第32話

 今日一日、本当は楽しかった。デートっぽい雰囲気はなくても、いつも通りの木葉が、ちょっとしたことであれこれ文句を言い合う瞬間が、とても大事に思えた。だけどそれを認めてしまうと、余計に別れを告げるのが辛くなる。だからわざとあんな意地の悪い事を言ったのだけど、どうやら無駄だったみたいだ。


「顔、見ないでよ。すぐに泣き止むから……それで、そしたら、ちゃんと言うから」

 そうは言ったけど、流れ出る涙は簡単には止まらない。

 観覧車はいつの間にか一番上へと到達しようとしていた。せっかく答えを言うためにこの場所を選んだというのに、残された時間はもう半分しかない。

 なのに私はまともに声を出す事さえできず、ただ涙を拭うだけだ。会うのは今日で最後と、どれだけ言おうとしても、未練が痛みとなって胸を締め付ける。これじゃダメだと思っているのに、体はちっともいうことを聞いてくれない。


 その時、木葉の手がそっと私に向かって伸びた。

「志保……」

 伸ばされた手は、決して私に触れることは無かった。それは私の生気が失われないための気づかいだけど、やはりどうしてももどかしさを感じてしまう。

 木葉は、まるでそのわずかな距離を埋めるように言葉を紡いだ。


「ねえ志保。志保は、俺と会うのは今日で最後にしようと思ってた?」

 大きく頷いてそれを肯定する。思っていたのとは違ったけど、私がどんな答えを出したのかは今までの会話で伝わっていたみたいだ。

 だけど木葉は、さらにそこから続けた。

「じゃあ、志保は、本当はどうしたいって思ってる?」

「どういう……こと」


 木葉が覗き込むように私を見ていた。木葉の言っている意味が分からない。私の答えはもう知っているはずなのに、なぜこんな事を聞いているのだろう。 

「俺もあれからもう一度考えたんだ。どうするのが俺達にとって一番いいのか。それでも、結局俺の答えは変わらなかった。どうしても、もう会わない方がいいんじゃないかって思ってしまうんだ。だけど……」

 そこで木の葉は一度言葉を切った。私はその続きを求めるように、顔を上げ、木葉を見つめた。


「志保が本当に望んでいることがあるなら、俺はそれを叶えたい。志保の願いは、全部叶えてやりたいんだ」

 私の願い。そう聞かれてハッとする。

 すぐに心に浮かんだ思いがあった。それは答えとは別に、ずっと考えていた事だった。できるか出来ないかを無視した、私の一番純粋な願いと言って良い。

 だけど、すぐにはそれを答えることができない。だって、それは決して叶うことが無いと諦めていた願いだったから。


 それでも、木葉は聞くのを止めなかった。


「話してほしいんだ。俺が全部言ったみたいに、志保にも思っていること全部言ってほしい」

 その言葉に心が揺らぐ。内に秘めていた願いを、全部吐き出したくなる。

 それでも、どうしても躊躇してしまう理由がある。


「それ言ったら、アンタ絶対呆れるよ」

 これを言った時、木葉がどんな顔をするかは分からない。だけど、確実に呆れさせる自信はあった。だってこれは、それくらい大それたことだ。

 なのに木葉はこう言った。


「呆れたりしないよ。どんなことでもいい。志保が思っていること、全部聞きたいんだ」

 それはまるで、意地になって固まっていた心を溶かしていくようだった。

 木葉がいなくなって、それから再び出会えた時の事を思い出す。そこで私は、本当は離れたくないという木葉の思いを、半ば無理やり聞き出した。

 だけど今は、まるであの時とは反対だ。今度は木葉が私の本音を、私の願いを聞こうと、心をくすぐっている。

 だけど本当に言ってもいいのだろうか。言ったところで、きっと木葉をまた困らせるだけだ。そう思うと、開きかけた口も再び閉じてしまう。


「ねえ、聞かせてよ。」

 木葉は最後にそう言うと、後はじっと黙って私の言葉を待った。

 ああ、本当にあの時とは立場が逆になってしまった。

 これは絶対に折れそうにない。今の木葉を見て、なぜだかそう確信できた。それならもう、私が折れるしかないか。


「私、これからバカなこと言うよ。凄く、凄くバカなことを。それでもいいの?」

 やっとの思いで、まずはそれだけを言う。できれば、やっぱりダメだと言ってほしかった。だけど木葉は、何も言わずにただニッコリと笑って頷いた。


 小さく息を吸い込み、覚悟を決める。ドクドクと、心臓が高鳴っていくのを感じた。


(おかしいな。もう会わないって告げようとした時だって、ここまで緊張しなかったはずなのに)

 そんな自分に戸惑いながら、それでも口を開く。『答え』でなく『願い』を、『どうすればいいか』じゃなくて『どうしたいか』を、木葉に伝えるために。

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