドのボーカルやってて、そのバンドが雑誌なりネットサイトなりに載ってたって?」

 「はい……」

 「良かったね、おめでとう。じゃあお帰りはあちらだ」

 斉藤狼子は面倒そうに出口の方を指差した。冷たい対応だが、気持ちは分かる。「いなくなった姉がロックバンドのボーカルをやっていた」とだけ聞かされても、そういう夢があったんだろう、叶えられて良かったじゃないかとしか言えない。

 飛鳥の歌声を思い出す。力強く、何処までも届きそうで、少しハスキーな彼女の声を。学園祭でのライブは毎年大好評だった。

 「あー、あのな、お嬢ちゃん。あたしだって馬鹿じゃないんだ。お前の顔を見るだけで何か大変な事態だってことは分かってるんだよ。だから細かな情報は後でいいから、端的に姉の何を心配していて、姉の何を止めて欲しいのかを言え」

 鋭い狼の目を向けられ、弥生ちゃんは真っ直ぐに前を向いた。何処までも流されていってしまいそうな見掛けに反して強固な意思を秘めた子なのだ。頑固とも言うが。

 四条弥生は言う。何を止めて欲しいのかを。

 「……姉が、人を殺すのを止めて欲しいんです」

 人を、殺す。

 飛鳥が?

 なんの冗談だと思った。

 けれど、弥生ちゃんの瞳は真剣そのもので。

 「……続けろよ」

 「姉が『フリーダム・ライダーズ』のボーカルだって言いましたよね。噂で聞いただけなんですけど、そのバンドがファンを率いて犯罪をしているらしいんです。しかも、結構大きなものを」

 「そりゃロックなことだな。自分の歌の真似して盗んだバイクで走り出すようなファンが出りゃ、ロックシンガーとしちゃ冥利に尽きるだろう」

 随分と古い日本人アーティストを連想しつつ斉藤狼子はそんな感想を述べた。

 「私も、私も最初はただの冗談やデマの類だと思ってたんです。でも、それにしてはやけにそういう噂が多くて……」

 「でも弥生ちゃん、所詮は噂だろう?」

 「うん……。でも、でもね、あさひくん。この間来たお姉ちゃんからのメール、見てみて?」

 そう言って彼女は手提げ鞄から取り出したスマートフォンを操作し、僕に手渡す。

 流行りの会話アプリを使わない辺りがひねたところのあった飛鳥らしいな、と思うも一瞬、アドレスからその送信先がパソコンであることを理解する。

 『弥生へ。もう私のことは忘れろ。欲しがっていた服はお前にやる。それじゃ元気で』――メールの内容はそれだけだった。

 「これは……」

 弥生ちゃんが語った噂の真偽のほどは分からない。ただ、このメールは何か嫌な予感がする。

 というよりもこれは――明らかに死のうとしている人間のメッセージだ。

 あるいは、何か事件を起こし、もう家には帰れないと思っている人間の言葉。

 「メールに返信しても返事はないし、携帯電話はずっと着信拒否になってて……。でも警察に話をしても、実際に東京でバンド活動をやっている以上、所在がはっきりしているから探してくれるはずもないし。おじさん達もおんなじで、『音楽の道でやっていくから家には帰らない』って意味だろって……」

 確かに、そういう意味にも取れなくはない。

 ミュージシャンや俳優、あるいは芸人の中には勘当同然で実家を追い出されてまで夢を追い続けたという逸話を持つ人間がいくらでもいる。一つの決意表明として、「一人前になるまでは家に帰らない」と周囲に宣言するのは理解できないわけではない。

 ただ、これは本当にそういう類のものなのだろうか?

 もし、そうではなかったら?

 もし飛鳥が取り返しの付かないことをした後で、そういう意味ではなかったのだと気付いたら?

 「……家に帰ってないっつっても、ライブはやってるんだろ。そこには行ったのか?」

 「一昨日ライブがあったので行ってみました。行ったんですけど、入り口で追い返されてしまって……。私が来ても中に入れないように警備の人に伝えてあったらしいんです」

 「…………」

 斉藤狼子は、黙る。

 彼女の中に生まれた危惧は恐らく僕と同じものだろう。

 飛鳥がミュージシャンとしてやっていこうと考えていたのだとしたら、あんなメールは送っていないのではないだろうか? だって、あんな文面を読めば飛鳥のことをよく知る妹の弥生ちゃんは心配する。ライブ会場に来ようとするのも無理はない。けれど、会場には入れず、話もしない。

 どういうことだ?

 妹に来て欲しくない、会いたくないのならば、あんな意味深なメールは送らなければ良かったのだ。実際問題としてメールが送られてくるまでは弥生ちゃんもここまで心配していなかったのだから。

 たまたま、飛鳥がその日の気分でああいった言葉を選んだ? なるほど、そうかもしれない。アイツは音楽が好きなだけあって妙に詩的で気取った言い回しをすることがあった。妹に会いたくないのは決意が鈍りそうだからかもしれない。

 でも、だけど。

 もし――そうじゃなかったら?

 「もしかしたら……もしかしたら全部私の思い過して、心配のし過ぎなのかもしれません。だけど、私にはお姉ちゃんが何か取り返しの付かないことをするつもりのようにしか思えないんです」

 そうして四条弥生は言う。

 「私にはお姉ちゃんが何をするつもりなのか分かりません。分かりませんけど、何か大変なことをするつもりなのなら……それを止めて欲しいんです。仮にお姉ちゃんが死ぬつもりなのなら、お姉ちゃんが自分を殺す前に――それを止めて欲しいんです。私はお姉ちゃんに戻ってきて欲しいんです。だから……!」

 お願いします、と。

 瞳を潤ませ、彼女は頭を下げる。

 僕は斉藤狼子を見た。狼のような瞳を持つ彼女を。殺し屋である彼女を。

 そいつの選択だろ、あたしが知るか、会いたいなら自分で探せ、彼女はそう言うだろうか? ……いや、言わないだろう。なんとなくそんな確信があった。

 「……一件百万からだ。お前、見てくれは良いからその気になれば一年で稼げるだろ。勿論、失敗した場合に料金はいらない」

 一拍置いて琥珀色の瞳の少女は言った。

 「依頼内容は『お前の姉貴が何かを起こす前に、その意思を殺し、お前の待つ家に帰すこと』。……これでいいな?」

 それは紛れもなく了承の言葉だった。

 弥生ちゃんを帰らせた後で斉藤狼子は言った。

 「……お前、あの姉妹と知り合いなんだろ。どんな人間だったか話せ」

 と、そう口にした刹那、彼女は天井を見上げて呟く。やっぱいいわ、と。

 依頼人がやって来る前のやり取りで僕との雇用契約が切れていたことを思い出したのだろう。そういうところは妙に律儀なのだ、この斉藤狼子という人は。

 だから僕は逆に頼むことにする。

 「……さっき、『辞める』って言ったよな。あれ、取り消してもいいかな?」

 「取り消す?」

 「取り消すって言うより、延期、か。勝手なことを言ってるのは分かってる。……でも、もう少しだけ。飛鳥の件が解決するまでは、ここにいたいんだ」

 「友達だから放っておけないってわけか」

 「そうだ。友達だから放っておけないし、友達だから、何か酷いことが起きそうなら止めたい」

 「友達だから、か」

 「ああ。友達だから」

 琥珀色の瞳は僕の中の何を捉えたのだろう。少なくともそこにある感情が侮蔑でも嘲笑でもないことは分かった。

 友達だから、助けたい。それは僕と彼女が話題にした資本主義や倫理観とは全く離れた感覚だ。

 そう、ただの人間としての当たり前の心情だった。

 金蘭の契りという言葉がある。刎頸の交わりと同じく深い友情を意味する言葉だ。刎頸の交わりの場合ならば「その友の為ならば首を刎ねられても惜しくはない」という比喩だが、金蘭の契りは「金よりも堅く強く、蘭よりも芳しく美しい友情」という形容である。

 「どんなに愛されていたとしてもそれが一文にもならなければ生きていけない。そうアンタは言った」

 「ああ、言った」

 「僕には親子の情は、正直分からない。でも、僕は友達の為ならば一文の得にならなくとも――たとえ損になったとしても、動きたいと思うんだ」

 僕は「金蘭の契り」という言葉における金が鉱物としての金なのか、それとも金銭としての金なのか、寡聞にして知らない。けれど、どちらでも良い。

 どちらの金よりも、友情には価値がある。そう思っているからだ。

 「……その四条飛鳥って奴は幸せだな。お前みたいな友達がいて」

 「そうか?」

 「頻繁に連絡を取り合わずとも、自分に何かあれば道理を曲げてでも駈け付けてくれる人間……。そういう友達がいる奴は少ない。あー、市場原理的には稀少なものには価値が出るんだったか?」

 「まあ、そう言えなくもないかな」

 「だったらお前の心情にはある意味で金銭的な価値があるんだろう」

 そんな風に纏めて、斉藤狼子は頷いた。

 「いいぜ。辞める辞めないという話は一旦なしだ。あー、まあ、この一件が解決するまではな」

 「ありがとう」

 「礼代わりにその四条飛鳥ってお前の友達のことを話せ」

 部屋の片隅に放置してあった小型のノートパソコンを引き寄せ、彼女は言った。





 四条飛鳥。

 彼女のことについて他人に話す際、僕は大抵「とても歌の上手い女友達がいる」と説明するだけだった。彼女の詳しい人柄を子細に語ったことは恐らく一度もない。それは彼女が、少しばかりだが、普通からズレた人間であったことが大きく関係している。

 四条飛鳥・弥生姉妹は小学生の頃に両親を亡くしている。不慮の事故だったと聞いているが、詳しいことは僕も知らない。知っているのは、彼女達の親類の中に姉妹二人共を引き取れるような裕福な人がおらず、二人は別々の家の養子になった、ということだけだ。姉の飛鳥は広芝家の養子に。妹の弥生は清水家の養子に。僕の記憶が正しければ、広芝家は四条家にとって母方の、清水家は四条家にとって父方の親類だったはずだ。

 別々の家に引き取られたというものの、広芝家と清水家の距離はそう離れていたわけではなかったので、二人は同じ中学、同じ高校に通うことができた。一歳差の姉妹なので、中学高校の三年間の内に二年は「姉妹が別々の家から同じ学校に通っている」という妙な状況になっていた。

 僕が二人と出会ったのは高校生の頃だ。クラス分けの際に僕は四条飛鳥と同じクラスになった。先に述べた複雑な家庭状況から、ないしは本人の性格から飛鳥は孤立しがちな奴だったのだが、僕も両親を亡くしていたこともあって自然と仲良くなれた。当時はまだ中学生だった弥生ちゃんのこともすぐ紹介され、仲良くなった。

 高校一年生の頃、飛鳥は幼馴染の合場佐ら数人とで軽音楽部を立ち上げた。正確には元々存在していたが、部員がいなくなった為に廃部となっていた軽音楽部を復活させたのだ。飛鳥の歌唱力はどうも音楽経験者から見ても(聴いても?)抜群であるらしく、近所の楽器屋やバンドサークルから使わなくなったギター類を譲り受けることもあったくらいだ。

 余談になってしまうが、僕も一応その軽音楽部の部員として籍を置いていた。とは言っても楽器ができるわけではない。主な役目は学園祭時などのライブの段取りだ。つまり設営スタッフである。時折は辞書代わりとして飛鳥の作詞作業に協力していたこともある。尤も、大抵の放課後は彼女達の練習を聴きながら好きな本を読んでいただけだったのだが。

 三年生になり、卒業ライブが終わり、僕もめでたく私立大学に合格して、飛鳥達とは別々の道を歩むことになった。一年に一度程度は久闊を叙する機会を作るつもりだったのだが、去年の連休で会った以来なので思えば一年以上話していないことになる。

 飛鳥本人のキャラクターについて語れと言われると、それはそれでまた難しい。アーティストらしくちょっとズレたところがある奴だったからだ。

 見た目から説明すると、弥生ちゃんよりは背は高く、けれど胸はそこまで大きくはなかった。明るい茶のショートカットと瞳は強い意志が伺えるもので、全体としてはクールな印象を与えてくる。なのに、やはり何処となく顔付きは弥生ちゃんと似ていた。

 特筆すべきところがあるとすれば、公的な場や文書では「私」だったが、僕達の前では「ボク」という一人称を用いていた。こっちの方がしっくり来るんだ、というのは彼女の弁。話し方自体もボーイッシュだった。

 運動神経はかなり良かったが勉強は苦手で、でもUKロックが好きな影響もあって英語は比較的得意だった。作詞作業中に青少年の心理の特徴や社会階層の軋轢についての問いを投げ掛けられたこともあったので、感性だけではなく理性も大事にしていたようだ。音楽に精通した人間に言わせると、そのスタンスは演奏や作曲の場面でも同じだったらしい。

 彼女に関して、印象的なエピソードが一つある。

 ある時、飛鳥は左手首に包帯を巻いていた。僕がどうしたんだ?と問い掛けると、彼女は黙って包帯を解いた。そこには生々しいリストカット痕があった。

 『……ど、どうしたんだ?』

 唖然として再度そう問い掛けた僕に彼女はフンと笑って言った。

 『理解(わか)ってみたくなったんだ、自傷行為をする人間の気持ちが』

 包帯を巻き直しながら続ける。

 『ボクはまだ子どもだ。アルコールの陶酔感もセックスの快感も分からない。……だけど、同じくらいの年代の奴の心の痛みは理解(わか)りたい。リアリティーこそが作品に生命を吹き込む……。リアリティーこそがエンターテインメントなんだ。そう思うだろう?』

 『いや、何処の漫画家先生だよ』

 『……けど、こんな風に傷跡だけ真似てみたところで何も理解(わか)るわけがなかったな。分かっていたことなのに』

 『分かってたならやるなよ……』

 端的に言えば極まった中二病、けれど同時に間違いなく歌の才能はあり、いつも一人で何処か遠くを見て生きている。

 僕の知る四条飛鳥という人間はそういう奴だった。





 懐かしい気分に浸りながらも、僕はそのように四条飛鳥について語った。

 「あー、つまり。歌が上手い痛い奴、か」

 「まあ……うん」

 ……否定はできないが、あまりにも簡潔に纏め過ぎではないだろうか? そういう風に伝わらないように工夫して説明したつもりだったのに。

 「でも、痛い、っていう言葉で思い出したことがある。飛鳥は痛みに敏感な奴だった」

 「……自分の手首切り裂いたくせにか?」

 「うん。変に思うかもしれないけど、本当に痛みには敏感だったんだよ。バンドのメンバーが目の前で骨折した時とか顔真っ青にしてたし。血も苦手だった」

 カッコいい意気地なし、イカした弱虫でありたい。自らそう語っていたように、飛鳥は繊細であり豪快で、強気なのに臆病で、一人が好きなくせに独りじゃ生きられないような奴だった。

 ……あるいはそれは、あまねく子どもがそうなのかもしれないけれど。

 「ふーん……」

 しばらく思案していたが、やがて斉藤狼子は口を開いた。

 「じゃあ次はあたしが話そう。今さっきメールで情報屋に頼んで『フリーダム・ライダーズ』ってバンドについて調べてもらった。……結成したのは大体一年前。だから、お前と地元で会って、家出して、その後すぐだ。よくあるスリーピースバンドスタイルのグループで、ポップスやUKロックのコピーも演奏するが、主はパンクロックやハードコア系のオリジナル曲らしい。ただ、厳密なジャンルは分からないそうだ」

 そりゃそうだろう。そもそも『ロック』という一大音楽ジャンルの中で、何処から何処までが何なのか、なんて正確に言える人間など何処にも存在しない。定義自体が曖昧だからだ。

 音楽ジャンルの区分け自体に曖昧さと恣意性があり、だからこそ音楽は一つひとつがオリジナルなんだ――とは、件の飛鳥の言葉だっただろうか。

 「ボーカルが飛鳥なんだよな?」

 「そうだな。ギター兼任のボーカルだ。芸名ではカタカナで『アスカ』になってる」

 一拍置いて、彼女は続ける。

 「お前の言う通り、四条飛鳥って奴は音楽の才能があったらしい。『フリーダム・ライダーズ』はすぐに知名度を上げ、学生連中とフリーターみたいな非正規雇用の若者を中心に人気になっていった。オリジナル曲のテーマが『どんなに頑張っても何も変わらない日々に対する絶望』『貧しい家に生まれたせいで夢を諦めることになった辛さ』……そんな風に、あまりにも切実だったからだ。自分を大事にしろ、大切にしろ、というメッセージ性の強さは他のアーティストと同じなんだが、痛切なんだな」

 「……そっか」

 ふっと、あの部室での一時が脳裏を駆け巡った。

 ―――『ただ親が死んだからって理由で、借金しなければ大学にも行けないなんて……理不尽だよな。金がなければ人並みに勉強することもできないなんて』

 僕が大学に行くことを決めたこと、師と仰ぎたい先生がいるからある私立の大学に行きたいこと、これ以上おじさん達に迷惑を掛けたくないから奨学金を借りるつもりのこと……。将来のことを問われ、そういったことを答えた直後だった。

 二人きりの部室で、彼女はギターのチューニングを行いながら、ぽつりとそう呟いたのだ。理不尽だよな、と。続けて、「弥生はどうなるんだろう」とも。

 ……そうか。

 飛鳥は僕の、あるいは弥生ちゃんの苦しみもちゃんと覚えていて、それを歌にしているのか。

 それはとても嬉しくなる事実だった。

 「浸ってんなよ。……今から言う情報はあまり喜ばしくないもんだぜ?」

 言葉と琥珀色の瞳に射抜かれた僕は現代に帰還し、先を促した。

 「ストリートやアングラで大層な人気がある『フリーダム・ライダーズ』だが、そのファンクラブが実質的にカラーギャング化しているらしい」

 「……カラーギャングだって?」

 「チーム名は『OFR(アウター・フリーダム・ライダーズ)』。カラーはクリア。……ほう、なるほどねえ。カラーギャングの癖にカラーが透明ってどういうことだと思っていたが、どうやら『声は透明だから』ってことらしいな」

 「つまり、そのファンクラブの悪評が弥生ちゃんの言ってた噂か」

 「そうらしい。事件も起こしてるらしいんだが、如何せんチームカラーがなく、加入条件が『アスカの曲が好きなこと』だから、『フリーダム・ライダーズ』自体が捜査の対象になったことはまだない」

 口振りから察するに、あくまでファンクラブが暴走しているだけであって、そのリーダーが飛鳥というわけではないようだ。いくらか心が救われる。無論飛鳥達がギャング結成の原因の一つではあるのだろうが、歌を歌っている程度で人を捕まえるのはただの思想統制である。

 ロックシンガーの楽曲に影響されて夜の校舎に忍び込み、窓ガラスを割った奴が出てきたとしても、そのシンガー自身は捕まらない。当たり前のことだ。

 ただ、と表情を曇らせて斉藤狼子は続けた。

 「……こいつは未確定の情報だが、その『OFR』とやらは正義の味方ごっこをやってるらしく――しかも、それを四条飛鳥達が煽っているそうだ」

 「……どういうことだよ」

 「ブラック企業に嫌がらせをする、セクハラパワハラ上司を夜道で袋叩きにする……。どうもそういうことを主にやっているらしくて、しかも四条飛鳥がそれを主導してる」

 「本当なのか?」

 「未確定情報っつったろ」

 舌打ちしてそう返し、彼女は笑う。

 それは興味と狂気に満ちた微笑。獲物を定めた肉食獣の笑みだ。

 「……ネットで調べられたことはこれくらいらしい。どうやらこれ以上は直接出向いて調べた方が早いらしいな。ちょうど明後日――金曜の夜に『フリーダム・ライダーズ』が定期ライブをやるそうだ」

 行けるよな? そう問われる前に僕は金曜に予定がないことを思い出していた。行けるよな、と問われこう答えた。

 行くに決まってるだろ、と。

 「あー、いいね。最高だ。なら金曜の朝集合、そのままバイクでぶっ飛ばして東京行くぞ。直接そのロックシンガー殿に話を聞いてやろうじゃねえか」

 「いや、行くのは良いけど、東京までバイクって……!」

 「安心しろ、六時間もありゃ着く。お前は後ろに乗って振り落とされないように捕まってりゃいい」

 とりあえず今日のお前の仕事は終わりだ。

 そう告げて、彼女は日課であるトレーニングを始めた。





 昔から友達が多い方ではなかった。ゼロではないが、遊びに行くような間柄は両手で足りる。その中でも、普段から連絡を取り合うのは二、三人。今なら若宮四季などだ。

 友達が多い方ではない――はっきりと言ってしまえば友達作りが下手な方である自覚はあるので、一度仲良くなった相手とはずっと親交を持っていたいと考えている。

 『……お掛けになった電話番号は現在使われておりません……』

 だから、こういうことがあると結構、凹む。

 あまり聞く機会のない音声に溜息を一つ。

 四条飛鳥に会いに行く前に、失踪前の彼女がどんな様子だったのか、あるいは失踪後の足取りがどうだったのかを尋ねられる相手がいないかと考えた僕の頭に浮かんだのは「合場佐」という名だった。

 合場佐。

 四条飛鳥の幼馴染であり、軽音楽部時代はベースをやっていた男だ。二人の間には幼馴染特有の他の者が割って入れない絆があった気がする。

 だから、アイツならば今の飛鳥のことを知っていると思ったのだが……。

 「……空振り、か」

 鈍いところのあった奴で、高校時代はメールアドレスを変えても通知してこなかったことが何度かあった。そのことを責める度に「どうせ学校で会うだろ」と彼は当たり前のように返答していた。それと同じことだと信じて、車窓に流れる見慣れた景色を眺める。

 僕の地元は何処にでもありそうな地方都市だ。バスと電車を乗り継げば大学から一時間強で着く。おじさん達の家から通えない距離ではないので当初は僕も直接通学するつもりだったのだが、おじさんの「大学の内から一人暮らしの練習をしておきなさい」との助言で下宿を借りることになった。ありがたさと申し訳なさで一杯だ。

 まあ、おじさんの家には思春期の娘がいるので、僕としても幸いだった。義理の妹であっても家の中に年頃の女子がいるというのは疲れる。色々と気を遣うからだ。今日も一泊するつもりなので気を遣うだろう。疲れる。

 けれど、考えてみれば今僕は斉藤狼子という年頃の女子と半同棲しているわけで。いくら仕事とは言え女子が家の中にいるのは同じだというのに、この気分の差はなんなのだろう。気分の差というか、気遣いの差か。義理の妹に接する時のような気まずさはあの空間にはない。

 忌憚のない考察を述べれば、斉藤狼子という女子が僕の異性の好みから外れているからだろう。僕は自身の上背が平均的だということもあって、昔から背の小さい女子が好みだった。あんな風にモデルでもいないような長身は正直論外だ。背が低いことに加えて、こちらを慮ってくれるような子が理想的だ。斉藤狼子も僕の内面を言い当てることがあるが、あれは僕を思い遣っているのではなく単に見透かしているだけだろう。

 そんな極めてどうでもいいことを考えている内に電車は駅に着く為に減速し始める。そう、どうでもいいことだ。どんな子が好みだと考えたところで出会う縁も付き合う縁もないのだから、無駄でしかない。

 こればかりは偶然のせいだけではなく自身の怠慢も大きいが、そこは見ないフリをして駅のホームに降りたった。





 妹がいた。

 目が合った。

 改札をくぐった瞬間にその姿を見つけ卒倒しそうになる。目が合ってしまっているので気付かないフリもできず、手を上げて挨拶の代わりとした。

 駅舎内にあるベンチに彼女は座っていた。決して大きくはない駅だ、大学とは違う。知り合いに会って声を掛けないわけにもいかないだろう。況して、相手は家族だ。

 「久しぶり」

 「……久しぶり」

 無愛想に僕の妹、旭ヶ丘ひなこは応えた。

 こうして向き合ってみると、特徴的な片二重がよく分かる。濃い茶のサイドテールはアシンメトリーな自身の顔立ちに合わせたものであるらしい。

 「……何じろじろ見てんの」

 「いや、しばらく見ない間に化粧が上手くなったなって」

 元々整った顔立ちをしていたが、更に目立つようになったと思う。不機嫌そうにへの字に歪んだ口元を除けば立派な美少女だ。こちらも見事にアシンメトリー。

 僕の言葉に彼女は気分を害したのか、何も応えず顔を逸らした。

 しまった、怒らせてしまっただろうか? そう危惧するも、差し出された右手でそこまで苛ついているわけではないと察する。

 「……荷物。持ったげる」

 一瞬間思考し、断った方が不機嫌になるだろうと考えて素直に礼を述べておく。

 「ありがとう」

 「ん」

 お土産が入った一番軽い荷物を一つ渡す。どうやら偶然駅にいたわけではないらしい。おじさん達に送ったメールを知って、僕を迎えに来てくれたのだろう。

 物凄く無愛想なだけで、そういう優しさは持っている奴なのだ。旭ヶ丘ひなこという少女は。

 「……久良君、今日はどうしたの」

 「いや、別に何もないよ。読み返したい本を取りに帰ってきただけだ。明日には戻るし」

 「ふーん……」

 建物を出て二人で歩き始めるが、どうにも気まずい。恐らくひなこも壊滅的に無愛想なだけで、僕を蛇蝎のように嫌っているわけではないのだろうが――そうではないと信じたいが、それでも、一緒にいると息が詰まる。

 その理由は多分、いつ頃からか距離感が狂ってしまったからだろう。

 「久良君、今日何食べたい?」

 「……なんでもいいよ」

 「ん」

 ひなこが僕のことを「お兄ちゃん」と呼んでくれなくなったのはいつからだろう。いつからか、彼女は僕を「久良君」と名前で呼ぶようになっていた。

 大人になったから? いや違う。彼女は何処か、ある瞬間に、僕が「お兄ちゃん」ではないと理解したのだ。だから、そう呼ぶことをやめた。

 言われてみれば当然で、僕はおじさんの家に引き取られてからずっと彼女の兄をやってきたつもりだったが、血の繋がった兄妹ではない。だから彼女の反応、変化は当たり前のもの。だけれど、僕からすれば、ついこの間まで妹だった相手が急に他人に――親戚の女の子に変わってしまったのだ。それまで通りに接することができるはずもなく、どう接すれば良いかが分からない。

 以降、僕と彼女の距離感は狂ったまま。嫌い合っているわけではないのに、何処か気まずさを抱えて、今に至っている。

 一緒にいるのだから何か話さなければ。でも、何を話せばいいのだろう。

 昔はもっと自然に話せたのに。そんな後悔をしても仕方ないことはもう重々承知なので、当たり障りのない話題を振っておく。

 「ひなこ」

 「ん」

 「高校、卒業したらどうするんだ?」

 相手は高校三年生。これくらいの話は友達といつもしているだろう。すぐ答えられるはずだ。

 けれど予想に反し、彼女は口を開こうとしなかった。二年前までよく通っていた書店の前を通り過ぎ、横断歩道を渡って、小さな公園が見え始めた頃、やっとひなこは答えた。

 「……大学、行く」

 「そっか」

 家まではもう少しある。気まずさを少しでも埋めようと僕は言った。

 「何処の大学とか、もう決めたのか?」

 「ん」

 「……そっか」

 次いで、推薦貰えそうだから、と小さな声で続ける。

 推薦が貰えるということは成績は優秀で素行も問題ないのだろう。結構なことだった。

 が、続けて告げられた言葉は欠片も結構ではなかった。

 「R大学。久良君と一緒に住む」

 「…………は?」

 ぼそりと呟かれたのはどうやっても聞き逃すことのできない未来予想図。

 僕と同じ大学に行く?

 それは構わない。良い大学だし、私立なので多少学費は高いが、いざとなれば僕と同じように奨学金を借りればいい。

 ただ、その次の言葉は問題だった。問題でしかなかった。

 僕と一緒に住む? 何故? どうしてそんな考えが出てきたんだ?

 「……二人で住んだら安いでしょ」

 困惑する僕の顔を見て、酷く不機嫌そうにひなこは言うが、そういうことではない。

 確かに二人用の部屋を借りた方が家賃も光熱費も安上がりになるだろうし、食費にしても一人分の料理を作るよりは効率的だ。

 ただ、だからと言って、二人で住むというのはマズいだろう。

 「……嫌なの」

 「嫌ってわけじゃないが……」

 じろりと睨まれ、思わず目を逸らした。

 決して嫌ではない。気まずいだけだ。駅から家までの三十分弱の道のりの会話にさえ困るのに、一緒に生活するとなったら僕の胃がもたない。それ以前に兄妹とは言え、男女が同じ部屋で生活するなんてありえない。

 「……でも、いくら安上がりでも、僕と一緒に生活するなんて嫌だろ?」

 これまでだって、何度不慮の事故や些細なミスでひなこの裸や下着姿を見ることになったか分からない。その度に彼女は声を荒げはしないものの酷く口数が少なくなり、僕は胃を痛めていた。なのに、一緒に住むだなんて。

 だが、意外にも彼女は平然とこう言った。

 「……今までも一緒に暮らしてたから、別に嫌じゃない」

 目を合わせることはなく、声も不機嫌そうだったけれど。

 でも、僕と一緒にいることが「嫌じゃない」と、彼女はそう言ってくれた。

 それは何年も距離を計りかねていた僕にとって、かなり気が楽になる言葉だった。

 「……久良君」

 「ん?」

 「鈍感って言われること、ない?」

 「ないけど……」

 問いの意味は分からなかったが、僕の返答で彼女が不機嫌になったことだけは口がへの字に戻ったことで理解できた。

 おじさんもおばさんも仕事で夕方まで帰ってこないということは分かっていたが、一応「ただいま」と言って玄関をくぐった。誰に言ったわけでもない、儀礼的なものだ。

 「……おかえり」

 すると、真後ろからそんな小さな声が聞こえてきた。いつも不機嫌そうな声音をしているが、やはりコイツは優しい奴だと思う。

 「ありがとう、ひなこ」

 「……なんでお礼言うの」

 「なんでって……」

 なんで、と問われても、「おかえり」という言葉が嬉しかったからというそんな理由しかないのだけど……。

 どうしてかまたやたらに不機嫌になった彼女は僕を置いてさっさと廊下の奥へと消えてしまう。僕からすれば、彼女の反応の方が余程「なんで?」というものだった。

 こういう瞬間に気まずさを強く感じ、また距離感が分からなくなる。なんで怒ってんだよ、と問い掛ければもしかしたら答えてくれるのかもしれないが、火に油を注ぐ結果にならないとも限らない。それが怖くて、これ以上彼女との距離が離れてしまうことが嫌で、僕は結局何も訊けないのだった。

 溜息を一つ吐くことで困惑を消化し、二階へと上がる。ひなこの部屋の隣、元々おじさんの書斎だったその一室が僕の部屋だった。

 数ヶ月ぶりに中へと入る。最近帰っていなかったので埃が積もっているかもしれないなと思っていたが、そんなことはなく、春に帰ってきた時よりも綺麗になっているくらいだった。おばさんか、ひなこか。どちらかが定期的に掃除してくれているのだろう。

 衣服を入れてきたスポーツバッグを置き、早々と部屋から出る。

 約束の時間まではまだ少しあるが、遅れるよりは早く着く方が余程良いだろう。辿ってきた道のりを戻って玄関へと向かう。

 「……何処行くの」

 ひなこからそう問い掛けられたのはスニーカーの靴紐を結んでいる時だった。

 「……野暮用、かな?」

 どう答えるか迷った末にそんな言葉を紡いだ。

 「高校の頃の友達が失踪したから、その理由を調べる為に聞き込みに行く」――簡潔に答えるとこうなるのだが、そう言ってしまうと斉藤狼子や飛鳥やその他諸々のことについて話さなくてはならなくなる。色々な意味からそれは避けたかった。

 「……ん。待ってて、私も行く」

 問い返す前に彼女は二階に上がり、すぐにトートバッグを持って戻ってきた。

 「私も行く、って、お前」

 「駄目なの?」

 「駄目じゃあないが……」

 聞き込みと言っても二、三の場所を回るだけだ。ほとんど散歩と変わらない。問題があるとすれば重い空気と僕の心労だけ。

 「ん、良かった」

 けれど、その問題は彼女の笑みを見たことでどうでも良くなってしまった。気まずい雰囲気が一瞬で霧散する柔らかな微笑。

 ひなこの笑みは贔屓目なしに可愛らしい。普段不機嫌そうな顔をしている分もあり、ふいの笑みは堪らなく魅力的だ。その笑顔を見ると多少のことならば許してしまいたくなる。

 「じゃあ、行くか」

 「ん」

 そう。

 彼女の笑みが見れたのだから、話題作りの為に頭を悩ますくらいのことは喜んでしてやろうと思うのだ。

 大学に通う上での注意点や高校の内にしておいた方が良いことなど話しながら、二人で街を歩く。

 もう世間はすっかり夏休みのようで、平日にも関わらずあちらこちらで楽しそうに遊んでいる子どもの姿が見つけられた。いつの時代も長期休暇は楽しいもの。大学での勉強が好きな僕であっても休みは嫌いではないし、何より楽しげな街を見ているとこちらまで楽しい気分になってくる。温暖化の影響かそれとも単なるヒートアイランド現象か分からないが、年々酷くなる暑さだけが玉に瑕。他に気になることは日焼けくらいのもので、概ね夏という季節に不満はない。

 「ひなこ」

 「ん」

 「プールとか行かないのか?」

 海岸から離れた内陸地である土地柄、海水浴には馴染みが薄い。僕達の中では泳ぐと言えばプールなのだ。湖が近く、そこには泳げる場所もあるにはあるのだが、やはり海水浴は海でなければならないと僕は思う。

 それにしても、湖で行う海水浴はなんと呼称するのだろう。遥か昔は「鳰の海」とも呼ばれていたそうだから、やはり湖であっても海水浴になるのだろうか。

 そんなことを考えているとひなこが言った。

 「……海に行きたい。久良君が車で送ってくれるなら、行く」

 「僕が?」

 普通免許は持っているし、車は借りればいいから暇が合えば構わないが……。

 「いいけれど、僕のバイトのシフトとひなこの友達たちの予定が合えば、かな。今のバイト、忙しいから難しいかもしれない」

 「……久良君」

 「ん?」

 「本当に鈍感って言われること、ない?」

 「ないけど……」

 またも口をへの字にした彼女の機嫌を直すことに腐心している内に目的地に到着した。

 「割烹 勝山」と掲げられた日本料理屋の向かいにあるコンビニエンスストア。空調の効いた店内に入り、週刊誌を立ち読みしていた若い男に声を掛ける。

 「早いなヒサ。まだ半分も読めてねえんだけど」

 そう隆平は朗らかに笑う。

 破顔一笑した顔は前に会った時と変わっていなかったが、身体の方は少し、太ったような気もする。でもやはり高校時代と比べて一番変わったのはさっぱりとした頭だろう。今の彼は板前らしい角刈りだ。

 彼、勝山隆平は僕の軽音楽部時代の友人だった。僕とは違う正規のメンバーで当時はドラムを担当していた。ライブの度に髪を染め、生徒指導の教員と揉めていたことが懐かしい。小洒落た髪型に拘っていたのは、高校を卒業し、実家の料理屋を継ぐことになれば髪で遊ぶことはできなくなると分かっていたからだったのだろう。

 「……で、今日はどうしたんだいきなり。親父に言って仕事抜け出してきただけだから、とりあえず飯でも、とは行かないが」

 「時間は取らせないよ。少し訊きたいことがあるだけだから」

 ひなこは店内で待たせておき、二人でコンビニ前のベンチに腰掛ける。煙草を薦められるが断った。僕は酒も煙草もロクに解さぬ面白みもない男なのである。ついでに言うならば色恋沙汰も。

 「タスクの奴は吸うようになってたんだけどな。飛鳥は一口吸って、『ボクには分からない』って苦い顔をしてた」

 「それは目に浮かぶな」

 ロックシンガーに憧れている割に妙に幼いところがあった飛鳥だ、煙草なんて好きになれるはずもない。棒付き飴の方が余程好みの味だろう。本人は認めたがらないだろうが。

 一呼吸置いてから僕は切り出した。

 「聞きたいのはその飛鳥のことなんだ」

 「……何かあったのか? つい最近も弥生ちゃんに色々訊かれたんだが」

 しまったな、もう弥生ちゃんが訊ねた後だったのか。だとしたら隆平から得られた情報は僕達に伝えてくれたと考えるのが自然だ。

 無駄足になっちゃったかな、と思いつつも僕は問い掛ける。

 「聞いているなら話は早いけど、飛鳥が家出……みたいな状態らしくて。何か知らないかなと思ってさ」

 「いやあ、知らないなあ。俺も連絡をマメにする方じゃないからなあ……。ほら、去年カラオケに行った時も言っただろ? 『俺はいつでも実家にいるから帰ってきたらまた会おう』って」

 「そうだった、そうだった」

 日本料理屋である家を継ぐことにした隆平。本人は都会での生活に未練があるようだったが、僕や飛鳥は多少なりとも羨ましかった。

 継げる家があること、自分に何かを託してくれる親が生きていることが、僕達は既に羨ましいのだ。

 「……そう言えば、」

 と、隆平が言った。

 「弥生ちゃんには言い忘れたけど、この間タスクに会ったぜ」

 「本当か? いつだ?」

 「二、三ヶ月前くらい前。春頃だよ。お母さんの命日だかでこっちに帰ってきてたから、一緒に軽く飲んだ」

 「様子、どうだった? 何か言ってたか?」

 「何かって、世間話をしただけだからなあ。家族と仲が悪いから実家に帰ることは少なくなると思うとか、今は東京でフリーターやってるとか……」

 東京でフリーター。ということはアイツは飛鳥と一緒にいるのだろう。ある意味で予想通り。携帯の番号を変えたのは弥生ちゃんから連絡を防ぐ為か。

 「飛鳥を探すのか会いに行くのかよく分からないが、会ったら言っといてくれよ。『こっちに帰ってきたら連絡してくれ。またカラオケにでも行こう』ってさ」

 何も知らない隆平はあの軽音楽部の部室で見せた笑みと全く変わらず、朗らかに笑ってみせた。

 事情を話そうとして、やはりやめておく。彼にはもう彼の仕事と生活があって、必死で生きているのだ。むやみやたらに心配させるものでもない。

 それに――仮に飛鳥達が何かをやろうとしていたとしても、止めればいいだけだ。

 「……ああ。また、皆で遊びに行こう」

 そう。

 それだけなのだから。





 次に向かったのは合場佐の実家だったが、こちらは完全な空振りに終わった。僕の訪問に応じた年若いお母さんは「悪いけど知らないわ」と端的に、けれど仲の微妙さがよく伝わるトーンで僕に告げた。

 合場佐の母親は彼が幼い頃になくなっているという。その後、彼の父親が再婚したのが今の母親だった。彼にとっては義理の母親になる。

 いつだったか、佐は言っていた。

 『要らない、ってわけじゃないんだろうが、俺はいてもいなくてもいいんだろうな』

 腹違いの弟と妹が生まれ、その子達が大きくなると、そんな風に思うようになった、と。その思いは彼の父が死んだ頃から、余計に大きくなったらしい。

 子どもこそ三人いるが、決して裕福な家じゃないんだとアイツは語っていた。だから自分はさっさと自立しなければならないと――そして、そのことを恐らく義理の母親は止めないだろうと。

 「家族っていうのは……難しいな」

 「……急にどうしたの?」

 「いや、ふと思ってさ」

 帰り道。

 幼い頃と同じように夕暮れに染まる歩道橋を二人で並んで歩く。

 合場佐の場合のように血縁関係がない為に家での立場が複雑になることもあれば、日々報道されているように血が繋がった親が子を、子が親を殺すことだってある。

 普通、家族とは血の繋がりを基にした集団のことだ。家計を共にしているのは世帯であって、家族ではない。故に同棲している恋人同士は家族ではない。だが、その恋人同士が結婚すれば家族になる。子どもが生まれれば家族が増えることになるが、二人が離婚すれば家族は減る。そして、再婚すればまた増える。その子が結婚することで更に家族は増えていく。

 家族だから愛に溢れているわけではないし、血の繋がりがなければ家族になれないわけではない。少なくとも僕はおじさんとおばさんを親だと思ったことはないけれど、親代わりとして、家族として良くしてもらったと思う。ひなこだってそうだ。実の妹ではないし、向こうがどう思っているかは分からないが、実の妹のように可愛い存在だ。

 「ひなこは家族ってなんだと思う?」

 街角を曲がりながら戯れに問い掛けた。

 彼女は口をへの字にし、何を馬鹿なことを訊いているんだか、という風に答えた。

 「……自分達のことを『家族』だと思っている人達のこと」

 「それだと、ほとんど定義としての体を為していない気がするけどな」

 仮に「日本人とは『私は日本人だ』と思う人間のこと」と定義してみると分かりやすいが、これは明らかに循環定義――内容が堂々巡りになっている。結局、文章中の『日本人』が何なのかが分からないのである。こういったものは定義として採用されづらい。

 が、ひなこは平然と続けた。

 「……私は文系だから数学も哲学も詳しくないけれど、ミュンヒハウゼンのトリレンマくらいは知ってる。何かを決めるってことは、そんなに簡単なことじゃないでしょ?」

 「確かにそうだ」

 そもそも不完全で有限の認識と有限な言葉しか持たない人間が何かを明確に定義しようとすれば何処かで循環論法か無限後退に突き当たってしまう。

 ……しかし、それはともかくとしてミュンヒハウゼンのトリレンマを引用する女子高生がこの世にいるとは思ってもみなかった。こういう小賢しいところは血が繋がっておらずとも僕の妹だなと実感する。

 ひなこは静かに続けた。

 「……家族だと思っているから、『家族』。厳密なことは分からないけれど、普通に生活していく分にはそれくらいで良いと思う」

 「そうなのかもしれないな」

 こんなやり取りで、やはり彼女は僕の妹だと実感するのと同じように。

 血が繋がっておらずとも、離れて暮らしているとしても、僕達は紛れもなく家族なのだろう。

 「ひなこ」

 「ん」

 「お前、詩や作文が得意だったよな。正確さは抜きにして、ただの文学の表現として『家族』を表現するなら、どうする?」

 僕達の家が見え始めた頃、僕はそう問い掛け、彼女は少し悩んで言った。

 「『誰の目にも見えないけれど、本人達には確かに分かる繋がりの名前』……かな」

 「……良い表現だな。文系を自称するだけはある」

 「……ん」

 とても詩的で。

 そして、素敵な説明だった。





 久しぶりにおばさんの手料理を堪能し、おじさんと飲めるようになったばかりの酒を飲み交わしたりして、その日は眠りに着いた。

 久々の帰省だったが幸いにしてひなこと脱衣所で鉢合わせることはなかったので胃を痛めることはなく、よく眠ることができた。お風呂に入ろうとするタイミングが同じせいで、一緒に暮らしていた頃は不幸な遭遇が日常茶飯事だったのだ。

 斉藤狼子との生活のお陰か、翌朝は六時前に目が覚めた。やることもないので一階に下り、朝食でも作ろうかと考える。中学生の頃から夕食作りは手伝っていたが、朝食に関してはずっとおばさんに作ってもらいっぱなし。たまにはお返しをするのもいいだろう。

 そうは言っても、まだ六時。朝の支度をするには早い時間だった。

 「……シャワーでも浴びるか」

 妙に蒸し暑い碁盤の目の中よりは随分とマシだが、それでも夏だ。多少は寝汗を掻いている。さっぱりしておくのも良いだろう。

 そう考えて風呂場に行こうとして、足を止めた。嫌な予感がしたからだ。

 廊下で目を閉じ、そっと耳を澄ます。微かに聞こえるのはシャワーの音。入っているのはひなこだろう。予感的中。危なかった。

 そんなこともありつつ朝の一時は過ぎていき、おじさんは会社に出勤し、おばさんはパートへと向かった。

 「……久良君、いつ帰るの」

 二人きりの家、冷房の効いたリビングでテレビを見ていると、ひなこにそう問われた。

 ワイドショーで流れているのはある都市で親子が餓死したというニュース。冷房を点けるどころか、おにぎりさえも買えない家庭があるというこの国の酷い経済格差に顰めた眉をどうにか元に戻し、僕は答える。

 「昼過ぎかな。おばさん達には夜までいなさいよって言われたけど、明日は朝早くから用事があるから。準備しないと」

 そう、朝っぱらからバイクで東京に向かうという素敵な用事が待っているのだ。

 「ん」

 いつものように返事を返したひなこは「今日は用事あるの?」と訊いてくる。むしろそれは折角の夏休みだというのにリビングでごろごろしているお前の方に尋ねたいくらいだ。友達や、あるいは彼氏と何処かに遊びに行ったりはしないのだろうか? 彼氏がいるのかどうかは知らないが。

 「今日も少し野暮用がある、かな」

 「……将棋したいんだけど」

 「将棋か。僕もしたいな」

 ひなこは将棋がかなり強い。幼い頃の僕は将棋ばかりしていたから、その影響で彼女も始め、いつの間にやらその辺りの将棋部では相手にならないほど強くなってしまっていた。

 彼女と指す将棋は好きだ。会話をする必要がないので気まずさも感じず、けれど何処か通じ合っている気がするからだ。一方で、あまり女の子らしくない趣味を教えてしまったなと後悔する時もあるのだが……。

 「ん。昨日と同じ、探偵ごっこ?」

 「探偵ごっこって……。まあ、そうなるのかな」

 聞き込みに行くわけだから「刑事ごっこ」でもいいかもしれない。

 「一緒に行く」

 「いいけど、あんまり面白くないと思うぞ? お昼くらいは奢ってやるけど」

 「いいよ。将棋しながら行こう」

 「将棋? ひなこお前、目隠し将棋できたっけ?」

 「ん。練習した」

 それならばいいのだが、しかし、またどうして目隠し将棋なんて練習する気になったのだろう? 十年以上一緒に暮らしていたというのに彼女の内面は相変わらず謎だ。

 「……ずっと昔から思ってたけど、久良君って勉強ができるだけだよね」

 気になったので本人に尋ねてみると、そんな辛辣な答えが返ってきた。事実なので否定できないのが悔しいが、純粋な疑問を口にしただけでどうしてそんなことを言われないといけないのか。

 目隠し将棋をしながら川沿いの並木道を歩く。男女二人が会話の合間に「3四歩」「2二角」「同銀」などと呟きながら歩いている様は傍から見ているとさぞかし異様だっただろう。

 「ひなこ。お前、将棋する友達はいるのか?」

 勉強ができるだけと言われて悔しかったので、つい意地悪い質問をしてしまう。いけない、空気が緩んでいる証拠だなと自省するも、ひなこは特に気にした様子もなく返す刀でこう言った。

 「……1九玉。久良君は彼女いないみたいだね」

 何処でそう判断したのか分からないが、それも事実なので何も言えなかった。見栄を張って「最近できた」と言ってみてもいいが、妹に対してムキになったところでなんにもならない。空気が悪くなるだけだ。

 なので大人しく完成した穴熊を攻略するために頭を割くことにした。





 「……タスクさんっスか? 最近も来ましたよ」

 サンドバッグの殴打音や縄跳びの音が聞こえる中、高校生くらいの少年は妙に大きな声で言った。

 川沿いにあるボクシングジムの中だった。手が空いていた少年を呼び止めると「入会希望っスか?」と問われたが否定して、合場佐について切り出し、返ってきたのがその言葉だった。

 合場佐は学生の頃、不定期でこのジムに通っていた。もしかしたらと思い訪ねてみたのだが、ビンゴだったようだ。

 「いつ頃来たのか覚えてる?」

 「三ヶ月くらい前っスかねえ……。もうずっと基礎トレもしてないからって言ってたけど、頼み込んだらスパーに付き合ってくれたりして、しかも強いんスよ。いつの間にかスイッチもできるようになってたりして。護身術代わりに習ってたっていうの絶対嘘っスよね、強過ぎますもん」

 「まあアイツ、元々両利きに近い左利きだしな。喧嘩も昔から強かったらしいし」

 ギターはレフティ、ボクシングもサウスポースタイル、でもペンや箸を使うのは右というクロスドミナンスだった。それ以前に、朴訥とした印象を与えてくる割に器用な奴だったのだ。高校時代もギターを弾きバイトもしつつジムにも通う、という多忙な生活を送っていた。

 「どれも半端にしかやってないから両立できるんだ」とは本人の主張だが、ギターかボクシングか、どちらかに絞ればプロにもなれるのではないか?などと僕は思っていた。

 ……尤もどちらの場合も、プロになれるまでは金銭的に酷く厳しく、仮にプロになれたとしても生涯その道でやっていくのは難しいと聞く。早く家から出て自立しなければならなかった佐には元より選ぶことのできない道だったのかもしれない。件の『フリーダム・ライダーズ』のベースは別の人物だったので、ギターはもうやめてしまったのだろう。

 「……ところで、どうしてそんなこと訊くんスか? なんかあったんスか?」

 「いや、ちょっと喧嘩して、連絡先が分からなくなっちゃっただけだ」

 「ああ、じゃあ俺から謝っときますよ。俺も連絡先は知らないけど……でも、今度ジムに来た時に伝えておきます」

 ありがとう、助かった、という言葉と共に少年に別れを告げる。連絡先を直接訊けるよう祈りながら、ジムを出た。





 建物の日陰で何か考えていた妹に「お前が持ってる歩は三枚だぞ」と教えてやる。

 「……分かってたし」

 「そっか。なら良いんだけど」

 嘘吐け、絶対分からなくなってただろ、という言葉は飲み込んで待たせたことに関する謝罪を述べた。

 自分が取った歩兵の枚数が分からなくなるのは目隠し将棋の初心者にありがちなことなのだ。盤上の駒だけではなく持ち駒も覚えておかなければならない分、目隠し将棋はブラインドチェスより多少難しい。

 二人で並んで歩き出す。地方都市だけあって、建物の高さは全体的に低い。平たい街を進みながら、京都と比べると車も随分少ないな、などと独りごちる。先程から車道側を歩いている僕にとっては幸いなこと。レディーと歩く時には男子は車道側を歩く。基本的なマナーだ。相手が妹でも変わらない。

 さて、どうするか。

 将棋の方ではない。そちらはもう終盤戦に差し掛かっており、後はどう寄せるかというだけだ。

 問題は飛鳥達のこと。飛鳥も佐も友達が多い方ではない。近況を探ろうにも当てがないのだ。

 飛鳥の家――広芝家にでも行ってみようか? いや、家族には弥生ちゃんが散々尋ねたはずだから、今更僕が何か訊いたところで新しい情報は出てこないだろう。それに、あの家族が何か知っているとも思えない。

 飛鳥が養子になった広芝家はあまり良い家庭環境ではなかったらしい。弥生ちゃんには隠していたが、そのようなことを僕に語ってくれたことがあった。少なくとも飛鳥のことを心底に想い、実の娘のように扱っている、という感じではない。

 「家族っていうのは難しいね」

 「……またその話?」

 机の向こう側、オムライスを口へと運ぶひなこは呆れたように言った。

 何処かご機嫌な彼女。その理由は立ち寄ったカフェが空いていたからか、それとも出てきた料理が美味しかったからか。

 「……ん」

 「美味しい?」

 「ん。……あと、投了」

 「そっか」

 それならば良かった。どちらも。良い勝負だったし、良い料理だ。僕が選んだドリアも中々の美味。

 もう野暮用は終わったので昼食後は家に帰り、下宿へと戻る支度をする。とは言っても、持ってきた衣服をスポーツバッグに詰めるだけなのですぐ終わった。

 階段を下りるとひなこがいた。

 「……帰るの」

 「ああ。今朝も言ったけど、用意があるから。おばさん達には謝っといてくれ」

 「ん」

 スニーカーを履いて玄関を出ると、当然のようにひなこもついてきた。駅まで送ってくれるらしい。優しい奴だ。

 「……ねえ、久良君」

 駅へと向かう道中。

 ふいに彼女が言った。

 「今度、いつ帰ってくるの」

 「今度か……。バイトの都合が合えばお盆には帰るよ」

 「ん」

 しばしの無言を挟んで、ひなこは目を伏せ、顔を背けて訊く。

 「……帰ってくるよね?」

 「ちゃんと帰るよ」

 「ん」

 それはもしかしたら彼女なりの心配だったのかもしれない。

 詳しい事情は知らなかっただろうが、なんとなく、僕の様子がおかしいと気付いたのだろう。そしてそれは彼女の言うところの「探偵ごっこ」を見たことで確信へと変わった。

 だから、問い掛けたのだ。

 帰ってくるよね、と。

 それは飛鳥と弥生ちゃんと同じだった。多分、ひなこは弥生ちゃんが飛鳥を心配したのと同じように、僕のことを心配していた。

 妹だから、兄や姉のことはなんとなく分かってしまう。他の人は分からずとも、自分だけは分かる。そういう感覚。

 ひなこの言葉を借りれば、『誰の目にも見えない、けれど、本人達には確かに分かる繋がり』―――。

 「……大丈夫。八月中には、またちゃんと帰ってくるから」

 そう考えていると妙に愛おしくなって、彼女の頭を撫ぜた。柔らかで指通りの良い髪は幼い頃と全く変わらない。

 次いで、しまった、怒らせたかな、と隣を窺った。

 隣を歩く彼女は俯いていて、顔色は分からない。

 「……ん」

 でも、そんないつもの返答で彼女が怒っていないということは理解できた。


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