第53話 土の天秤

 ***


 その剣を受けた瞬間、身体中の血が遡った。戦場に比べれば軽い、しかし人を殺すには十分な重みが剣を伝ってロタの腕に響いた。渾身、弾き飛ばす。


「ロタ!?」


 エイラの声がした。焦ったような顔で後ずさる男との間合いを詰める。美しい動きだった。戦場にはまるで似合わない、流れるように優美な剣筋。


「……どうして」


 自分を突き動かす感情が、怒りなのか、恐怖なのかは、もはやわからなかった。あと一瞬遅ければ、エイラを失うかもしれなかった。それが怖くて、足を踏み出す。横に引いた剣を彼目掛けて振る。がきりと硬い金属音がして、剣がぶつかる。防がれた。


 ならもう一度、


「ロタやめて!」


 振り上げた剣を止める。次の瞬間彼の手を蹴りあげた。剣が飛び、石の露台をひっかくように落下した。


「その人を殺してはだめ」


 震える声で紡がれる言葉を聞きながら、露台の際に追い詰めた彼の首に、すっと剣先を突きつけた。


「どうしてですか」


「その人は、必要なんです。……この国に」


「エイラさん?」


 どうしてエイラが彼をかばうのか、心のどこかではわかっていた。


「ロタ……嘘をついてごめんなさい。わかったでしょう。私、あなたを一人にするつもりだったわ」


「私も、嘘をつきました。あなたが助けようとしてくれた命を無駄にするために、ここに来た」


 男を睨んだまま、背から聞こえる声に答えた。


 焦げ臭い風が吹いた。


「アスタル様、ごめんなさい。……私、死にたくありません」


 遠い怒号に、エイラの澄んだ声が重なる。


「私があなたについてきたのは、もちろん初めは這い上がりたい一心だった。けれど、お仕えするうちにだんだん思い始めたんです。あなたなら、私のような、くだらない憎しみを抱く人間がいない世界を作れるんじゃないかって。人を憎んで、踏みつけることに喜びを覚えるような、そんな人間がいない世を」


 剣先は、今だぴたりとアスタルの喉を指していた。だが、エイラの静かな声が、その喉を掻き裂く欲を押さえ込む。


「あなたは恐ろしい。でも、私に確かな希望をくれたんです。そしてあなたはきっと、これまでを忘れるほど良い世界を作れるはずです」


 アスタルの黒髪が靡く。その向こうで灰色の雲が割れた。


「けれど、一つだけ忘れないでください。その世界に生きているのは、ひとりひとり、笑い、泣き、傷つければ血を流すひとなのだと」


 剣を下ろした。彼にはもう、殺意はない。そして、自分の胸にうねっていたその気持ちもいつの間にか消え失せていた。光の筋が、灰色の空を切っている。


「あなたがお好きな紅茶は、左の戸棚の奥に入っています。代わりの者を見つけたら、そう教えてあげてください」


 腕を引かれた。振り返ると、雲の隙間から差した色の光に、美しい笑顔が照らされていた。


「いきましょう、ロタ。今度こそ、二人で」


 彼女の後ろには、駆け込んだ時のまま開け放した扉の奥で同じ光に浮かび上がった、礼拝堂の三叉剣が見えた。ロタは微笑んだ。


「はい」


 扉を抜ける直前、エイラは主を振り返った。光の粒が、穏やかな顔をつうと伝い落ちる。


「さようなら。あなたと見た未来は、美しかった」


 呆然と立ち尽くすアスタルを残して、二人は階段を降った。


 ふと、あの貧しい村の、湿った春の土の匂いを思い出しながら。






 爆音が耳をつんざく。

 冷たい空気を、赤い炎が燃やす。


中心部へと走り行く兵たちを避けながら、白煙を上げて燃え盛る木の門扉を通り過ぎる。

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