呼び声

 台所で洗い物をしていたときのことです。

 我が家は、キッチンとリビングと和室が繋がっていて、どこかで呼ばれればすぐにわかる構造になっています。

 キッチンと和室は直に接してはいないのですが、リビングと和室を隔てる襖を開け放してあったので、和室で寛いでいる人が声を出せば、キッチンにいるわたしにも聞こえます。

 そのとき、和室には父がいました。

 お皿を洗い終えたころ、はっきり男性のものと判る低音の声で名前を呼ばれたので、父のところに用事はなにか訊ねに行きました。

 弟は変声期前なので、今、この家に男声で喋る男性は父ひとりしかいません。

 なのに、和室の入り口に立つわたしを見て、父はきょとんとしていました。

 そしてこう言ったのです。


「呼んでないよ?」。


 そんなはずはないのです。

 世間一般のかたでも女性と男性の声を聞き違えることはそうそうないでしょう。視力が低く人の判別を声に頼っているわたしなら、なおのことさらありえません。

 「ああ……、そう」とだけ返して、わたしはお台所での作業に戻りました。



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